ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 発音例、1841年2月25日 - 1919年12月3日[3] 78歳没)は、フランスの印象派の画家。後期から作風に変化が現れ始めたため、ポスト印象派の画家の一人として挙げられることもある。
1890年代以降は、「アングル風」を脱し、温かい色調の女性裸体画を数多く制作している。評価も定まり、『ピアノに寄る少女たち』が政府買上げになったり、勲章を授与されたりしている。私生活では、アリーヌと正式に結婚し、子にも恵まれた(→評価の確立(1890年代))。関節リウマチの療養のためもあって、南仏で過ごすことが多くなり、1900年代から晩年までは、カーニュ=シュル=メールで過ごし[4]、リウマチと戦いながら最後まで制作を続けた(→南仏カーニュ(1903年-1919年))。
1907年、カーニュ=シュル=メールのレ・コレットに別荘を買い、晩年をここで過ごした[216]。しかし、リューマチが悪化し、1910年夏にミュンヘンに旅行したものの、帰国後、歩くことができなくなり、車椅子での生活となった[217]。ジャンの回想によれば、レ・コレットには、モーリス・ドニ、ポール・シニャック、ピエール・ボナール、アンドレ・ドラン、アンリ・マティス、パブロ・ピカソなど、若い画家が毎日のように訪れてきていたという[218]。1906年にアリスティド・マイヨールがルノワールの胸像を制作したことを機に彫刻に興味を持ち始め、画商ヴォラールの勧めで彫刻を手がけるようになった。1913年以降は、マイヨールの弟子リシャール・ギノ(英語版)が、ルノワールのデッサンと指示に基づいていくつもの彫刻作品を生み出した[219]。
1911年10月、レジオンドヌール勲章4等勲章を受章した[220]。1912年、手術を受けたが、良い結果にはならなかった。この年、デュラン=リュエルがカーニュを訪れ、椅子から立ち上がることもできないルノワールの様子を見るが、「描く時は、かつてと変わらない、上機嫌で、幸福な彼を見ることができた。」と語っている[221]。動かない手に絵筆を縛り付けたルノワールの写真が残っている。アルベール・アンドレによると、縛り付けた絵筆は制作中は外せないため、絵具を変える度に絵筆を洗わなければならず、画面とパレットと筆洗との間を慌ただしく行き来するうちに、腕は疲労で硬直していたという。こうした苦闘の中から、歓喜に満ちた作品を生み出していった[222][注釈 8]。
1914年、息子ピエールとジャンが出征し、負傷した。1915年、妻アリーヌは、負傷したジャンを見舞いに行った帰り、糖尿病が悪化して56歳で亡くなった[223]。
1919年2月、レジオンドヌール勲章3等勲章を受章した[224]。その年、ルーヴル美術館が『シャルパンティエ夫人の肖像』を購入し、ルノワールは、美術総監に招かれ、自分の作品が憧れの美術館に展示されているのを見ることができた[225]。
同年12月3日、カーニュのレ・コレットで、肺充血で亡くなった[226]。
ルノワールは、死の数時間前、花を描きたいからと言って筆とパレットを求め、これを返す時、「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。」とつぶやいたという[227]。もっとも、この伝説の出所は不明であり、デュラン=リュエルによれば、「私はもうだめだ。」とつぶやいたという。長男ピエールによれば、「2日にわたり肺の鬱血に襲われたが、心臓が止まった時には回復していた。彼の最後の瞬間はかき乱され、半ば無意識の一時的錯乱状態でよくしゃべったが、直接彼に話しかけると大丈夫だと答えた。それから彼はまどろみ、約1時間後に呼吸は止まった。」という[228]。
ルノワールの訃報を聞いたモネは衝撃を受け、「とてもつらい。私だけが残ってしまったよ。仲間たちの唯一の生き残りだ。」と友人に書いている[229]。
日本[編集]
日本人で初めてルノワールの絵を買ったのは、パリで画商をしていた
林忠正であった。しかし、林が購入した作品は、日本で知られることはなく、売却されてしまった[272]。
日本で初めてルノワールに大きな影響を受けた画家は、
梅原龍三郎であった[273]。梅原は、1908年にパリのリュクサンブール美術館を訪れた時、ルノワールの作品に感動し、1909年2月、レ・コレットのルノワールに会いに行った。その年、山下新太郎や有島生馬を連れて再訪し、彼らはルノワールから『水浴の女』を譲り受け、日本に持ち帰った[274]。
日本国内では、雑誌『白樺』などでルノワールが紹介され、中村彝、赤松麟作、土田麦僊などがその影響を受けた[275]。山下が持ち帰った『水浴の女』が1912年の第4回白樺美術展で展示されたのが、日本の公衆がルノワールの絵画に触れた最初の機会であったが、この時はロダンが絶大な人気を博していたのに比べ、ルノワールへの反応は低調であった[276]。第一次世界大戦後にルノワール人気が沸騰し、1919年にルノワールが死去すると、日本の新聞は大々的に関連記事を掲載した。
中沢彦吉や岸本吉左衛門がフランスでロダンやルノワールの作品を買い集め、そのコレクションが1920年に東京と大阪の展覧会で公開されると、新聞でルノワールが熱心に取り上げられた。中村彝は、ルノワール作品に感動し、「どうしても人間を、裸体を、その生命を強調して、ナマナマしく表現し度い」と書き記し、『すわる水浴の女』の模写を制作した。一方、坂本繁二郎は物足りないと評し、岸田劉生は「ルノアルは甘いものだと思つた。画に惢がない。……中心へ行くと、綿をつかまされた様な気がする。」と批判した。この展覧会の頃が、ルノワール熱のピークとなった[277]。また、この頃、
松方幸次郎や大原孫三郎も膨大な西洋美術を収集し、その中にはルノワールの『アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)』(松方コレクションから国立西洋美術館)、『泉による女』(大原美術館)なども含まれていた[278]。こうして日本に紹介されたルノワール作品は、印象派時代のものよりも、後期の作品が中心であり、日本人にとってのルノワールのイメージは、後期の様式を基に形成されてきた[279]。
第二次世界大戦後は、1970年代に、
広島銀行がルノワールの『パリスの審判』を購入するなど、再び西洋美術熱が到来した。1985年頃から1990年頃までのバブル景気時代には、前述のような齊藤了英による『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』の高額落札のほかにも、各地の県立美術館が競ってモネ、ルノワール、ピカソなどの作品を買い求めた[280]。
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