(6)
何日かしてコトコが帰ってきたとき、彼女は手足に傷をつくり、きれいな毛並みを血で汚していた。前の日の夜、窓の外から彼女の歌声が聞こえていたので、どうやらこの辺りで過ごしていたのだけは確かなようだ。何処かでネズミでも獲っていたのか、他の猫とケンカでもしていたのか…。僕が手当てをしようと近寄っても、彼女はヒラリと身をかわし、触れる事を許さなかった。
「なあコトコ、怒ってるんなら怒ってるんでいいからさ…」
せめて傷の手当てだけは、と言おうとする僕を一瞥し、彼女はぷいと横を向いて、僕のパソコンのキーボードの上に陣取って昼寝をはじめた。会話はおろか、ありとあらゆるコミニケーションを拒絶していた。
昼寝を終えると、コトコは「何か出せ」と言いたげに冷蔵庫の前に移動した。僕はこの日に備え買っておいた最高級の猫缶と鮭の切り身を、このうえなく丁寧に皿に盛り、あくまでさりげなくテーブルに置いた。
コトコは、僕が準備をしている間、まるで興味がないというふうに部屋をうろうろしていた。皿が並んでから数分後、はじめて気がついたかのように首をかしげ、ゆっくりとご馳走に手を出した。そのあまりのわざとらしさに僕は内心ニヤニヤしながら、無表情を装って洗濯物を畳んでいた。
そんな事が、何度かあった。
コトコはだんだん遠出をする日が増え、時には一週間近く僕の部屋に戻らない日もあった。
猫というものは本来そういう生き物だとは承知していたけど、それでも僕は、少なからず寂しさを切なさを感じていた。
コトコは、僕が一緒にいない時間に何をしているのか、決して話そうとしなかった。それを質問しても、あいまいにイエスとノーの間をいったり来たりしてばかりだった。僕の呼びかけそのものに答えない時もあった。
そしてコトコは、次第に歌わなくなっていた。
(7)
また、何ヶ月かが過ぎた。コトコが僕の部屋にやって来る頻度は日を追って減り、僕もまた、コトコのための食事を用意する事が少なくなっていた。僕達はお互いにだんだんと互いのための時間を減らし、その時間を自分達のためにあてるようになっていた。けれど僕もコトコも、まだ、お互いの存在を完全に無視している訳ではなかった。
ある雨の日の晩、コトコは珍しく小さな声で歌っていた。その歌声は相変わらず綺麗で、綺麗な分だけ僕には悲しく思えた。コトコはその小さな身体を震わせ、小さな声で、懸命に歌っていた。まるで命を削るように。そして一瞬、彼女の手足に、ぴしり、と傷が走るのを僕は見たような、そんな気がした。
そしてずっと、コトコの手足の傷は、減ることはなかった。
ある日、僕は、バイト先のコンビ二で週刊誌をめくっていた。深夜三時の雨の日のコンビ二には、まばらにしか客が来ない。商品の入れ替えが始まる明け方までは、こうして退屈をしのぐしか仕方ないのだ。同僚は、ひたすら携帯電話でメールをしているし。
それはほんの偶然だった。その薄い雑誌のモノクロページに、僕はコトコを見つけた。その記事には、こう見出しがつけられていた。
「人の寿命を読み取り、患者を看取る猫。アメリカ・ロードアイランド州」
看取る猫? 僕は目を疑った。モノクロの小さな写真だったが、それは確かにコトコだった。ふてぶてしく退屈そうな顔でカメラを睨んでいる。それは、ある海外のサイエンス雑誌に載った論文を元に書かれた記事だった。端から端まで、一時間かけてその記事を読んだ。決してオカルトの類ではなく、きっちりとした調査の上に書かれた論文を元に記載された内容だった。
ある高齢者介護施設で飼われていたその猫は、数ヶ月後にせまった人の死を感じ取ることができるというのだ。入居者の死の直前に、そのベッドの脇に座る猫…。
「なんだって?」
僕は思わず声に出して呟いていた。同僚が携帯電話の画面から顔を上げ、怪訝な顔で僕を睨む。知った事か。
この猫はコトコではない。それは確かだ。論文の発表時期は最近で、僕とコトコが出会った時期と重なっている。なにより、どうやったらアメリカからここまで、一匹の猫が人の手を借りずに日本の田舎町までやって来ると言うのだ。
…同じ猫でないとしたら?
