AKB平田さんと考えるヒロシマ 爆心地で米と向き合う
文・後藤洋平、写真・青山芳久(動画付)
朝日新聞デジタル:2014年8月4日02時08分
6日に69回目の「原爆の日」を迎える広島。被爆者の平均年齢は80歳に迫る。被爆者健康手帳を持つ人は今年、初めて20万人を割った。来年は、あの日から70年の節目がやってくる。史上最も重要とも言われる記憶は継承されてゆくのだろうか。いつの日か、核兵器の廃絶は実現するのだろうか。曽祖父を広島原爆で亡くしたAKB48の平田梨奈さん(16)と爆心地付近を訪ね、考えた。
「怖い、怖い、怖い……」。ぼろぼろの衣装、髪の毛は熱でちりちり。皮膚がただれて垂れ下がり、幽霊のように両腕を突き出してがれきの中をさまよう母子。広島市中区の平和記念資料館に展示されている3体の人形の前で、平田さんは震えた。
実は、この人形は、「現実はもっともっとひどかった」という意見と「子どもには刺激が強すぎる」という意見の両方があり、来年の改修で撤去される予定だ。「これよりひどかった、というのが本当なんでしょうね。でも、確かに、怖すぎて真っすぐ見るのはつらい。撤去してほしいという気持ちも分かります」
どの国が何発の核弾頭を保有しているかを示す「核の地球儀」、黒い雨の痕跡が残る壁など、一つひとつの展示場所で立ち止まり、息をのんだ。きのこ雲の写真を前にすると「世界に穴をあけたみたい……」と、寂しそうな顔でつぶやいた。
見学後、館内に置かれている対話ノートに、「ひいじいちゃん、会いたかった! I wish for world peace.」と書き込んだ。
曽祖父は海外の戦地で負傷し、原爆が落とされた時は自宅のあった広島で療養中だった。曽祖母は、娘(平田さんの祖母)を連れて偶然、福岡の実家に戻っており、無事だった。2年前に他界した曽祖母から「ひいじいちゃんは、心が強くて優しい人だったのよ」ときかされた。祖母は毎年8月6日の朝、「きょうは原爆の日。忘れないで」と電話をかけてきてくれる。
平田さんが生まれたのは、悲しい歴史が刻まれた時から53年後。アメリカ人の父と日本人の母を持ち、アリゾナ州で生まれ育った。曽祖父を殺した原爆を投下したアメリカは、大好きな父と弟が今も住む故郷だ。
3年前、AKB48の研究生に合格し、母と2人で日本に住んで夢を追い始めた。まだ英語の方が得意だ。平和記念資料館を出た後、平和記念公園の原爆慰霊碑に手を合わせ、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に移動。英語で被爆体験を伝えたり、原爆の資料を翻訳したりする活動を続けている市民団体「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」の代表、小倉桂子さん(77)と面会し、外国人留学生たちと一緒に被爆体験に耳を傾けた。
小倉さんは8歳の時、爆心地から2・4キロで被爆した。自宅の周りで目にした、たくさんの死体、やけどの皮膚に群がるハエの様子などを、生々しく語った。「戦後、広島に食料や衣料を送るなど、アメリカが助けてくれたことも忘れない。投下を指示した人には怒りがあるが、他の人たちについては、そうではない」。平田さんの目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
世界遺産の原爆ドームは鉄骨がひしゃげ、れんがが飛散しており、今も原爆の熱線と爆風の傷痕が残る。すぐ横を流れる元安川を見つめた平田さんは、「この川に多くの人が飛び込み、亡くなったんですよね」。
当初の取材予定を終えた後、「爆心地に行ってみたい」と言い出した。原爆ドームから南東へ約150メートル。島外科内科の前に立つモニュメントに向き合い、手を合わせた。曽祖父が亡くなった場所については、爆心地のすぐ近く、としか分かっていない。「だから来たかった。ひいじいちゃんを、近くに感じるような気がします」。そう言うと、優しくほほえんだ。(文・後藤洋平、写真・青山芳久)
◇
〈原爆〉広島では1945年8月6日午前8時15分、アメリカによって史上初めて核兵器が実戦で使用された。長崎では、その3日後の9日午前11時2分に投下された。同年末までに広島では約14万人が、長崎では約7万4千人が死亡したとされる。
国は被爆者援護法で、原爆に遭った人たちを「被爆者」と定めて被爆者健康手帳を支給している。厚生労働省によると、所持者はピーク時の1981年3月末で37万2264人だったが、今年3月末の時点では19万2719人まで減少。平均年齢は79・44歳となり、被爆体験の継承が課題になっている。
■平田の目 被害の実態、いつか父と語りたい
