歴代自民党政権こそが原発事故の加害者だ
【政治・経済】
2011年4月11日 『日刊ゲンダイ』掲載
谷垣総裁よ、いい気になるな!
●日本全国にボコボコ原発を造った大罪
「民主惨敗なら首相自ら退陣を決意すべきだ」――。統一地方選前半戦の民主大惨敗を受け、自民幹部が勢いづいている。震災後は「政治休戦」に応じてきたが、今後は「菅政権で国民は救えない」と政権批判を強める方針だ。しかし、未曽有の原発災害を招いた元凶は、自民党による長年の原子力推進政策にある。半世紀以上にわたって山積した負の遺産を民主党政権に押し付けるのは、責任逃れもはなはだしい。
自民党の原発推進のルーツは1954年にさかのぼる。中曽根康弘元首相が唐突に日本初の原子炉製造予算2億3500万円を議員立法で提出。たった3日間の審議で成立させて以後、官僚、財界、学会、メディアを巻き込み、「原発こそ、石炭や石油に代わる夢の新エネルギー」と国民に喧伝し続けてきた。
「60年代の日本に自前の原子炉を造る技術力はなく、原発先進国の米国の技術に委ねたのですが、当時の米国には地震や津波への備えはなかった。自民党が地震大国としてのリスクを軽視する形で原発導入を進めたズサンさが、老朽化した福島第1原発で最悪の形で露呈したのです」(政治評論家・森田実氏)
自民党政権は70年代のオイルショックも原発推進のチャンスにした。石油依存の低減を掲げ、74年には「電源開発促進税法」「電源開発促進対策特別会計法」「発電用施設周辺地域整備法」と、いわゆる「電源三法」を制定。電力会社から吸い上げた税金を特別会計にプールし、そのカネを自治体にバラまく仕組みを完成させた。
原子力予算に投下される税金は年間4500億円以上。交付金やハコモノ補助などの利権も多く、そこに政治家と後援企業がブラ下がる構図だ。自民党の利益誘導で地方にムダな道路や空港がウジャウジャと造られたのと同じ原理で、全国津々浦々に54基もの原発が立ち並んだ。米国は「日本の領土はカリフォルニアと同じなのに54基も原発があるのか」と驚いている。
「自民党の政治資金団体は電力会社9社から組織的な献金も受け取ってきました。本来、電力会社は企業献金を自粛していたのに、役員たちが自民党に個人献金をしていたのです。会長と社長が30万円、副社長が24万円、常務12万円と、役職に応じて献金額に差があり、明らかに組織的。自民党との約束があったのは確実です。その総額は06~08年の3年間だけでも1億円を超えます」(経済ジャーナリスト)
こうした献金の見返りに、自民党は原発事故やデータ改ざんの不正を見逃してきたのではないのか。原発のない沖縄電力だけが献金していないのだから露骨だ。
菅民主党の無能ぶりは論外として、自民党こそが原発事故の“加害者”なのである。
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日本に於ける原子力政策史 ↓
【中曽根-正力ラインによる原子力予算上程までの動き】
1945.8.6日、中曽根康弘は4高松で広島のきのこ雲を遠望した。この時次のように思ったと云う。
「私が戦争中海軍に動員されて高松にいた時、広島の原爆雲を見た。この時私は、次の時代は原子力の時代になると直感した」(中曽根康弘「政治と人生―中曽根康弘回顧録」講談社(1922)p75)
1953年、復員後政治家になった中曽根に、マッカーサー司令部のCIC(対敵国諜報部隊)に所属していたコールトンが接近し、ハーバード大学で開催されたキッシンジャーの主催するセミナーに招聘した。この時、中曽根はネオ・シオニズムの黒子であるキッシンジャーに認められ、将来の出世と権力が保証されるエージェント契約を結んだ形跡がある。
セミナーの帰路、中曽根は、コロンビア大学に留学していた旭硝子ニューヨーク駐在員の山本英雄に会って原子力の情報を仕入れた。山本は、次のように述べている。
「彼はとりわけ原子力兵器、しかも小型の核兵器開発に興味を持っていました。中曽根氏は再軍備論者でしたから、将来、日本も核兵器が必要になると考えていたのかも知れません」。
帰国後中曽根は、川崎秀二、椎熊三郎、桜内義雄、稲葉修、際等憲三などと諮り、原子力予算の準備を始めた。当時中曽根は改進党に属していたが、自由党は過半数を割っており、改進党などの同意無く予算審議を進めることはできなかった。改進党の修正予算規模は50億円、そのうち原子力関係として3億円を提示し、3.1日の三党折衝であっさりと承認された。
1954.3.2日、中曽根康弘によって日本の国会に始めて原子力予算が上程された。両院議員総会で、科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金2億3500万円、ウラニウム資源調査費1500万円、計2億500万円の予算案提出の合意に達し、予算の名称は「原子炉築造のための基礎研究費及び調査費」と決定した。翌3.3日の衆議院予算委員会に、全く突如として自由党・改進党・日本自由党の三党共同修正案として提出され、3.4日の衆議院本会議で提案趣旨説明が行われ、予算案は修正案も含めて一括採択された。
1954.4月、予算案が可決され、「原子炉築造のための基礎研究費及び調査費」(この時の原子力予算は235億円ともある)。が認められた。以降、日本の原子力政策は巨額の税金を「利権として吸い上げる」構造的汚職の巣窟と化して行くことになる。
【中曽根-正力ラインによる原子力行政推進考】
中曽根のこの動きを背後で操っていたのが読売新聞の社主・正力松太郎である。(正力履歴については、木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」、れんだいこの「読売新聞社史考」を参照すべし)
正力は、戦後、戦犯として訴追され、政治生命を断たれた。その正力が戦犯解除されるに当たってCIAとエージェント取引したことが考えられる。同じような経緯で取引した者に戦前の特務機関系右翼・児玉誉士夫がいる。岸にもこの臭いがある。
正力は、戦犯訴追解除後、古巣の読売新聞社に復帰し、その後衆議院議員になり、日本テレビ放送網社長、第2次岸内閣の原子力委員会議長、科学技術庁長官を務めている。初代の原子力委員会委員長に就任していくことになる。
この正力の意向を受け、「1954.3.2日、中曽根康弘によって日本の国会に始めて原子力予算が上程された」と考えられる。以来、中曽根と正力は、政界における原発推進の両輪となって動いてきたという経過がある。中曾根と読売新聞社の関係にはただならぬものがある。(これに日共の宮顕を加えれば「闇のトライアングル」を形成している、と云える。ここではこの件の考察はしない)
