米の飼い犬殺処分率は11.3%で日本0.43% 米はペット後進国
2014年07月24日 16時00分
提供:NEWSポストセブン
犬猫の殺処分がたびたび問題視されるが、なかなかゼロになる気配はない。ペット先進国といえばオランダの名があがるが、アメリカはどうなのか? Can! Do! Pet Dog Schoolで科学的な理論に基づく犬のしつけを指導する西川文二氏が、アメリカはペット先進国なのかについて解説する。
* * *
「この帽子ドイツんだ? オランダ」っちゅう、ダジャレの古典でおなじみの2国。実はペット先進国としても、名を馳せてる。
犬や猫の殺処分がゼロまたはそれに近い、原則的に展示販売をしてない、生後8週齢までは親元にいさせる、ってなところがペット先進国の共通した特徴。イギリスなんかも肩を並べる。
はて、いろんな面で先進国と称されるアメリカってのは、どうなの? って、私め調べてみました。
『犬が私たちをパートナーに選んだわけ』(ジョン・ホーマンズ著)によれば、2010年、アメリカでは約7700万頭の犬が飼われてて、一方で870万頭以上が殺処分されたらしい。
同年の日本のデータでは、1186万頭の犬が飼われてて、約5万1千頭の犬が殺処分されてる。日米共にペット先進国とはとてもいいがたいけど、殺処分比率(母数を飼育頭数のみにするか、飼育頭数プラス殺処分数にするかなどで、数字は違いますけどね)の比較では、アメリカは日本よりもかなりペット後進国、っていえる。
アメリカには、凶暴な犬を次々と制圧する、タレントなみに有名なカリスマ・トレーナーなる御仁がおる。でも彼をカリスマと位置づけてる限り、アメリカの殺処分数は激減しないでしょうな。だって、重要なのは噛まない犬に育てること。噛みつく犬に育てちまって、それを制圧することではないのですからね。
しかもこの制圧に失敗したらどうなるか。先のアメリカの数字は、その結果を表してるともいえる。
目指すべきは制圧ではなく、共生。さすれば自ずとペット先進国へと近づくことができるでしょうよ、日本もアメリカも。
※週刊ポスト2014年7月25日・8月1日号
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============
以上「NEWSポストセブン」からの引用終わり。
「飼い犬・飼い猫を殺処分する話」であるが、この件に関しては私は大きなことを言えた義理ではないが、一般的に私は生き物を飼うという点では全く不運で恵まれていなかった。小学生時分、私の家では犬をよく飼っていたが、最初に飼った犬を「犬殺し」に連れて行かせたのがそもそも間違いの始まりで、それが祟ったのだろうか、みんな死に別れたり逃げられたりして碌なことにはならなかった。親戚の家から貰い受け「ラッキー」と名づけたその犬を、私は丘の中腹にある「野犬収容施設」まで見送って行ったのだった。私は本心では彼と別れたくなかったのだが、父の命令(というか甘言?)には逆らえなかったのである。檻の中で震えて怯える彼を施設に残し、夕暮れどき遠い道のりを一人で歩いて帰って来てから私は一人泣いていた。
父の合理主義とでもいうのか、近所の人が「血統書付きの」シェパードの子犬をプレゼントしてくれるという「いい話」があって、そこで家で犬2匹は飼えないから、「ラッキーは捨てる」(つまりは実験動物になるのかライオンの餌になるのかわからなかったが家から追い出す)という算段をしたのである。
そのシェパードには「デッキー」という名前が既に付けられていて、我が家でもその名前を踏襲したのだが、大きくなり過ぎて今度は柴犬の子犬とのトレードになった。当時私の田舎では「犬の放し飼い」はむしろ常識で、デッキーはラッパを鳴らしながらやって来る豆腐屋のおじさんに跳びかかって怪我をさせるなどの問題を起こしてしまった。
交換した柴犬には「たろう」という名前がつけられた。私たちの家族によくなついていたが、ジステンパーという不治の病に罹って獣医の手で安楽死させられた。・・・。
「逃げられた」というのも私が小学生時代の話で、これは偏に私の飼育方法が悪かったからである。「プリティ」と名づけたスピッツ系の雑種犬に大型犬用の首輪を(袈裟懸けに!)無理矢理嵌めて、犬小屋が出来るまでの間の間に合わせとして、私が登校中には薄暗い納屋に閉じ込めてしまったのである。何か懲罰かお仕置きでもされたとでも感じたのか、彼は或る日大き過ぎる首輪を外すことに見事成功し、納屋の囲いの下を掘って「牢獄から脱出する」ことにも成功した。近所の人の話では「プリティ」はその後どこかの酔っ払いが連れ去ってしまったということだった。