小学4年生の頃、母と一時帰国して、祖母の住む福岡の小学校に短期間通っていたことがあります。その時の授業で「アメリカが原爆を落とした」と先生が言った時、クラスのみんなが一斉に私を見ました。「お前のせいだ」と言われているようで、視線が痛かった。同じ頃、アメリカの学校では、「原爆投下は戦争を早く終わらせるためだった」と教わっていたのです。
今回、広島で被爆者の小倉さんのお話をきけて、本当によかった。小倉さんの言う通り、きのこ雲の写真や映像での原爆は世界中の人が知っているけれど、その下で、人々がどんな目に遭ったのかを知る人は少ないと思います。
教科書で習うことと、実際にここに来て、見て感じることは全く違いました。黒い雨が流れた壁の跡、吹き飛んだドームのれんが、「ここで、たくさんの人が死んだんだ」と考えさせられる風景が、広島には、いっぱいあります。
戦争は嫌。核兵器も全て無くなって欲しい。平和は、世界の国々が、お互いのスタンスを否定せず、認め合うことから始まるのではないでしょうか。たくさんの人に、広島に来てほしい。資料館で原爆被害の実態を見て、被爆者の話に耳を傾けてほしい。
ハーフの私にとって、アメリカを悪く言われることはつらいけど、原爆投下は私が生まれるずっと前の話。アメリカ人の私のパパも日本のことが大好きで、広島に来たこともあるんです。いつかパパとも、広島について語りたい。一人ずつがそうすることで、これから先も語り継がれていくのではないでしょうか。
◇
〈ひらた・りな〉 1998年生まれ。2011年のオーディションに合格。AKB48チームBのメンバー。海外公演で通訳も務めた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
以上引用終わり。
りなちゃんてハーフやってんな。まだ16歳やいうねんけど、うちなんかよりよっぽどしっかりした考え方してはるから頭下がりますわ。
広島・長崎の原爆いうんは彼女のひいお爺ちゃんの時代の話やけど、核兵器はまだまだ世界中に溢れ返っていて誰も失くそうとはしてへんように思えて来るんやから情けない話や。人間てあんまり賢い生き物ではないんちゃうやろか?
文・後藤洋平、写真・青山芳久(動画付)
朝日新聞デジタル:2014年8月4日02時08分
6日に69回目の「原爆の日」を迎える広島。被爆者の平均年齢は80歳に迫る。被爆者健康手帳を持つ人は今年、初めて20万人を割った。来年は、あの日から70年の節目がやってくる。史上最も重要とも言われる記憶は継承されてゆくのだろうか。いつの日か、核兵器の廃絶は実現するのだろうか。曽祖父を広島原爆で亡くしたAKB48の平田梨奈さん(16)と爆心地付近を訪ね、考えた。
「怖い、怖い、怖い……」。ぼろぼろの衣装、髪の毛は熱でちりちり。皮膚がただれて垂れ下がり、幽霊のように両腕を突き出してがれきの中をさまよう母子。広島市中区の平和記念資料館に展示されている3体の人形の前で、平田さんは震えた。
実は、この人形は、「現実はもっともっとひどかった」という意見と「子どもには刺激が強すぎる」という意見の両方があり、来年の改修で撤去される予定だ。「これよりひどかった、というのが本当なんでしょうね。でも、確かに、怖すぎて真っすぐ見るのはつらい。撤去してほしいという気持ちも分かります」
どの国が何発の核弾頭を保有しているかを示す「核の地球儀」、黒い雨の痕跡が残る壁など、一つひとつの展示場所で立ち止まり、息をのんだ。きのこ雲の写真を前にすると「世界に穴をあけたみたい……」と、寂しそうな顔でつぶやいた。
見学後、館内に置かれている対話ノートに、「ひいじいちゃん、会いたかった! I wish for world peace.」と書き込んだ。
曽祖父は海外の戦地で負傷し、原爆が落とされた時は自宅のあった広島で療養中だった。曽祖母は、娘(平田さんの祖母)を連れて偶然、福岡の実家に戻っており、無事だった。2年前に他界した曽祖母から「ひいじいちゃんは、心が強くて優しい人だったのよ」ときかされた。祖母は毎年8月6日の朝、「きょうは原爆の日。忘れないで」と電話をかけてきてくれる。
平田さんが生まれたのは、悲しい歴史が刻まれた時から53年後。アメリカ人の父と日本人の母を持ち、アリゾナ州で生まれ育った。曽祖父を殺した原爆を投下したアメリカは、大好きな父と弟が今も住む故郷だ。
3年前、AKB48の研究生に合格し、母と2人で日本に住んで夢を追い始めた。まだ英語の方が得意だ。平和記念資料館を出た後、平和記念公園の原爆慰霊碑に手を合わせ、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に移動。英語で被爆体験を伝えたり、原爆の資料を翻訳したりする活動を続けている市民団体「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」の代表、小倉桂子さん(77)と面会し、外国人留学生たちと一緒に被爆体験に耳を傾けた。