正力-児玉誉士夫-中曽根ラインは、CIAコネクションを形成する。そこから政官財三界に巨大原子力推進人脈が形成されている。これは軍事利権人脈ともほぼ重なっている。この連中がピラニアのように軍事防衛、原発利権に群がり、国家を私物化しつつ食い尽くして行くことになる。まさに「権力を私する魑魅魍魎の妖怪ども」である。
中曽根には次のような特別縁戚関係が見て取れる。原子力行政の旗振り役が中曽根であるが、その受注主力企業は鹿島建設(現・鹿島)である。高速増殖炉「もんじゅ」、「ふげん」、福島第一原発、1号、2号、3号、4号、5号、6号、福島第二、1号、2号、3号、浜岡1、2、3号、女川1号、浜岡1,2,3号、伊方1,3号、柏崎1,2,5号、島根1、2号、東海1、2、大飯1、2号、泊1,2号、これらは全部「鹿島」の建設である。
中曽根と鹿島の関係には深い絆がある。鹿島建設の創業者・鹿島守之助の娘婿が渥美健夫で元会長。その息子直紀が結婚したのが中曽根康弘の娘美恵子。日本の原子炉建設トップ企業と日本の原子力政策の推進者が「血族」として繋がっているという訳である。
【原子力基本法成立、正力が初代委員長に就任】
1955.8.8.日から20日まで、スイスのジュネーブで国連が主催する原子力平和利用国際が意義が開催され、中曽根康弘(民主)、志村茂治(左社)、前田正男(自由)、松前重義(右社)の四人の衆議院議員が派遣された。ジュネーブの国際会議は米・素・英・仏・加などの原子力研究についての精神国が従来ほとんど機密にしていた原子炉計画、発電炉計画などを公開し、各国から170名あまりの参加者が集まり、次々と原子力の開発計画について発言した。日本の代表団は何も発表する材料もなくただ圧倒されただけであった。
四党議員団は会議終了後、フランス、イギリス、アメリカ、カナダの原子力施設を見て回り、9.12日に帰国した。この視察旅行の間に保革4党の議員は一致して原子力推進の方策を協議した。帰国後の記者会見で、4人は次のような声明を発した。
「1・.超党派的に長期的年次計画を確立し、これを推進して本問題は政争の圏外におくこと。2・.綜合的基本法たる原子力法を至急制定し、平和利用及び日本学術会議の所謂三原則の基本線を厳守するとともに、資源、燃料、技術の国家管理、安全保障、教育及び技術者養成、国際協力等の事項を規定すること」。
その他を含めていわゆる5項目の大綱を明らかにし、直ちに原子力基本法などの策定に着手した。
1955.11.15日、自由民主党は、「自由民主党立党宣言」と共に「党の政綱」を発表し、「原子力の平和利用を中軸とする産業構造の変革に備え、科学技術の振興の格段の措置を講ずる」ことを、憲法改定などとともに党の基本原則として位置付けた。
1955.12月、原子力基本法が保革全議員の署名を得て議員立法として成立し、初代委員長に正力松太郎が就任した。原子力推進が挙国一致体制で取り組まれた背景には、正力松太郎の野心と読売新聞による世論操作があった。ビキニ被爆事件が原水爆禁止運動へと波及し、それが次第に反米の色彩を帯びた頃、読売新聞社主であった正力松太郎の片腕であった柴田秀利の前にD.S.ワトソンと言うアメリカ人が現れた。ワトソンの素性は判然としないが、ホワイトハウスと直結する機関から派遣され、ビキニ被爆により日米関係に決定的な亀裂が入ることを回避する任務を帯びていた柴田はワトソンに、「原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大なる産業革命の明日に希望を与える他はない」と告げた。早速アメリカからは原子力平和利用使節団が派遣され、日比谷公園で大規模な博覧会などが開催された。読売新聞と読売テレビはこれを大々的に取り上げ、原子力の夢を喧伝した。
【正力が科技庁長官に就任し、原子力委員長と科技庁長官のポストを手にする】
1956(昭和31)年、正力は、原子力による産業革命をスローガンに総選挙に出馬し、一年生議員であるにもかかわらず、保守合同後の自民党鳩山政権の国務大臣に抜擢された。正力は、原子力委員長と科技庁長官のポストを手にして、原子力推進の権限を独占した。
正力は科学者たちの自主技術開発路線を無視して、コールダーホール型原子炉の導入に突き進んだ。高純度プロトニウム生産可能な黒鉛炉の導入に対し、科学者たちは軍事転用の可能性を指摘することも無く、正力の豪腕に屈することになる。ここに平和利用(軍事転用反対)路線は破綻し、科学者たちの武装は解除された。この後の科学者の運動は核兵器廃絶運動を専らとするようになり、原子力の問題は軍事的な警戒感を失い、安全性論争へと収斂していくことになった。
【原子力三法が成立する】
1956(昭和31)年、原子力三法が施行されている。この年、科学技術庁、日本原子力研究所、原子燃料公社(後に動燃事業団に統合)が設置されている。
【岸政権時代の原子力政策】
自民党政権は、鳩山から石橋湛山に移り、更に1957.2月、岸内閣が誕生した。4.26日、岸首相は、政府見解として「攻撃的核兵器の保有は違憲」であるとの統一見解をまとめたが、5.7日、岸首相は、「自衛のためであれば核保有は合憲」であると発言し、これがその後の日本政府の統一見解として確定した。
1958.正月、岸は念頭最初の行動として、伊勢神宮でも靖国神社でもなく、東海村の原研を視察した。岸は回顧録の中でこのときの心境を次のように述べている。
「原子力技術はそれ自体平和利用も兵器としての使用もともに可能であるどちらに用いるかは政策であり国家意思の問題である。日本は国家・国民の意思として原子力を兵器として利用しないことを決めているので、平和利用一本槍であるが、平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。日本は核兵器は持たないが、潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を強めることが出来る」。
【池田政権時代の原子力政策】
1960(昭和35).7月、原子力委員会は、原子力開発利用著紀計画の基本方針を決定した。9月、日本原子力産業会議が、原子力産業開発に関する長期計画を決定した。
1961(昭和36).2月、原子力委員会は、初めての総合計画となる「原子力開発利用長期計画」を公表し、1961年から70年の10年間に百万kWを建設する現実的目標を打ち出した。
1962(昭和37).8月、原子力委員会が、動力炉専門部会を設置し、国産動力炉としての炉型の開発体制の検討を開始した。
1963(昭和38).7月、正力は、池田内閣の科学技術庁長官に任命された。原子力船「むつ」の騒動の最中であった。佐藤はこの時期から高速炉に関心を示し、フランスなどへの調査団を派遣している。
同8月、日本原子力船開発事業団が発足した。
同10.26日、日本原子力研究所の動力試験炉で初めての試験発電が成功した。
