先日、初めて英語の動画に日本語の字幕を入れるという作業をした。
以前から感じていたが、この幻想という映像の中では、
新たな事にチャレンジすると、自我の闇が起こってくる。
今回も、字幕を入れるという作業を通して、沢山の闇が起こってきた。
英語を翻訳することも出来ない私が字幕を付けれるのだろうか?
字幕を付けて、皆さんが言ってる様にこの字幕が消えたらどうしよう。
時間を取られる。
出来上がったものを見られたときに、下手だなと思われたらどうしよう。
などなど。
自我の思考がどっかんどっかん起こりながら、字幕を入れるという作業をしている。
その闇を光に捧げながら、イエスに「どうぞ、あなたがなさって下さい」と祈りながら作業を続けた。
この字幕を付けるということを体験しなかっなら、この闇を見つめることは無かった。
そして、イエスに助けを求め続けるということもしなかった。
分離維持のために、
世界をリアルにしたい、私は行為者ではあると信じたいという強烈な欲求を見つめることが出来て、本当に感謝でしかなかった。
イエス、聖霊、神さま
導いて下さり有難うございますm(__)m
教えて下さり有難うございますm(__)m