僕は、一つの可能性に思い当たり、また、小さく呟いた。同僚は完全に僕に構う気を無くした様子で、今度は携帯ゲーム機を取り出して遊んでいた。もはや無法地帯だが、こんな田舎のコンビ二では深夜バイトの補充もままならないのが現実なのだ。もっとも、だからこそ僕が未だにこの仕事を続けていられるのだけれど。
それにしても、こんな偶然がありうるのだろうか。
コトコが何者なのか。何処から来たのか。そしてコトコが何をしようとしているのか。
僕は、確かめずにはいられないと、感じていた。
(8)
家に帰りドアを開けた。コトコは、開けっ放しの窓から僕の部屋に入り込んでいた。それが偶然なのかどうかはわからない。ただ、彼女は、今まで僕が見たどんな時よりも、儚げに見えた。
「なあ、コトコ…」
あれほどに確かめなければと感じていた事が、なかなか口に出せなかった。それは戸惑いでも、不安でもなかった。ただ、漠然とした感情が形になるのが許せないと感じていた。
「俺は、もうすぐ死ぬのか?」
コトコは、僕をじっと見つめていた。一言も鳴かず、ただ、僕の目を覗き込んでいた。
「…いつもみたいに答えてくれよ。気休めなんかいらないんだ。それに…」
それに、俺は、と言いかけて、僕はその言葉を飲み込んだ。
コトコが僕の脇をすっと通り抜け、初めて出会った日に柱に刻んだあの「YES」の文字の前に座り込んだからだ。
「それならさ、それで…」
言いかけた僕の言葉を遮って、コトコは柱の壁に刻まれたYESとNOの文字の間を、トントンと叩いた。
振り返り僕を見た彼女の表情は、何かを問いかけているようだった。
「なんだよ、それ。わからないとかそういうのってないだろ。別に誤魔化してなんか欲しくないんだ。ちゃんと答えてくれよ!」
話しながら、怒鳴り声になっていくのが自分でも分かった。どうでもいいと思っていたはずなのに動揺している自分が情けなかった。
「昔読んだ本に、こういう話があったんだ。一人暮らしの男の家に、一人の女が迷い込んでくる。男はせっせと彼女の世話を焼き、やがて彼女を愛するようになった。そして、男が彼女に全てを捧げると約束したその時…彼女は男の魂を奪ったんだ」
コトコは、無表情に僕の話を聞いていた。話を聞くまでもなく、全てを理解しているという様子で。
「そう、彼女は死神の使いだった。最初から男の寿命を知っていたんだ」
僕は、ふうっ、と息をつき言った。
「なあコトコ、君が死の国からの使いなら、遠慮なく俺を連れていってくれ。
本当はずっと、もうどうでもいいって思ってたんだ。君が来る前から…」
思い出す。四十八回目の就職試験に落ちたあの日、僕は確かに死のうと思っていた。漠然と、けれど確実に。
そんな時、僕はコトコと出会ったのだ。
「でも、まあ君に連れていかれるなら…」
僕は、無理やりに笑顔を作って、やっとそう言った。
コトコは、僕の言葉を最後まで聞き終わると、「にゃあ」と一声鳴くと、静かに「NO」を指差した。
「……」
何かを伝えようとする彼女の意思を、僕はどうしても理解する事が出来なかった。何時の間にか、僕は何一つ、彼女の思いを受け取る事が出来なくなっていた。彼女の「NO」が何を意味するのか。彼女が僕に何を伝えたいのか…。
「コトコ…」
半ば諦めた気持ちで、僕は彼女をそっと抱きかかえた。その小さくて柔らかい身体を抱きかかえた時、僕は何か、全てを受け入れられる気がした。僕がこの先どうなるにせよ、こうして、ちょっとした奇跡と出会えたのは、事実なのだ。
「君の歌、好きだったけどな」
僕はそういって、コトコを玄関の外にそっと放した。これ以上、彼女と一緒にいてはいけない、そんな気がしたからだ。