同12月、通産省の総合エネルギー調査会が、「今後のエネルギー政策のあり方」報告書を発表し、その中で原子力発電を将来安価且つ安定供給できるエネルギー源と評価し、将来に備えて積極的な開発をすべしと提言した。
1964(昭和39).8月、第3回原子力平和利用会議がジュネーブで開催され、米国政府及びGE、WHなどの米国企業の代表が、商業原子力発電の時代が到来したことをキャンペーンした。且つ刻に於ける新型転換炉、高速増殖炉の開発の進展振りが明らかにされ、日本の動力炉開発への取り組みが急がれることになった。
1965(昭和40).5月、原子力発電の東海発電所が、臨海に達し、11月に初の送電に成功した。日本に於ける本格的な商業原子力発電の時代の幕開けとなった。
【佐藤政権時代の原子力行政】
同11月、病気を理由に退陣した池田勇人を継いで首班指名を受けた佐藤は、沖縄返還に政治生命をかけることを公言した。
1966(昭和41).1月、渡米した佐藤は、ジョンソン大頭領の前で、中国の核実験に対し日本も核武装すべきと考えると述べ、核カードを外交の手段として使った。帰国後直ちに核武装の可能性の調査を各方面に命じた。
ニクソンドクトリンの洗礼を受けた佐藤は、米国の外交政策の不変性に疑念を抱いており、独自の核武装政策をひそかに追及していた。佐藤政権時代に、防衛庁、外務省、内閣調査室などがそれぞれ、日本の核武装の技術的可能性や、日本が核武装した場合の外交的情勢分析の調査などを行っていた。
1966(昭和41).4月、原子力発電の第2番目として、敦賀発電所(BWR型)に設置許可が下りた。6月、原子力委員会は、動力炉開発のため臨時推進本部を設け、高速増殖炉及び新型転換炉の開発をスタートさせた。9月、東海発電所が営業運転に入った。9月、日米原子力協力協定が改定され、三菱、日立、東芝などが燃料製造プラントの建設準備に入った。12月、関西電力の美浜発電所1号炉、東京電力の福島第1号炉の設置許可が下りた。
1967(昭和42).4月、原子力開発利用長期計画が改定され公表された。5月、東芝、日立、GE社合弁の核燃料加工会社が発足した。9月、電力7社及び原子力発電が、カナダとウランの長期購入で合意した。10月、原子力発電東海発電所が営業運転を開始した。
1967年の秋深い頃、読売新聞科学部記者石井恂は、上司の指示を受けて、民間の各施設を使って核兵器が製造できるかの調査を行った。そこには、ウラン爆弾ではなくプルトニウム爆弾が、東海村原電1号炉の使用済燃料の再処理を行うことで生産可能である、運搬手段のロケット開発に遅れがある、など具体的に述べられている。この文書はその後大幅に加筆され「わが国における自主防衛とその潜在能力について」としてまとめられ、政府部内で読まれていたようである。
1968(昭和43).7.15日、朝雲新聞社から「日本の安全保障」1968年版が出版された。これは安全保障調査会によって発行され、1966年から年次報告として9年間続いた。「調査会」の中心人物は国防会議事務局長・海原治で、防衛庁内外の人材を集めた私的な政策研究グループであった。
1969(昭和44)年、外務省が「わが国の外交政策大綱」をまとめ、その中で核兵器政策について次のように記している。
「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、1・.当面核兵器は保有しない政策を採るが、2・核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともに、3・.これに対する掣肘を受けないよう配慮する。また核兵器一般についての政策は国際政治・経済的な利害得失の計算に基づくものであるとの主旨を国民に啓発することとし、将来万一の場合における戦術核持込に際し無用の国内的混乱を避けるよう配慮する」。
内閣調査室の報告では、現在核保有を推し進めることによる国際世論、とりわけアジアの世論の悪化が懸念されることを指摘している。
この一連の調査報告は1967年から70年頃までの間に集中している。その後の佐藤政権は、動燃と宇宙開発事業団を科技庁傘下の特殊法人として立ち上げ、高速炉開発と人工衛星打ち上げのための技術開発に当たらせることになる。あくまでもこれらの開発は平和目的のものであるとして掣肘を受けないよう配慮して行われた。
2004.8.12日、2007.7.22日編集見直し れんだいこ拝
【田中政権時代の原子力行政】
【その後の原子力行政】
動燃による核燃料サイクル計画は、東海再処理工場の運転に対してカーター政権の介入を受けしばらく停滞した。1980年代に入って高速炉「もんじゅ」の建設に着手し、そのブランケット燃料の再処理のための施設「RETF」の建設も行われ、青森県六ヶ所村には巨大な再処理工場の建設が行われるにいたった。しかし、1995年の「もんじゅ」におけるナトリウム炎上事故により、佐藤栄作以来の広壮な計画は頓挫した。
政府は核燃料サイクル計画の頓挫を受けて、軽水炉でプルトニウム燃料を燃やすプルサーマル計画へと重心を移しながらも、再処理工場の建設工事を継続し、「もんじゅ」の再開の機会を図りつつある。技術的にも経済的にも成り立ち得ないこれらの計画を国策として推し進めるその背後には、一貫した各政策が背後にあることを見逃すことが出来ない。
核燃料サイクル計画に対し、軍事転用の技術的可能性を論ずることが、反原発運動や反核兵器運動の内部においてタブー視される傾向があったことも、指摘しておかねばならない。
2007.7.22日編集見直し れんだいこ拝
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米国務長官、17日に訪日=菅首相らと震災支援協議 jiji.com
【ワシントン時事】米国務省は11日、クリントン長官が17日に日本を訪れ、菅直人首相や松本剛明外相らと東日本大震災の支援活動をめぐり会談すると正式に発表した。
長官はこれに先立ち、13~15日の日程でベルリンを訪問。北大西洋条約機構(NATO)非公式外相会議に出席し、リビア情勢やアフガニスタン復興支援などについて協議する。
また、16、17日にソウルを訪れ、李明博大統領と会談する。(2011/04/12-05:48)
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[東京 12日 ロイター] 東京株式市場で日経平均は続落した。福島原発事故の深刻化に対する懸念が強まり、リスク回避の売りが広がったという。決算発表の本格化を前に原材料コストの上昇や東日本大震災による影響が企業業績に響くとの懸念が根強いほか、震災後の余震継続や今晩の米株に対する警戒感などが重しとなり、全面安となった。
