イエスのガイダンスにより、介護の仕事を始めて、個人の私としては仕事の流れを大体理解してきているが、
毎回仕事に行く前日から、内側を見つめると強烈な恐れが起こってくる。
そして、最近アジャシャンティの禅 空を生きるという本の中で、「コントロール」に関する章があった。
′′′′人間が分離の中で自らを体験することを促すための中核となるものがコントロールへの欲求と意志だということです。
あなたが自分にはコントロールできないと思うとき、そこに恐怖が生まれます。
またコントロールできないことは分かっていてもコントロールへの欲求を手放すことができないとき、あなたは恐れを感じるでしょう。′′′′
この内容が響いた…
本当に、介護の仕事では8割の方が認知症なので、トイレ、食事、お風呂全てにおいて、自我の私の思った通りには相手は動いて下さらない。
そして、その日のその方の状態で反応も違うので、予測不可能である。
だから、私が心から飛びだし、自我と同一化して「私がやってやる!!」という思考を掴んでもやれない……
食事も、中々口を開けて下さらず、介護士の方から、お風呂に入れるから早めに食べさせてね!と言われても、私の思うようには食べ進められず、何度も何度も声をかけながら、心のレベルではイエスに祈るしかない。
それでも、幻想レベルでは、他の兄弟に変わって食べさせると、私が食べさせるよりも断然早く食べられている。
トイレ解除でも同じようなことが起こる。
個人の私のダメダメさが浮き彫りになる…
だから、介護という幻想を使って、毎回自我の私は敗北感を感じる…
自我は介護という仕事、そこに居る兄弟を利用して神に勝とうとする。
でも、その種明かしが直ぐになされる…
イエスと共に居なければ、個人のナナシの設定だとこの職業は自分に合わないと感じて辞めるのだろう……
ただ、イエスのガイダンスとしてはまだ辞めるとは来ていない。
だから、個人の私としては何のためにこの仕事をやるのか?という目的は全くなく、イエスのガイダンスだから…ただやるという事が起こる。
そして、では何のためにか?ということを聖霊がアジャシャンティの本から教えて下さった。
′′′′もっとも単純な見方をすると、自らの本質に関して深遠なるスピリチュアルな目覚めを体験したことがある人と、完全に自由で解き放たれた人々の違いとは次の様なものです。
つまり解き放たれて自由な人々は、完全なまでにコントロールを手放しています。
それは真実です。
なぜならコントロールを手放すと、あなたは自然に解き放たれて自由になるからです。
それは高いビルから飛び降りる様なものです。
あなたは落ちていく自分をどうすることもできません。
重力があなたを、落ちる方向へと引き寄せるのですから。
コントロールを完全に手放すとき、あなたは究極の自己を知るでしょう。′′′′
私は、もともと何もやれていないのだから、神に勝とうとするのを辞めて負けに負けまくる。
そして、全てイエスに委ねてなさっていただく。
イエスは終わった所から見て下さっているので、真実を思い出す目的として、価値あるものを差し出して下さる。
真実を指し示して下さり
いつも、有難うございますm(_ _)m