============
時代がぐっと下がって、私がまだ東京にいた頃の話だから30代後半だったろうか、東京から茨城県に移住した友人夫婦に赤ちゃんが出来たということで、私ともう一人の友人とでお祝いがてらに何回か出掛けたことがあった。そこで私は幸か不幸か、犬猫の処分にまたしても立ち会う羽目になったのである。
最初は犬である。茶毛の中型雑種犬だった。一体どういう飼い方をしていたのか、お世辞にも「良い人相(犬相?)」をしていたとは言えない彼は「チック」症状を示していて、何かイラつくことでもあったのか、小さな庭のあちこちに多数の穴ぼこを掘っていた。どういう理由だったのか忘れたが、奥さんが彼を処分するから一緒に来てくれと請われ、私は小学生以来の「野犬収容所」に足を運ぶ仕儀となった。日頃から強気な発言を常としていた彼女は他の収容されている犬たちを見て、「あ、あの子可愛い♪また飼おうかな?」などと言ってしまって係員に窘められたりした。
次は猫である。これは理由がはっきりしている。新しく「家族」の一員となった赤ちゃんを見る猫の眼が異様に怖いと、奥さんが言い出したのである。何か「獲物を狙う」ような眼でいつも見ていると言うのだった。出産直後で気が立っていたのかも知れないが、「間違いがあってからでは手遅れだ」ということで、猫(名前は忘れた)をどこかに捨てて来ようという話になった。それで私は車の助手席に乗って彼女にお供したわけである。利根川系統の河川敷だったが、ここなら帰っては来られないだろうと、民家も沢山あった場所へ連れて行って猫を放したところ「帰って来る」どころの話ではなく、自分が「捨てられたという自覚」など一体あったのか無かったのか、猫はひょいひょいと民家のある方へと事も無げに駆け去った。これが「猫は人になつくのではなく土地と周囲に馴染むのだ」という法則を私が眼にした瞬間であった。以上で私の昔話は終わる。
cf.ジステンパーの画像。
2014年07月24日 16時00分
提供:NEWSポストセブン
犬猫の殺処分がたびたび問題視されるが、なかなかゼロになる気配はない。ペット先進国といえばオランダの名があがるが、アメリカはどうなのか? Can! Do! Pet Dog Schoolで科学的な理論に基づく犬のしつけを指導する西川文二氏が、アメリカはペット先進国なのかについて解説する。
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「この帽子ドイツんだ? オランダ」っちゅう、ダジャレの古典でおなじみの2国。実はペット先進国としても、名を馳せてる。
犬や猫の殺処分がゼロまたはそれに近い、原則的に展示販売をしてない、生後8週齢までは親元にいさせる、ってなところがペット先進国の共通した特徴。イギリスなんかも肩を並べる。
はて、いろんな面で先進国と称されるアメリカってのは、どうなの? って、私め調べてみました。
『犬が私たちをパートナーに選んだわけ』(ジョン・ホーマンズ著)によれば、2010年、アメリカでは約7700万頭の犬が飼われてて、一方で870万頭以上が殺処分されたらしい。
同年の日本のデータでは、1186万頭の犬が飼われてて、約5万1千頭の犬が殺処分されてる。日米共にペット先進国とはとてもいいがたいけど、殺処分比率(母数を飼育頭数のみにするか、飼育頭数プラス殺処分数にするかなどで、数字は違いますけどね)の比較では、アメリカは日本よりもかなりペット後進国、っていえる。
アメリカには、凶暴な犬を次々と制圧する、タレントなみに有名なカリスマ・トレーナーなる御仁がおる。でも彼をカリスマと位置づけてる限り、アメリカの殺処分数は激減しないでしょうな。だって、重要なのは噛まない犬に育てること。噛みつく犬に育てちまって、それを制圧することではないのですからね。
しかもこの制圧に失敗したらどうなるか。先のアメリカの数字は、その結果を表してるともいえる。
目指すべきは制圧ではなく、共生。さすれば自ずとペット先進国へと近づくことができるでしょうよ、日本もアメリカも。
※週刊ポスト2014年7月25日・8月1日号
【関連記事】
犬猫の殺処分ゼロ実現のために必要な3ステップを識者が解説
韓国で口蹄疫の被害が全国に拡大 140万頭の牛を殺処分
米の低レベル高校生、殺人事件が日常の街等をリポートした本
米のピザ配達員の人件費が安いのはチップ支払う習慣あるため