なかでも、原油価格の下落を背景にエネルギー関連銘柄の下げが目立つ。東京電力(9501.T: 株価, ニュース, レポート)は一時プラス圏に浮上したものの、4日ぶりに反落した。
東証1部騰落数は値上がり133銘柄に対し値下がり1485銘柄、変わらずが59銘柄。東証1部の売買代金は1兆4158億円だった。
11日の米国株がまちまちと手掛かりに欠けるなか、原材料コストの上昇や東日本大震災による影響が企業業績に響くとの見方から売りが先行。東電の福島第1原発事故について、旧ソビエトで起きたチェルノブイリ原発事故と同等の「レベル7」に引き上げると伝えられたことから、外国人投資家を中心とした売りに押されたという。朝方には海外勢によるバスケット売りが観測された。
後場には日経平均が一段安。東電の幹部は12日、福島第1原子力発電所の事故による放射性物質の漏れは止められておらず、最終的な放射性物質の放出量は、これまでで最悪の事故とされるチェルノブイリ原発事故を上回るかも知れないとの懸念を持っていると述べた。これを受け、先物主導で下げ幅を拡大。リスク回避の売りが強まり下げ幅は一時200円を超えた。
三菱UFJモルガン・スタンレー証券投資ストラテジストの山岸永幸氏は「福島原発事故の最終的な放射性物質の放出量がチェルノブイリを超える可能性があると伝わったことを受け、リスク意識の高まりから売りが先行した。原油価格の下落や円の買い戻しをみるとリスク回避を背景とした資金シフトが起こっているようだ。企業業績に対する懸念も強く、日本株は目先、下値模索が続くとみている」との見方を示した。
朝方の長野県、千葉県での地震に続き、取引時間中の午後2時07分頃には福島県浜通りで震度6弱を観測した。東京市場では地震の直接的な影響は限られ投資家は冷静だったが、「震度6前後の余震が続けば、震災後の復興や企業の生産計画に支障をきたす可能性があり、日本株の重しとなる」(東洋証券・情報部長の大塚竜太氏)という。また準大手証券トレーダーは「米アルコア(AA.N: 株価, 企業情報, レポート)が11日発表した第1・四半期決算で売上高が予想を下回り、時間外で株価が下落したことから今晩の米株市場への影響が懸念されている」と指摘した。
日経225オプション市場では8000円プットが活況だったほか、6000円プット、7000円プットにも買いが増加したという。国内証券の株式トレーダーは「下値の節目で買う動きが見られる。3月11日の東日本大震災の発生直後に見られた危機モードで、不安とパニックの間のようなムード」と述べた。
業種別株価指数では全33業種が下落し、東証1部の値下がり銘柄数が全体の9割近くに達するなど全面安。なかでも、鉱業、石油・石炭製品の下げが目立った。米ゴールドマン・サックス(GS.N: 株価, 企業情報, レポート)が11日、顧客に対し、原油や他の市場が下落に転じる前に利益を確定するよう警告したことを受け、米原油先物が時間外取引で一段安。原油高を背景に強含みで推移していたエネルギー関連銘柄にも利益確定売りが出た。
個別銘柄では東京電力(9501.T: 株価, ニュース, レポート)が4日ぶりに反落した。経済産業省の松下忠洋副大臣が12日、参議院の財政金融委員会で、東電の国有化は考えていないと語ったことが伝わるとプラス圏に浮上する場面もあったが、需給主導で乱高下が続いた。
(ロイターニュース 杉山容俊)
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東日本大震災:福島第1原発事故 最悪レベル7 チェルノブイリに並ぶ
◇放射性物質、放出量は10分の1
政府は12日、東京電力福島第1原発1~3号機の事故について、原子力施設事故の深刻度を示す国際評価尺度(INES)で、最も深刻なレベル7(暫定)に相当すると発表した。1~3号機では東日本大震災に伴い、原子炉や使用済み核燃料プールの冷却機能が失われ、大量の放射性物質が外部に放出される事態に陥っている。史上最悪と言われた86年のチェルノブイリ原発事故(旧ソ連)と同じレベルに並んだが、経済産業省原子力安全・保安院によると、放出量は同事故の約10分の1とみられるという。
チェルノブイリ事故で放出された放射性物質の量は520万テラベクレル(ベクレルは放射線を出す能力の強さ、テラは1兆倍)。今回の事故で放出された量を、保安院は37万テラベクレル、内閣府原子力安全委員会は63万テラベクレルと推定している。
INESは、国際原子力機関(IAEA)が定めた世界共通尺度。0~7までの8段階で評価する。INESでは、数万テラベクレル相当の放射性物質の外部放出がある場合をレベル7と定めている。安全委は原発周辺で計測された放射線量などから事故直後から4月5日までの間の大気中への放出量の逆算を試みた。
安全委は11日、福島第1原発事故について発生当初から数時間、1時間当たり最大1万テラベクレルの放射性物質を放出したとの見解を示した。放射性物質相当量は3月15日に爆発が起きて損傷した疑いがある2号機の圧力抑制プール付近から放出され、現在は1時間当たり1テラベクレル程度まで落ちているとみている。
保安院は3月18日、福島第1原発1~3号機の暫定評価を「施設外へのリスクを伴う」レベル5と発表したが、今回の事故は数時間の放出でレベル7に相当すると判断し、評価尺度を引き上げた。
東電の松本純一原子力・立地本部長代理は12日、「放出量から見てチェルノブイリ事故に匹敵する、あるいは超えるかもしれない事故になったことを重く受け止めている」と述べた。【河内敏康、八田浩輔、山田大輔】
◇「判断やむを得ず」「遅きに失した」
政府が福島第1原発事故を最も深刻な「レベル7」に引き上げた意味合いを、吉川栄和・京都大名誉教授は「今回は多重防護システムが破れて放射性物質が外へ漏れ出し、住民にも影響を与えた。原子力安全・保安院などは当初、楽観していた部分もあるが、世界にまで放射性物質が散らばっている影響の広がりを考えると、レベル7との判断はやむを得ない」と話す。
吉岡斉・九州大教授(科学技術史)も「引き上げは遅きに失した対応だ」と批判。「過小評価によって、対応が後手後手に回った可能性がある。今回の事故は複数の号機でトラブルが連発するタイプのもので、IAEAはこうした複合事故の可能性を想定していなかった面もある」と指摘した。【中西拓司、永山悦子】
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毎日新聞 2011年4月12日 東京夕刊
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【政治・経済】
2011年4月11日 『日刊ゲンダイ』掲載
谷垣総裁よ、いい気になるな!
