JR八高線の高麗川(こまがわ)駅から西へ少し歩いたところに、朝鮮半島の古代史につながる高麗神社(こまじんじゃ)が鎮座しています。
高麗神社の「高麗」という名称は、一見、朝鮮の高麗(こうらい)王朝を連想させますが、正確には、それより前の高句麗(こうくり)という国が、この神社の由来です。
紀元前37年から朝鮮半島北部と周辺一帯を支配した高句麗は、唐(中国)と新羅(しらぎ)(朝鮮半島南部)の連合軍に侵攻され、日本に支援を求めて、666(天智5)年に若光(じゃっこう)という人物を遣(つかわ)しました。しかし、2年後(668年)、高句麗はついに滅亡し、同国からは多くの難民が日本に渡来することになりました。
大和朝廷は、703(大宝3)年、若光に「高麗王」(こまのこきし)という姓を授け、716(霊亀2)年には、関東および中部地方に分散していた1800人ほどの渡来人を武蔵国(むさしのくに)に移り住まわせて、若光に統治を委ねました。「武蔵国 高麗郡(こまぐん)」の誕生です。
統治者として地域一帯を開拓し、中国や朝鮮半島の先進文化を定着させた高麗王若光(こまのこきし じゃっこう)は、没後、高麗神社に祀られ、高麗神社は高麗郡の鎮守社(ちんじゅしゃ)となりました。
武蔵国 高麗郡は、近代になって幾多の変遷を経た後、最終的に埼玉県 高麗郡(1878年)となりましたが、1896(明治29)年に入間郡への編入により、1180年もの間 続いた由緒ある「高麗」の郡名は消滅しました。ただし、遡る1889(明治22)年の町村制施行によって、高麗郡には「高麗(こま)村」と「高麗川(こまがわ)村」が設置されていたため、高麗の名称は、幸い二つの村名に引き継がれました。ところが、1955(昭和30)年に、何とこの二つの村が合併して「日高町」となったため、歴史ある高麗の名称は、自治体の名称から完全に消滅してしまいました。
それでも、地域に根付いた高麗の名称は、高麗神社は当然としても、地元の地名・地区名や、河川名、鉄道の駅名、小中学校名、公共施設名などに、今なお残っています。1970(昭和45)年に町から市となった日高市は、2016年(平成28)年に「高麗郡 建郡1300年」を祝する記念行事を盛大に催しました。
というわけで、高麗郷(こまごう)と呼ばれる日高市中西部の歴史的雰囲気に浸るには、まず高麗神社を訪れるのが一番です。過去には、皇族の参拝の機会も多く、明仁上皇・美智子上皇后も、天皇・皇后の時代に、みずから希望してこの神社へ行幸啓されています。
参考までに、高麗神社は、参拝した後に「出世運」に恵まれることでも有名です。私も、ありがたく2度まで恵まれました。また、本殿に向かう左の山上には水天宮が祀られています。妊婦さんは、急坂を登らなくても、下から遥拝できますので、安産祈願にもお勧めです。
(写真上)©一の鳥居。扁額(へんがく)には、地域の重要な神社のみに認められた「大宮大明神」の称号。
(写真上)©二の鳥居。扁額は「高麗神社」。
(写真上)©御神門とその奥の本殿。御神門の扁額は「高句麗神社」。
(写真上)©水天宮への参道。
(写真上)©山上の水天宮。
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