コトコは振り返らず、ゆっくりと、僕の部屋を離れていった。
(8)
また数ヶ月が過ぎた。結局、僕はこれまでと同じように暮らしていた。コトコの「NO」の意味に思いを廻らせながら、今日も僕はバイトと面接に明け暮れていた。
そしてある日、懐かしい人が僕の家を訪れた。顔を見ただけでは、一瞬誰かわからなったが、少しくたびれた白衣と眼鏡姿に、それが吉田先生だと僕は気付いた。
「そんなに驚いた顔しないでよ。スッピンだと別人って言いたいのかしら?」
気のせいだろうか、口調まで変わっているようだ。
「伝えたい事があってね、来たのよ」
吉田先生はそう言うと、狭い僕の部屋にずかずかと上がりこんできた。遠慮もなにもあったものではないが、別に困るという事もない。
部屋を見渡し、妙にスッキリとした様子を見て、彼女は言った。
「やっぱ、あの子、出てっちゃった?」
「というか、追い出したというか…」
戸棚の奥から急須を取り出しながら、僕は答えた。
「もしかして、気が付いてるかもしれないけど…」
「コトコの正体、ですよね」
「わかってるなら、話は早いわね」
吉田先生は、ショルダーバックから分厚い資料を取り出し、テーブルの上に並べ始めた。そこには、コトコと似た姿をした猫達の写真と、様々な数値が並んでいた。
「56例。国内では4例。全て同じ種よ」
眼鏡を指でくいっと持ち上げながら、彼女は言った。
「…死神、じゃなかったんですか?」
僕は唖然として、そう答えた。まさか合理的な説明がつく話だとは、思ってはいなかった。まして、こうしてデータ化されて書類にまとめられるような話だとは。
「君がどう思っていたか知らないけど」
吉田先生は言った。
「あの子は死神なんかじゃないわ。特殊な猫には違いないけど」
(9)
「確認された個体は全て、絶滅したフレイア・フォレスト・キャットの特徴をそのまま持っていたの。外見上、ほとんど分からないけど…。彼らは3年前に一斉に現れて、そして一斉に消えてしまった」
吉田先生は僕がいれた不味いお茶を飲みながらそう言った。
「問題は、なぜあの子たちが人の言葉を理解したり、人の寿命を読み取れたり出来たのか、なんだけど」
「どこから来て、どこに行ったか、は関係ないって言うんですか?」
僕は彼女にそう言って、資料を捲った。一見した所では、どの猫もコトコと殆ど違いがわからなかった。じっと観察してようやく、微妙な差異を発見する事が出来る、それくらい彼女らの容姿は似通っていた。
「それがわかれば苦労はしないんだけど…」
吉田先生の表情が曇った。
「だからこそ、あなたの所に来たの。コトコちゃんから何か聞いてないかと思って」
「気付いてたんですね」
「まあ動物の心に関してはプロだしね。それに…前から知ってもいたしね」
言葉を濁して、彼女は息をついた。
「それで結局、コトコたちの正体はなんだったんです?」
「…わからないわ。ただ、これはあくまで私個人の仮説なんだけど…」
彼女は息をすうっと吸い込み、言った。
「あの子たちは、人の寿命を読み取っていた訳ではないと思うの」
「どういう事です?」
「これを見て」
彼女は、書類の束から一つの資料を取り出した。
「確かに、あの子たちのうちの何匹かは、死に瀕した人間の側に寄り添って離れなかった。けれど、全部の飼い主が死に瀕していて、そのまま死んでしまったという訳ではないの。君や…私みたいにね」
「どういう事です?」
「…彼女達は、死に瀕した人間に寄り添っていた。けれどそれは、死を待っていた訳でない、って事よ」
そう言って、吉田先生は胸元のポケットから、小さな写真を取り出した。彼女がコトコを抱いている写真だった。…いや、違う。