●日本全国にボコボコ原発を造った大罪
「民主惨敗なら首相自ら退陣を決意すべきだ」――。統一地方選前半戦の民主大惨敗を受け、自民幹部が勢いづいている。震災後は「政治休戦」に応じてきたが、今後は「菅政権で国民は救えない」と政権批判を強める方針だ。しかし、未曽有の原発災害を招いた元凶は、自民党による長年の原子力推進政策にある。半世紀以上にわたって山積した負の遺産を民主党政権に押し付けるのは、責任逃れもはなはだしい。
自民党の原発推進のルーツは1954年にさかのぼる。中曽根康弘元首相が唐突に日本初の原子炉製造予算2億3500万円を議員立法で提出。たった3日間の審議で成立させて以後、官僚、財界、学会、メディアを巻き込み、「原発こそ、石炭や石油に代わる夢の新エネルギー」と国民に喧伝し続けてきた。
「60年代の日本に自前の原子炉を造る技術力はなく、原発先進国の米国の技術に委ねたのですが、当時の米国には地震や津波への備えはなかった。自民党が地震大国としてのリスクを軽視する形で原発導入を進めたズサンさが、老朽化した福島第1原発で最悪の形で露呈したのです」(政治評論家・森田実氏)
自民党政権は70年代のオイルショックも原発推進のチャンスにした。石油依存の低減を掲げ、74年には「電源開発促進税法」「電源開発促進対策特別会計法」「発電用施設周辺地域整備法」と、いわゆる「電源三法」を制定。電力会社から吸い上げた税金を特別会計にプールし、そのカネを自治体にバラまく仕組みを完成させた。
原子力予算に投下される税金は年間4500億円以上。交付金やハコモノ補助などの利権も多く、そこに政治家と後援企業がブラ下がる構図だ。自民党の利益誘導で地方にムダな道路や空港がウジャウジャと造られたのと同じ原理で、全国津々浦々に54基もの原発が立ち並んだ。米国は「日本の領土はカリフォルニアと同じなのに54基も原発があるのか」と驚いている。
「自民党の政治資金団体は電力会社9社から組織的な献金も受け取ってきました。本来、電力会社は企業献金を自粛していたのに、役員たちが自民党に個人献金をしていたのです。会長と社長が30万円、副社長が24万円、常務12万円と、役職に応じて献金額に差があり、明らかに組織的。自民党との約束があったのは確実です。その総額は06~08年の3年間だけでも1億円を超えます」(経済ジャーナリスト)
こうした献金の見返りに、自民党は原発事故やデータ改ざんの不正を見逃してきたのではないのか。原発のない沖縄電力だけが献金していないのだから露骨だ。
菅民主党の無能ぶりは論外として、自民党こそが原発事故の“加害者”なのである。
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日本に於ける原子力政策史 ↓
【中曽根-正力ラインによる原子力予算上程までの動き】
1945.8.6日、中曽根康弘は4高松で広島のきのこ雲を遠望した。この時次のように思ったと云う。
「私が戦争中海軍に動員されて高松にいた時、広島の原爆雲を見た。この時私は、次の時代は原子力の時代になると直感した」(中曽根康弘「政治と人生―中曽根康弘回顧録」講談社(1922)p75)
1953年、復員後政治家になった中曽根に、マッカーサー司令部のCIC(対敵国諜報部隊)に所属していたコールトンが接近し、ハーバード大学で開催されたキッシンジャーの主催するセミナーに招聘した。この時、中曽根はネオ・シオニズムの黒子であるキッシンジャーに認められ、将来の出世と権力が保証されるエージェント契約を結んだ形跡がある。
セミナーの帰路、中曽根は、コロンビア大学に留学していた旭硝子ニューヨーク駐在員の山本英雄に会って原子力の情報を仕入れた。山本は、次のように述べている。
「彼はとりわけ原子力兵器、しかも小型の核兵器開発に興味を持っていました。中曽根氏は再軍備論者でしたから、将来、日本も核兵器が必要になると考えていたのかも知れません」。
帰国後中曽根は、川崎秀二、椎熊三郎、桜内義雄、稲葉修、際等憲三などと諮り、原子力予算の準備を始めた。当時中曽根は改進党に属していたが、自由党は過半数を割っており、改進党などの同意無く予算審議を進めることはできなかった。改進党の修正予算規模は50億円、そのうち原子力関係として3億円を提示し、3.1日の三党折衝であっさりと承認された。
1954.3.2日、中曽根康弘によって日本の国会に始めて原子力予算が上程された。両院議員総会で、科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金2億3500万円、ウラニウム資源調査費1500万円、計2億500万円の予算案提出の合意に達し、予算の名称は「原子炉築造のための基礎研究費及び調査費」と決定した。翌3.3日の衆議院予算委員会に、全く突如として自由党・改進党・日本自由党の三党共同修正案として提出され、3.4日の衆議院本会議で提案趣旨説明が行われ、予算案は修正案も含めて一括採択された。
1954.4月、予算案が可決され、「原子炉築造のための基礎研究費及び調査費」(この時の原子力予算は235億円ともある)。が認められた。以降、日本の原子力政策は巨額の税金を「利権として吸い上げる」構造的汚職の巣窟と化して行くことになる。
【中曽根-正力ラインによる原子力行政推進考】
中曽根のこの動きを背後で操っていたのが読売新聞の社主・正力松太郎である。(正力履歴については、木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」、れんだいこの「読売新聞社史考」を参照すべし)
正力は、戦後、戦犯として訴追され、政治生命を断たれた。その正力が戦犯解除されるに当たってCIAとエージェント取引したことが考えられる。同じような経緯で取引した者に戦前の特務機関系右翼・児玉誉士夫がいる。岸にもこの臭いがある。
正力は、戦犯訴追解除後、古巣の読売新聞社に復帰し、その後衆議院議員になり、日本テレビ放送網社長、第2次岸内閣の原子力委員会議長、科学技術庁長官を務めている。初代の原子力委員会委員長に就任していくことになる。
この正力の意向を受け、「1954.3.2日、中曽根康弘によって日本の国会に始めて原子力予算が上程された」と考えられる。以来、中曽根と正力は、政界における原発推進の両輪となって動いてきたという経過がある。中曾根と読売新聞社の関係にはただならぬものがある。(これに日共の宮顕を加えれば「闇のトライアングル」を形成している、と云える。ここではこの件の考察はしない)
正力-児玉誉士夫-中曽根ラインは、CIAコネクションを形成する。そこから政官財三界に巨大原子力推進人脈が形成されている。これは軍事利権人脈ともほぼ重なっている。この連中がピラニアのように軍事防衛、原発利権に群がり、国家を私物化しつつ食い尽くして行くことになる。まさに「権力を私する魑魅魍魎の妖怪ども」である。