小倉さんは8歳の時、爆心地から2・4キロで被爆した。自宅の周りで目にした、たくさんの死体、やけどの皮膚に群がるハエの様子などを、生々しく語った。「戦後、広島に食料や衣料を送るなど、アメリカが助けてくれたことも忘れない。投下を指示した人には怒りがあるが、他の人たちについては、そうではない」。平田さんの目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
世界遺産の原爆ドームは鉄骨がひしゃげ、れんがが飛散しており、今も原爆の熱線と爆風の傷痕が残る。すぐ横を流れる元安川を見つめた平田さんは、「この川に多くの人が飛び込み、亡くなったんですよね」。
当初の取材予定を終えた後、「爆心地に行ってみたい」と言い出した。原爆ドームから南東へ約150メートル。島外科内科の前に立つモニュメントに向き合い、手を合わせた。曽祖父が亡くなった場所については、爆心地のすぐ近く、としか分かっていない。「だから来たかった。ひいじいちゃんを、近くに感じるような気がします」。そう言うと、優しくほほえんだ。(文・後藤洋平、写真・青山芳久)
◇
〈原爆〉広島では1945年8月6日午前8時15分、アメリカによって史上初めて核兵器が実戦で使用された。長崎では、その3日後の9日午前11時2分に投下された。同年末までに広島では約14万人が、長崎では約7万4千人が死亡したとされる。
国は被爆者援護法で、原爆に遭った人たちを「被爆者」と定めて被爆者健康手帳を支給している。厚生労働省によると、所持者はピーク時の1981年3月末で37万2264人だったが、今年3月末の時点では19万2719人まで減少。平均年齢は79・44歳となり、被爆体験の継承が課題になっている。
■平田の目 被害の実態、いつか父と語りたい
小学4年生の頃、母と一時帰国して、祖母の住む福岡の小学校に短期間通っていたことがあります。その時の授業で「アメリカが原爆を落とした」と先生が言った時、クラスのみんなが一斉に私を見ました。「お前のせいだ」と言われているようで、視線が痛かった。同じ頃、アメリカの学校では、「原爆投下は戦争を早く終わらせるためだった」と教わっていたのです。
今回、広島で被爆者の小倉さんのお話をきけて、本当によかった。小倉さんの言う通り、きのこ雲の写真や映像での原爆は世界中の人が知っているけれど、その下で、人々がどんな目に遭ったのかを知る人は少ないと思います。
教科書で習うことと、実際にここに来て、見て感じることは全く違いました。黒い雨が流れた壁の跡、吹き飛んだドームのれんが、「ここで、たくさんの人が死んだんだ」と考えさせられる風景が、広島には、いっぱいあります。
戦争は嫌。核兵器も全て無くなって欲しい。平和は、世界の国々が、お互いのスタンスを否定せず、認め合うことから始まるのではないでしょうか。たくさんの人に、広島に来てほしい。資料館で原爆被害の実態を見て、被爆者の話に耳を傾けてほしい。
ハーフの私にとって、アメリカを悪く言われることはつらいけど、原爆投下は私が生まれるずっと前の話。アメリカ人の私のパパも日本のことが大好きで、広島に来たこともあるんです。いつかパパとも、広島について語りたい。一人ずつがそうすることで、これから先も語り継がれていくのではないでしょうか。
◇
〈ひらた・りな〉 1998年生まれ。2011年のオーディションに合格。AKB48チームBのメンバー。海外公演で通訳も務めた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
以上引用終わり。
りなちゃんてハーフやってんな。まだ16歳やいうねんけど、うちなんかよりよっぽどしっかりした考え方してはるから頭下がりますわ。
広島・長崎の原爆いうんは彼女のひいお爺ちゃんの時代の話やけど、核兵器はまだまだ世界中に溢れ返っていて誰も失くそうとはしてへんように思えて来るんやから情けない話や。人間てあんまり賢い生き物ではないんちゃうやろか?
世界皇帝 ディヴィッド・ロックフェラー 死亡 金星人(-) 毎年8,9,10月が大殺界 広島、長崎への原爆投下を今も謝罪しないアメリカに、反アメリカ感情を今こそ噴出せよ。 アメりカの洗脳広告代理店である電通を使った、テレビ、新聞、週刊誌、ラジオ等の、見事な洗脳に晒され続ける日本人は、自分自身の脳、すなわち思考そのものを点検せよ! 我々はハッ、と気付いて用心し、注意し、警戒すれば騙されることはない。 すべてを疑うべきなのだ!