本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

死刑廃止論?

2006-07-01 14:07:39 | 社会
*今死刑の廃止は世界的傾向にあるという。EC等キリスト教的な世界観からすると「すべては神の御心のままに」ということであって、自殺も死刑も人倫の思い上がりであるということになる。新教徒の多いお隣韓国も廃止の方向だが、只でさえ人口爆発を恐れている中国ではどんどん死刑を執行中(?)である。

 私は若い頃は所謂「死刑廃止論者」だった。今思い出す私なりの根拠づけは以下のようなものだったと思うが、と言ってそれらは格別に私に固有の論拠であったわけではない。一般に死刑廃止論者が口にする論拠と大差ないと思う。

1.死刑は憲法の禁止する残虐な刑罰に当たる。(←最高裁の判例では絞首刑は火焙り・斬首・獄門etc.とは違うから残虐ではないとしている。これは屁理屈と思う。)
2.放っておいても人は死ぬ。その意味では我々はすべからく地球という監獄に閉じ込められた死刑囚であるから死刑は不要である。
3.万が一冤罪だった場合死刑では復権不可能である。
4.「目には目を、歯には歯を」では古代のハンムラビ法典と同様であっておよそ文明の(?)進歩というものが認められない。

 ざっと、そんなふうな考え方だったろうか。
 では壮年期に入った今はどうかというと、既に自分の人生も締めくくりのときを迎えつつあるということが微妙に影響しているのかどうか、死刑に対しては以前より遥かに妥協的で寛容でさえある。で、以上4点についてのアンチを以下に述べてみる。

1.については、死刑を宣告された犯罪者がそもそも残虐な犯行を遂行してその罪を問われているのである。彼を死刑にしたからといって殺された側が生き返って来ることはないが、最低限の「オトシマエ」(←所謂『同害報復』)ぐらいはつけて貰った方が理に適っているのかも知れないと最近思うようになった・・?
 残された遺族・犯罪被害者らの魂が果してその死刑執行によって救済され得るのかどうか甚だ疑問であるとは言え、他に理に適った(?)責任の取り方も見出し難い。

 と言うよりも、殺人者には責任の取りようがない。殺人の罪は償うことは出来ない。「人間一人の命は地球より重い」などと日常的に素軽く言われる割に殺人事件は日々新たに報道され続けている。

2.「放っておいてもいずれ死ぬのだ」という同じ理由から、死刑にしてもしなくても同じではないかという議論も成立する。
 無期懲役に代わる文字通りの「終身刑」を導入せよという主張もあるがこれはどうか。殺人者に殊更「健康で文化的な生涯」を保証しなければならない理由が私には今ひとつ釈然としない。

 もう一つ言うならば、最近目にした死刑廃止論に立脚する所謂「人権派弁護士」のとった「法廷引き伸ばし戦術」には首を傾げざるを得ないということもある。
 かと言って、妻子をレイプ殺人されて「復讐の鬼」と化したかのようなあの青年に全面的な支持・礼讃の拍手を送るには躊躇いがあることも確かだ。
 「男が女を求めるのは当然だ」などと嘯いた、犯行当時は少年だった犯行者が獄中から知人に宛てて書いたとされる手紙はひど過ぎるから部外者たる私だって「そんな奴は殺してしまえ」と思わず叫び出しそうになるのだが・・。

3.冤罪だった場合の問題は確かに残る。しかし法は万能ではなく「最低限のモラル」でしかない。

4.我々は未だ「目には目を、歯には歯を」という論理、「やられたらやり返せ」という復讐法的原則を乗り越えられる程理知的ではなく、成熟してもいない。

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*しかし「死刑制度が凶悪犯罪を抑止する効果があるのだ」などと言われると、これはどうだろうかと引いてしまう感じがある。
 殺人を犯す(犯した)者はその時点で既に異様な心理下にある。「一人殺しても二人殺してもどうせ死刑だ」とばかりに更なる凶行に走る可能性はないのだろうか?

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*子殺し・親殺しに続いて、今度は集団による生き埋め殺人である。
 生き埋めされた人は最後まで苦しむのだとTVで解説していた。空気がないのに最後まで呼吸しようとするから、肺の中にまで土砂が入り込むのだそうである。
 一般に他人の痛みや苦しみはなかなか感じることが出来ないものであるとは言え、自分がされたくないことを他人には平気でやってしまうという風潮が今顕著である。



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