中曽根には次のような特別縁戚関係が見て取れる。原子力行政の旗振り役が中曽根であるが、その受注主力企業は鹿島建設(現・鹿島)である。高速増殖炉「もんじゅ」、「ふげん」、福島第一原発、1号、2号、3号、4号、5号、6号、福島第二、1号、2号、3号、浜岡1、2、3号、女川1号、浜岡1,2,3号、伊方1,3号、柏崎1,2,5号、島根1、2号、東海1、2、大飯1、2号、泊1,2号、これらは全部「鹿島」の建設である。
中曽根と鹿島の関係には深い絆がある。鹿島建設の創業者・鹿島守之助の娘婿が渥美健夫で元会長。その息子直紀が結婚したのが中曽根康弘の娘美恵子。日本の原子炉建設トップ企業と日本の原子力政策の推進者が「血族」として繋がっているという訳である。
【原子力基本法成立、正力が初代委員長に就任】
1955.8.8.日から20日まで、スイスのジュネーブで国連が主催する原子力平和利用国際が意義が開催され、中曽根康弘(民主)、志村茂治(左社)、前田正男(自由)、松前重義(右社)の四人の衆議院議員が派遣された。ジュネーブの国際会議は米・素・英・仏・加などの原子力研究についての精神国が従来ほとんど機密にしていた原子炉計画、発電炉計画などを公開し、各国から170名あまりの参加者が集まり、次々と原子力の開発計画について発言した。日本の代表団は何も発表する材料もなくただ圧倒されただけであった。
四党議員団は会議終了後、フランス、イギリス、アメリカ、カナダの原子力施設を見て回り、9.12日に帰国した。この視察旅行の間に保革4党の議員は一致して原子力推進の方策を協議した。帰国後の記者会見で、4人は次のような声明を発した。
「1・.超党派的に長期的年次計画を確立し、これを推進して本問題は政争の圏外におくこと。2・.綜合的基本法たる原子力法を至急制定し、平和利用及び日本学術会議の所謂三原則の基本線を厳守するとともに、資源、燃料、技術の国家管理、安全保障、教育及び技術者養成、国際協力等の事項を規定すること」。
その他を含めていわゆる5項目の大綱を明らかにし、直ちに原子力基本法などの策定に着手した。
1955.11.15日、自由民主党は、「自由民主党立党宣言」と共に「党の政綱」を発表し、「原子力の平和利用を中軸とする産業構造の変革に備え、科学技術の振興の格段の措置を講ずる」ことを、憲法改定などとともに党の基本原則として位置付けた。
1955.12月、原子力基本法が保革全議員の署名を得て議員立法として成立し、初代委員長に正力松太郎が就任した。原子力推進が挙国一致体制で取り組まれた背景には、正力松太郎の野心と読売新聞による世論操作があった。ビキニ被爆事件が原水爆禁止運動へと波及し、それが次第に反米の色彩を帯びた頃、読売新聞社主であった正力松太郎の片腕であった柴田秀利の前にD.S.ワトソンと言うアメリカ人が現れた。ワトソンの素性は判然としないが、ホワイトハウスと直結する機関から派遣され、ビキニ被爆により日米関係に決定的な亀裂が入ることを回避する任務を帯びていた柴田はワトソンに、「原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大なる産業革命の明日に希望を与える他はない」と告げた。早速アメリカからは原子力平和利用使節団が派遣され、日比谷公園で大規模な博覧会などが開催された。読売新聞と読売テレビはこれを大々的に取り上げ、原子力の夢を喧伝した。
【正力が科技庁長官に就任し、原子力委員長と科技庁長官のポストを手にする】
1956(昭和31)年、正力は、原子力による産業革命をスローガンに総選挙に出馬し、一年生議員であるにもかかわらず、保守合同後の自民党鳩山政権の国務大臣に抜擢された。正力は、原子力委員長と科技庁長官のポストを手にして、原子力推進の権限を独占した。
正力は科学者たちの自主技術開発路線を無視して、コールダーホール型原子炉の導入に突き進んだ。高純度プロトニウム生産可能な黒鉛炉の導入に対し、科学者たちは軍事転用の可能性を指摘することも無く、正力の豪腕に屈することになる。ここに平和利用(軍事転用反対)路線は破綻し、科学者たちの武装は解除された。この後の科学者の運動は核兵器廃絶運動を専らとするようになり、原子力の問題は軍事的な警戒感を失い、安全性論争へと収斂していくことになった。
【原子力三法が成立する】
1956(昭和31)年、原子力三法が施行されている。この年、科学技術庁、日本原子力研究所、原子燃料公社(後に動燃事業団に統合)が設置されている。
【岸政権時代の原子力政策】
自民党政権は、鳩山から石橋湛山に移り、更に1957.2月、岸内閣が誕生した。4.26日、岸首相は、政府見解として「攻撃的核兵器の保有は違憲」であるとの統一見解をまとめたが、5.7日、岸首相は、「自衛のためであれば核保有は合憲」であると発言し、これがその後の日本政府の統一見解として確定した。
1958.正月、岸は念頭最初の行動として、伊勢神宮でも靖国神社でもなく、東海村の原研を視察した。岸は回顧録の中でこのときの心境を次のように述べている。
「原子力技術はそれ自体平和利用も兵器としての使用もともに可能であるどちらに用いるかは政策であり国家意思の問題である。日本は国家・国民の意思として原子力を兵器として利用しないことを決めているので、平和利用一本槍であるが、平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。日本は核兵器は持たないが、潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を強めることが出来る」。
【池田政権時代の原子力政策】
1960(昭和35).7月、原子力委員会は、原子力開発利用著紀計画の基本方針を決定した。9月、日本原子力産業会議が、原子力産業開発に関する長期計画を決定した。
1961(昭和36).2月、原子力委員会は、初めての総合計画となる「原子力開発利用長期計画」を公表し、1961年から70年の10年間に百万kWを建設する現実的目標を打ち出した。
1962(昭和37).8月、原子力委員会が、動力炉専門部会を設置し、国産動力炉としての炉型の開発体制の検討を開始した。
1963(昭和38).7月、正力は、池田内閣の科学技術庁長官に任命された。原子力船「むつ」の騒動の最中であった。佐藤はこの時期から高速炉に関心を示し、フランスなどへの調査団を派遣している。
同8月、日本原子力船開発事業団が発足した。
同10.26日、日本原子力研究所の動力試験炉で初めての試験発電が成功した。
