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ザ人物伝 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ Johann Sebastian Bach「音楽の父」

2021-07-10 12:07:27 | 連絡
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685年3月31日(ユリウス暦1685年3月21日) - 1750年7月28日)は、18世紀のドイツで活躍した作曲家・音楽家である。バロック音楽の重要な作曲家の一人で、鍵盤楽器の演奏家としても高名であり、当時から即興演奏の大家として知られていた。バッハ研究者の見解では、バッハはバロック音楽の最後尾に位置する作曲家としてそれまでの音楽を集大成したとも評価されるが、後世には、西洋音楽の基礎を構築した作曲家であり音楽の源流であるとも捉えられ、日本の音楽教育では「音楽の父」と称された[1]。
バッハ一族は音楽家の家系で(バッハ家参照)数多くの音楽家を輩出したが、中でも本項で扱うヨハン・ゼバスティアン・バッハはその功績の大きさから、大バッハとも呼ばれている。J・S・バッハとも略記される。
1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命された。1747年にはエマヌエルが仕えていたベルリンのフリードリヒ大王の宮廷を、長男のヴィルヘルム・フリーデマンを随伴させて訪問、これは『音楽の捧げもの』が生まれるきっかけになった[54]。
しかし1749年5月末、バッハは脳卒中で倒れた。聖トーマス教会の楽長という高い地位を妬む者たちが働きかけ、市参事会は後任にゴットロープ・ハラーを任命した。さらに、以前より患っていた内障眼が悪化し視力もほとんど失っていた。しかしバッハは健康を回復したため、ハラーの仕事はお預けとなった[55]。
翌1750年3月、イギリスの高名な眼科医ジョン・テイラーがドイツ旅行の最中ライプツィヒを訪れた[55]。バッハは3月末と4月半ばに2度にわたって手術を受けた。手術後、テイラーは新聞記者を集めて「手術は成功し、バッハの視力は完全に回復した」と述べた[55]。しかし実際には、手術は失敗していた[56]。テイラー帰国後にバッハを診察したライプツィヒ大学医学部教授によると、視力の回復どころか炎症など後遺症が起こり、これを抑えるための投薬などが必要になったという[55]。
2度の手術に後遺症、薬品投与などの治療はすでに高齢なバッハの体力を奪い[55]、その後は病床に伏し、7月28日午後8時40分に65歳でこの世を去った[56]。なお、後年にヘンデルも同医師による眼疾患の手術を受けたが失敗に終わっている[55]



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