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The 人物伝:フィンセント・ファン・ゴッホ、作品の高騰、日本での受容

2022-04-16 09:53:08 | 連絡
〇作品の高騰
第一次世界大戦後には、前述のようにファン・ゴッホ作品の評価が確立し、1920年代から1930年代の最高価格は4000ポンド台となり、ルノワールに肉薄するものとなった。第二次世界大戦後は、近代絵画全体の価格水準が高騰するとともに、ファン・ゴッホ作品も従来の10倍ないし100倍となり、ルノワールと肩を並べた[342]。1970年には『糸杉と花咲く木』が130万ドルで取引されるなど100万ドルを超えるものが出て、1970年代には美術市場に君臨するようになった。
1980年、『詩人の庭』がクリスティーズで520万ドル(約12億円)という、30号の作品としては異例の高額で落札された[343]。この時期は、記録破りの落札価格が普通になり、サザビーズやクリスティーズといったオークション・ハウスが美術市場を支配することがはっきりした時代であった[344]。
さらに1980年代にはオークションの高値記録が次々更新されるようになった[345]。
1988年2月4日付「リベラシオン」紙は、「昨年(1987年)3月30日、ロンドンのクリスティーズにて日本の安田生命(安田火災海上、現損害保険ジャパン)がひまわりを3630万ドル[注釈 25](約58億円)で落札した[注釈 26]瞬間、心理的な地震のようなものが記録された。……またアイリスは、(同年)11月11日に、ニューヨークのサザビーズで5390万ドルで落札された。」と取り上げている[348]。
日本のバブル景気であふれたマネーが円高に支えられて欧米美術品市場に流入し、特に『ひまわり』の売立ては、市場の構造を根本から変化させ、印象派以降の近代美術品の価格を高騰させた[349]。
さらに、
1990年5月15日には、ニューヨークのクリスティーズで齊藤了英が『医師ガシェの肖像』を8250万ドル(約124億5000万円)で落札し[350][注釈 27]、各紙で大々的に報じられた[345]。この作品は、ヨーによって1898年頃にわずか300フランで売却されたと伝えられるものである[352]。この落札は、1980年代末から90年代初頭にかけての日本人バイヤーブームを象徴する高額落札となった[353]。反面、こうした動きに欧米メディアは批判的で、齊藤が作品を「死んだら棺桶に入れて燃やすように言っている」と発言したことも非難を浴びた[354]。
ファン・ゴッホの油絵作品は約800点であるが、パリ以前と以後では価格に少なからぬ差異があり、主題によっても異なる。高い人気に対して名品が比較的少ないことが高値の原因となっている[355]。
〇日本での受容
戦後は、ファン・ゴッホ複製画の展覧会を見て衝撃を受けたという小林秀雄が、
1948年「ゴッホの手紙」を著した[372]。劇団民藝代表の滝沢修が、
1951年から生涯にわたり、世間の無理解と戦う悲劇的な人生を描いた新劇作品『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』(三好十郎脚本)を公演したことも、日本でのファン・ゴッホの認識に大きな影響を与えた[373]。
1958年に初めて東京国立博物館と京都市美術館で素描70点、油彩60点から成る本格的なファン・ゴッホ展が開催され、日本のゴッホ熱はさらに高まった。2011年現在、27点の油彩・水彩作品が日本に収蔵されているとされる[37



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