同12月、通産省の総合エネルギー調査会が、「今後のエネルギー政策のあり方」報告書を発表し、その中で原子力発電を将来安価且つ安定供給できるエネルギー源と評価し、将来に備えて積極的な開発をすべしと提言した。
1964(昭和39).8月、第3回原子力平和利用会議がジュネーブで開催され、米国政府及びGE、WHなどの米国企業の代表が、商業原子力発電の時代が到来したことをキャンペーンした。且つ刻に於ける新型転換炉、高速増殖炉の開発の進展振りが明らかにされ、日本の動力炉開発への取り組みが急がれることになった。
1965(昭和40).5月、原子力発電の東海発電所が、臨海に達し、11月に初の送電に成功した。日本に於ける本格的な商業原子力発電の時代の幕開けとなった。
【佐藤政権時代の原子力行政】
同11月、病気を理由に退陣した池田勇人を継いで首班指名を受けた佐藤は、沖縄返還に政治生命をかけることを公言した。
1966(昭和41).1月、渡米した佐藤は、ジョンソン大頭領の前で、中国の核実験に対し日本も核武装すべきと考えると述べ、核カードを外交の手段として使った。帰国後直ちに核武装の可能性の調査を各方面に命じた。
ニクソンドクトリンの洗礼を受けた佐藤は、米国の外交政策の不変性に疑念を抱いており、独自の核武装政策をひそかに追及していた。佐藤政権時代に、防衛庁、外務省、内閣調査室などがそれぞれ、日本の核武装の技術的可能性や、日本が核武装した場合の外交的情勢分析の調査などを行っていた。
1966(昭和41).4月、原子力発電の第2番目として、敦賀発電所(BWR型)に設置許可が下りた。6月、原子力委員会は、動力炉開発のため臨時推進本部を設け、高速増殖炉及び新型転換炉の開発をスタートさせた。9月、東海発電所が営業運転に入った。9月、日米原子力協力協定が改定され、三菱、日立、東芝などが燃料製造プラントの建設準備に入った。12月、関西電力の美浜発電所1号炉、東京電力の福島第1号炉の設置許可が下りた。
1967(昭和42).4月、原子力開発利用長期計画が改定され公表された。5月、東芝、日立、GE社合弁の核燃料加工会社が発足した。9月、電力7社及び原子力発電が、カナダとウランの長期購入で合意した。10月、原子力発電東海発電所が営業運転を開始した。
1967年の秋深い頃、読売新聞科学部記者石井恂は、上司の指示を受けて、民間の各施設を使って核兵器が製造できるかの調査を行った。そこには、ウラン爆弾ではなくプルトニウム爆弾が、東海村原電1号炉の使用済燃料の再処理を行うことで生産可能である、運搬手段のロケット開発に遅れがある、など具体的に述べられている。この文書はその後大幅に加筆され「わが国における自主防衛とその潜在能力について」としてまとめられ、政府部内で読まれていたようである。
1968(昭和43).7.15日、朝雲新聞社から「日本の安全保障」1968年版が出版された。これは安全保障調査会によって発行され、1966年から年次報告として9年間続いた。「調査会」の中心人物は国防会議事務局長・海原治で、防衛庁内外の人材を集めた私的な政策研究グループであった。
1969(昭和44)年、外務省が「わが国の外交政策大綱」をまとめ、その中で核兵器政策について次のように記している。
「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、1・.当面核兵器は保有しない政策を採るが、2・核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともに、3・.これに対する掣肘を受けないよう配慮する。また核兵器一般についての政策は国際政治・経済的な利害得失の計算に基づくものであるとの主旨を国民に啓発することとし、将来万一の場合における戦術核持込に際し無用の国内的混乱を避けるよう配慮する」。
内閣調査室の報告では、現在核保有を推し進めることによる国際世論、とりわけアジアの世論の悪化が懸念されることを指摘している。
この一連の調査報告は1967年から70年頃までの間に集中している。その後の佐藤政権は、動燃と宇宙開発事業団を科技庁傘下の特殊法人として立ち上げ、高速炉開発と人工衛星打ち上げのための技術開発に当たらせることになる。あくまでもこれらの開発は平和目的のものであるとして掣肘を受けないよう配慮して行われた。
2004.8.12日、2007.7.22日編集見直し れんだいこ拝
【田中政権時代の原子力行政】
【その後の原子力行政】
動燃による核燃料サイクル計画は、東海再処理工場の運転に対してカーター政権の介入を受けしばらく停滞した。1980年代に入って高速炉「もんじゅ」の建設に着手し、そのブランケット燃料の再処理のための施設「RETF」の建設も行われ、青森県六ヶ所村には巨大な再処理工場の建設が行われるにいたった。しかし、1995年の「もんじゅ」におけるナトリウム炎上事故により、佐藤栄作以来の広壮な計画は頓挫した。
政府は核燃料サイクル計画の頓挫を受けて、軽水炉でプルトニウム燃料を燃やすプルサーマル計画へと重心を移しながらも、再処理工場の建設工事を継続し、「もんじゅ」の再開の機会を図りつつある。技術的にも経済的にも成り立ち得ないこれらの計画を国策として推し進めるその背後には、一貫した各政策が背後にあることを見逃すことが出来ない。
核燃料サイクル計画に対し、軍事転用の技術的可能性を論ずることが、反原発運動や反核兵器運動の内部においてタブー視される傾向があったことも、指摘しておかねばならない。
2007.7.22日編集見直し れんだいこ拝
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米国務長官、17日に訪日=菅首相らと震災支援協議 jiji.com
【ワシントン時事】米国務省は11日、クリントン長官が17日に日本を訪れ、菅直人首相や松本剛明外相らと東日本大震災の支援活動をめぐり会談すると正式に発表した。
長官はこれに先立ち、13~15日の日程でベルリンを訪問。北大西洋条約機構(NATO)非公式外相会議に出席し、リビア情勢やアフガニスタン復興支援などについて協議する。
また、16、17日にソウルを訪れ、李明博大統領と会談する。(2011/04/12-05:48)
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[東京 12日 ロイター] 東京株式市場で日経平均は続落した。福島原発事故の深刻化に対する懸念が強まり、リスク回避の売りが広がったという。決算発表の本格化を前に原材料コストの上昇や東日本大震災による影響が企業業績に響くとの懸念が根強いほか、震災後の余震継続や今晩の米株に対する警戒感などが重しとなり、全面安となった。