元外交官が「米国にとってネットは言論操作の場所」と説く書
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以上「NEWSポストセブン」からの引用終わり。
「飼い犬・飼い猫を殺処分する話」であるが、この件に関しては私は大きなことを言えた義理ではないが、一般的に私は生き物を飼うという点では全く不運で恵まれていなかった。小学生時分、私の家では犬をよく飼っていたが、最初に飼った犬を「犬殺し」に連れて行かせたのがそもそも間違いの始まりで、それが祟ったのだろうか、みんな死に別れたり逃げられたりして碌なことにはならなかった。親戚の家から貰い受け「ラッキー」と名づけたその犬を、私は丘の中腹にある「野犬収容施設」まで見送って行ったのだった。私は本心では彼と別れたくなかったのだが、父の命令(というか甘言?)には逆らえなかったのである。檻の中で震えて怯える彼を施設に残し、夕暮れどき遠い道のりを一人で歩いて帰って来てから私は一人泣いていた。
父の合理主義とでもいうのか、近所の人が「血統書付きの」シェパードの子犬をプレゼントしてくれるという「いい話」があって、そこで家で犬2匹は飼えないから、「ラッキーは捨てる」(つまりは実験動物になるのかライオンの餌になるのかわからなかったが家から追い出す)という算段をしたのである。
そのシェパードには「デッキー」という名前が既に付けられていて、我が家でもその名前を踏襲したのだが、大きくなり過ぎて今度は柴犬の子犬とのトレードになった。当時私の田舎では「犬の放し飼い」はむしろ常識で、デッキーはラッパを鳴らしながらやって来る豆腐屋のおじさんに跳びかかって怪我をさせるなどの問題を起こしてしまった。
交換した柴犬には「たろう」という名前がつけられた。私たちの家族によくなついていたが、ジステンパーという不治の病に罹って獣医の手で安楽死させられた。・・・。
「逃げられた」というのも私が小学生時代の話で、これは偏に私の飼育方法が悪かったからである。「プリティ」と名づけたスピッツ系の雑種犬に大型犬用の首輪を(袈裟懸けに!)無理矢理嵌めて、犬小屋が出来るまでの間の間に合わせとして、私が登校中には薄暗い納屋に閉じ込めてしまったのである。何か懲罰かお仕置きでもされたとでも感じたのか、彼は或る日大き過ぎる首輪を外すことに見事成功し、納屋の囲いの下を掘って「牢獄から脱出する」ことにも成功した。近所の人の話では「プリティ」はその後どこかの酔っ払いが連れ去ってしまったということだった。
============
時代がぐっと下がって、私がまだ東京にいた頃の話だから30代後半だったろうか、東京から茨城県に移住した友人夫婦に赤ちゃんが出来たということで、私ともう一人の友人とでお祝いがてらに何回か出掛けたことがあった。そこで私は幸か不幸か、犬猫の処分にまたしても立ち会う羽目になったのである。
最初は犬である。茶毛の中型雑種犬だった。一体どういう飼い方をしていたのか、お世辞にも「良い人相(犬相?)」をしていたとは言えない彼は「チック」症状を示していて、何かイラつくことでもあったのか、小さな庭のあちこちに多数の穴ぼこを掘っていた。どういう理由だったのか忘れたが、奥さんが彼を処分するから一緒に来てくれと請われ、私は小学生以来の「野犬収容所」に足を運ぶ仕儀となった。日頃から強気な発言を常としていた彼女は他の収容されている犬たちを見て、「あ、あの子可愛い♪また飼おうかな?」などと言ってしまって係員に窘められたりした。
次は猫である。これは理由がはっきりしている。新しく「家族」の一員となった赤ちゃんを見る猫の眼が異様に怖いと、奥さんが言い出したのである。何か「獲物を狙う」ような眼でいつも見ていると言うのだった。出産直後で気が立っていたのかも知れないが、「間違いがあってからでは手遅れだ」ということで、猫(名前は忘れた)をどこかに捨てて来ようという話になった。それで私は車の助手席に乗って彼女にお供したわけである。利根川系統の河川敷だったが、ここなら帰っては来られないだろうと、民家も沢山あった場所へ連れて行って猫を放したところ「帰って来る」どころの話ではなく、自分が「捨てられたという自覚」など一体あったのか無かったのか、猫はひょいひょいと民家のある方へと事も無げに駆け去った。これが「猫は人になつくのではなく土地と周囲に馴染むのだ」という法則を私が眼にした瞬間であった。以上で私の昔話は終わる。
cf.ジステンパーの画像。