<一帯一路・海外遠征 領土拡大か>

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人民解放軍によるウイグル接収[編集]
詳細は「新疆侵攻」を参照
1949年、国共内戦を制した中国共産党は、新疆の接収を行うために、鄧力群を派遣し、イリ政府との交渉を行った。
毛沢東は、イリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を北京の政治協商会議に招いた。
しかし、8月27日、北京に向かった3地域の11人のリーダー達、アフメトジャン・カスィミ(Ehmetjan Qasim)、アブドゥルキリム・アバソフ(Abdulkerim Abbas)、イスハクベグ・モノノフ(Ishaq Beg Munonov)、Luo Zhi、Rakhimjan Sabirhajiev、デレリカン・スグルバヨフ(Dalelkhan Sugirbayev)らイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内アルマトイで消息を絶った。
首脳を失ったイリ政府は混乱に陥ったが、残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィが陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明した。9月26日にはブルハン・シャヒディら新疆省政府幹部も国民政府との関係を断ち共産党政府に服属することを表明した。
12月までに中国人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された[98](新疆侵攻)。
ウイグル族とソ連領中央アジア出身者、モンゴル族やシベ族、回族で構成された東トルキスタン共和国軍(イリ民族軍(英語版))を野戦第五軍に編入した人民解放軍に対抗して、国民党側についたウイグル族のユルバース・カーンは白系ロシア人と中国人ムスリムの軍(帰化軍)を率いていた。1950年、伊吾で国民党勢力の残存していた地域へ侵攻してこれを制圧した(伊吾の戦い)。これによって新疆は中華人民共和国に帰属されることとなった。
この後、民族名称はウイグル族(维吾尔族)と公式に定められ、現在に至っている。
中国政府は1950年ごろ、新疆ウイグル自治区に漢族を中心とする新疆生産建設兵団を大量に入植させた。
その後、入植当初人口7パーセントだった漢族が1991年には40パーセントになり、ウイグル族に匹敵する割合となり[注 14]、駐留する人民解放軍とあわせるとウイグル人よりも多いとも言われる[99]。
新疆ウイグル自治区の設置[編集]
詳細は「新疆ウイグル自治区」を参照
中華人民共和国国旗
1955年には中華人民共和国で2番目の自治区新疆ウイグル自治区が設置された。
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