なかでも、原油価格の下落を背景にエネルギー関連銘柄の下げが目立つ。東京電力(9501.T: 株価, ニュース, レポート)は一時プラス圏に浮上したものの、4日ぶりに反落した。
東証1部騰落数は値上がり133銘柄に対し値下がり1485銘柄、変わらずが59銘柄。東証1部の売買代金は1兆4158億円だった。
11日の米国株がまちまちと手掛かりに欠けるなか、原材料コストの上昇や東日本大震災による影響が企業業績に響くとの見方から売りが先行。東電の福島第1原発事故について、旧ソビエトで起きたチェルノブイリ原発事故と同等の「レベル7」に引き上げると伝えられたことから、外国人投資家を中心とした売りに押されたという。朝方には海外勢によるバスケット売りが観測された。
後場には日経平均が一段安。東電の幹部は12日、福島第1原子力発電所の事故による放射性物質の漏れは止められておらず、最終的な放射性物質の放出量は、これまでで最悪の事故とされるチェルノブイリ原発事故を上回るかも知れないとの懸念を持っていると述べた。これを受け、先物主導で下げ幅を拡大。リスク回避の売りが強まり下げ幅は一時200円を超えた。
三菱UFJモルガン・スタンレー証券投資ストラテジストの山岸永幸氏は「福島原発事故の最終的な放射性物質の放出量がチェルノブイリを超える可能性があると伝わったことを受け、リスク意識の高まりから売りが先行した。原油価格の下落や円の買い戻しをみるとリスク回避を背景とした資金シフトが起こっているようだ。企業業績に対する懸念も強く、日本株は目先、下値模索が続くとみている」との見方を示した。
朝方の長野県、千葉県での地震に続き、取引時間中の午後2時07分頃には福島県浜通りで震度6弱を観測した。東京市場では地震の直接的な影響は限られ投資家は冷静だったが、「震度6前後の余震が続けば、震災後の復興や企業の生産計画に支障をきたす可能性があり、日本株の重しとなる」(東洋証券・情報部長の大塚竜太氏)という。また準大手証券トレーダーは「米アルコア(AA.N: 株価, 企業情報, レポート)が11日発表した第1・四半期決算で売上高が予想を下回り、時間外で株価が下落したことから今晩の米株市場への影響が懸念されている」と指摘した。
日経225オプション市場では8000円プットが活況だったほか、6000円プット、7000円プットにも買いが増加したという。国内証券の株式トレーダーは「下値の節目で買う動きが見られる。3月11日の東日本大震災の発生直後に見られた危機モードで、不安とパニックの間のようなムード」と述べた。
業種別株価指数では全33業種が下落し、東証1部の値下がり銘柄数が全体の9割近くに達するなど全面安。なかでも、鉱業、石油・石炭製品の下げが目立った。米ゴールドマン・サックス(GS.N: 株価, 企業情報, レポート)が11日、顧客に対し、原油や他の市場が下落に転じる前に利益を確定するよう警告したことを受け、米原油先物が時間外取引で一段安。原油高を背景に強含みで推移していたエネルギー関連銘柄にも利益確定売りが出た。
個別銘柄では東京電力(9501.T: 株価, ニュース, レポート)が4日ぶりに反落した。経済産業省の松下忠洋副大臣が12日、参議院の財政金融委員会で、東電の国有化は考えていないと語ったことが伝わるとプラス圏に浮上する場面もあったが、需給主導で乱高下が続いた。
(ロイターニュース 杉山容俊)
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東日本大震災:福島第1原発事故 最悪レベル7 チェルノブイリに並ぶ
◇放射性物質、放出量は10分の1
政府は12日、東京電力福島第1原発1~3号機の事故について、原子力施設事故の深刻度を示す国際評価尺度(INES)で、最も深刻なレベル7(暫定)に相当すると発表した。1~3号機では東日本大震災に伴い、原子炉や使用済み核燃料プールの冷却機能が失われ、大量の放射性物質が外部に放出される事態に陥っている。史上最悪と言われた86年のチェルノブイリ原発事故(旧ソ連)と同じレベルに並んだが、経済産業省原子力安全・保安院によると、放出量は同事故の約10分の1とみられるという。
チェルノブイリ事故で放出された放射性物質の量は520万テラベクレル(ベクレルは放射線を出す能力の強さ、テラは1兆倍)。今回の事故で放出された量を、保安院は37万テラベクレル、内閣府原子力安全委員会は63万テラベクレルと推定している。
INESは、国際原子力機関(IAEA)が定めた世界共通尺度。0~7までの8段階で評価する。INESでは、数万テラベクレル相当の放射性物質の外部放出がある場合をレベル7と定めている。安全委は原発周辺で計測された放射線量などから事故直後から4月5日までの間の大気中への放出量の逆算を試みた。
安全委は11日、福島第1原発事故について発生当初から数時間、1時間当たり最大1万テラベクレルの放射性物質を放出したとの見解を示した。放射性物質相当量は3月15日に爆発が起きて損傷した疑いがある2号機の圧力抑制プール付近から放出され、現在は1時間当たり1テラベクレル程度まで落ちているとみている。
保安院は3月18日、福島第1原発1~3号機の暫定評価を「施設外へのリスクを伴う」レベル5と発表したが、今回の事故は数時間の放出でレベル7に相当すると判断し、評価尺度を引き上げた。
東電の松本純一原子力・立地本部長代理は12日、「放出量から見てチェルノブイリ事故に匹敵する、あるいは超えるかもしれない事故になったことを重く受け止めている」と述べた。【河内敏康、八田浩輔、山田大輔】
◇「判断やむを得ず」「遅きに失した」
政府が福島第1原発事故を最も深刻な「レベル7」に引き上げた意味合いを、吉川栄和・京都大名誉教授は「今回は多重防護システムが破れて放射性物質が外へ漏れ出し、住民にも影響を与えた。原子力安全・保安院などは当初、楽観していた部分もあるが、世界にまで放射性物質が散らばっている影響の広がりを考えると、レベル7との判断はやむを得ない」と話す。
吉岡斉・九州大教授(科学技術史)も「引き上げは遅きに失した対応だ」と批判。「過小評価によって、対応が後手後手に回った可能性がある。今回の事故は複数の号機でトラブルが連発するタイプのもので、IAEAはこうした複合事故の可能性を想定していなかった面もある」と指摘した。【中西拓司、永山悦子】
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毎日新聞 2011年4月12日 東京夕刊
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