「これは…」
「そう、私も出会ったの。あなたと同じように」
彼女は寂しそうに微笑んで言った。
「まだアメリカにいた時の話よ。あの子…ロイスが迷い込んできたのは」
それは、今まで見たことのない彼女の表情だった。
「ずっと側にいてくれたわ。時々、何もかも理解し合えた気がした。けれど、あの子もやっぱり消えてしまった」
眼鏡を外し、背筋を正すと彼女は言った。
「アメリカでね、旦那が死んだの。交通事故だった。あっけすぎて、涙さえ出なかった。丁度そんな時よ」
彼女の凛とした表情の向こうには、確かに触れがたい何かがあった。けれど、少くなくとも、今の彼女の顔には、死の影はなかった。
「死にたいとまでは思っていなくても…」
僕と彼女が、同時に口を開いた。僕と彼女は、言葉は違っても、同じ事を言おうとしていた。
「つまりそれは」
僕はやっと理解した。コトコがあの時、何故「NO」を指したのか。
「そう、死を看取るのでなく、私たちの死を回避しようとしていた。おそらくは、自分自身の命を削って」
吉田先生のその言葉に、僕は表情を失っていた。それはおよそ、僕が考えていた事とはまるで正反対の真実だったから。彼女の作っていたあの傷は、ケンカなんかで出来たものではなかったのだ。あれは、彼女が自分の命を削った時に出来たもので…。あの歌声は彼女達の身体すら削るもので…。その力は僕を…。
「何でそんなことをする必要が…。僕は何も…」
「私だって何もしてないわ。でも、あの子たちが」
吉田先生は一瞬だけ目を伏せて言った。
「もしあの子たちが私たちを友達と思ってくれていたなら、ただそれだけで、彼女たちにとってはそれをする意味はあった、って事じゃないのかしら」
「そんな…」
「コトコちゃんは、多分、飼い主と言葉を交わせた唯一のフレイア・フォレスト・キャットだった。だからもしかしたら、って思って来たんだけどね」
僕には返す言葉がなかった。僕は、命を賭けて僕を救ってくれた友達を疑い、裏切り、追い出したのだから。
「あの子たちは突然現れて、突然消えてしまった。そして、私たちはあの子たちに…」
僕はただ、そう呟く吉田先生をただ呆然と見ていた。今更どうしようもない。それでも。
それでも僕は、彼女に。
「ねえ、例えば」
吉田先生はゆっくりと立ち上がり部屋の窓を開けて、僕に問いかけた。
「ねえ、例えば、もし神様なんてものがいたとして、既に滅んだ種をメッセンジャーにして私たちをテストしたなら…」
「それは獣医の言う台詞じゃないですよ」
僕はどうにか冗談めかした笑顔を作り、そう答えた。
こんな話は、荒唐無稽なおとぎ話に過ぎないのかもしれない。しかし、それが、もしありえないおとぎ話だとしても、僕たちは出会い、そして日々を過ごした。そうして彼女が僕に忘れられない爪痕を残した事は、紛れもない事実なのだ。たとえ神様なんてものが、どこにもいなかったとしても。
「そんなふうに試されていたなら、私たちはそのテストに合格したのかしら、ね」
「それは…どうなんでしょうね? ただ、僕は」
「君は?」
「僕は、その答えを探します。この先ずっとね」
「そうね、それがいいと思う」
吉田先生は、眼鏡の奥の目を細めて、笑っていた。
開け放した窓から風が暖かい風が吹き込んできた。どこからか、コトコの歌が聞こえた気がした。けれどそれはすぐに消え去り、僕はどうしてもその歌声を思い出せないまま、窓の外に耳を澄ませ続けていた。
(了)
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