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ザ人物伝 出光佐三

2020-10-10 11:59:39 | 連絡
出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年8月22日 - 1981年3月7日)は、明治から戦後にかけての日本の実業家・石油エンジニア・海事実業家。石油元売会社出光興産の創業者。貴族院多額納税者議員。 
神戸高等商業学校(現・神戸大学)で水島銕也校長に師事し「士魂商才」の理念に感化を受ける。内池廉吉教授の「商業概論」の講義で受けた「商売は金儲けではない」との教えから、1940年に出光興産創業後、大地域小売業を展開した[1]。
弟・出光計助は1966年10月から1972年1月まで第2代社長。長男・出光昭介は1981年6月から1993年5月まで第5代社長。

  • 1905年(明治38年) 神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)に入学。神戸大学在学中、将来外交官になろうと考えていた。
  • 1909年(明治42年) 同校卒業。卒業論文は「筑豊炭及び若松港」。当時同校の卒業生は海運会社の社員に就職するのが通常だったが、神戸で小麦粉と石油・機械油などを扱う従業員3人の酒井商店に丁稚として入店。学友から「お前は気違いだ。学校のつらよごしだ」と言われる。
  • 1911年(明治44年)6月20日 日田重太郎(資産家。日田の息子の家庭教師を佐三が務める)から「働く者を身内と思い良好な関係を築き上げろ。己の考えを決して曲げず貫徹しろ。そして私(日田)が金を出したことは他言するな。」と資金6,000円を渡され満25歳で独立。福岡県門司市(現・北九州市門司区)に出光商会を設立。日本石油(現・JXTGエネルギー)の特約店として機械油を扱った。
  • 1914年(大正3年) 南満州鉄道に車軸油の納入成功。
  • 1919年(大正8年)酷寒の地・満州で車軸油が凍結し、貨車のトラブルが続出していた南満州鉄道に「2号冬候車軸油」を無償で提供。当初は使われてすらいなかったが、単身満州にわたり満鉄本社に直談判し、現地で試験を行い、事故を一掃した。1927年(昭和2年)満鉄創立20周年のときに、感謝状と銀杯が贈られた。
  • 1923年(大正12年) 関東大震災に際し、全店員に禁煙を呼びかける(2ヶ月間)。
  • 1924年(大正13年) 第一銀行(現・みずほ銀行)からの25万円の借入金引き揚げ要請があったが、二十三銀行(現:大分銀行)の林清治支店長が肩代わり融資を決め、窮地を脱する。この頃、自殺説までささやかれる。
  • 1929年(昭和4年)朝鮮における石油関税改正のために奔走。
  • 1932年(昭和7年) 門司商工会議所会頭に就任。
  • 1935年(昭和10年)「満州国」の石油専売制に反対。
  • 1937年(昭和12年)2月 貴族院議員(多額納税)として登院。
  • 1938年(昭和13年)国策会社大華石油設立に反対。
  • 1940年(昭和15年)3月 出光興産株式会社を設立
  • 1953年(昭和28年)5月9日 イラン石油輸入日章丸事件:日章丸二世(1万9千重量トン)が、石油を国有化し英国と係争中のイランのアバダンから、ガソリンと軽油を満載し、川崎へ入港。英国アングロイラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、東京地方裁判所に提訴したが、出光の勝訴が決定し、日本国民を勇気付けるとともに、イランと日本との信頼関係を構築した。このとき、佐三は、東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします。」と答えた
  • 1957年(昭和32年)出光興産の徳山製油所、竣工(3月)。
  • 1960年(昭和35年)出光興産、ソ連石油を輸入(4月)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%85%89%E4%BD%90%E4%B8%89


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