*以下は『明日使える!プチ雑学』からの引用です。
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■い頭を●くする「明日使える!プチ雑学」
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言葉の元 その2 「佃煮」
日本中で、様々な素材を用いて作られている食品の1つに佃煮があります。
昆布・小女子・浅利・小海老など海の食材が中心です。
さて佃煮の起源とは・・・・・・・・・・・・・・・・
戦国時代、明智光秀の謀反を察知した徳川家康は、急遽、大阪方面に移動をしたのですが、その際に手助けをしたのが、摂津郡佃村(大阪市西淀川区)の人々だったそうです。
この事を恩義に感じていた家康は、江戸幕府を開いた際に、佃村の人々を東京湾に流れる川の中州に移住させました。
元々漁師だった佃村の人々は、その中州を「佃島」と名付け、漁業に励みました。
日々のおかずとしての保存のきく方法として、小魚や貝などを塩煮にしていたのですが、河川運搬の発達とともに千葉の野田から醤油が伝わり、醤油煮も作られるようになり、自分達の食べる分以外のものを、江戸の町に売りに行くようになり、「佃島で作られた煮付け」が佃煮になったわけです。
だから佃煮には魚貝類の具が多いのですが、起源が大阪の人々とは、とても意外ですね。
==========
*今でこそ日本の中心は東京で、若い人たちはみんな東京に憧れ、東京以外は都会に非ずとでも言いたげな風潮がこの国を支配しているが、ほんの100年~200年前には文化の中心は大阪であり京都であった。関西は『上方』であり、双六の上がりは京都、天下の台所・経済の中心は大阪ということになっていたのである。ぷいぷい!
*う~ん。しかし、私は現在環状線の外側にひっそりと息を潜めて生息しているしがない《ご老体》であるが、ときに気が向くと《ケッタ》(←愛知県の人は自転車のことをこう呼ぶ)を駆ってなんばまで遠乗り(?)に出掛けることがある。なんばまで行けば梅田もすぐだ(!)
大阪はコンパクトな街なのである。環状線は山手線と比べるととても小さい。但し、私は大正区とか、港区とか、あっち方面へ《チャリンコ》(←自転車のことを関東ではこう呼ぶ。でも大阪でおばさんの乗る婦人車を『ママチャリ』と言っている人がいたから、私の方言知識もアテにならない)で行くことはない。
*何故行かないかと言うと、2回程行って2回とも殆ど迷子になってしまったからである。
運河等で行き先を阻まれることがあるから、ヤマカンで工場や倉庫のある地区を走り回っていて、そのうち自分がどこにいるのかわからなくなってしまうのだ。
*あ、そうだ! そのことで言えば、ある人に大阪の街中に於ける簡単な方角察知法を伝授して貰ったことがある。
ではその秘伝を今から本邦初公開(!)するのですよ。前列の人はそこの線まで下がって下さい。あ、押さないで、押さないでったら!・・・!
それはなんと「山並みが見えたらそれは生駒山系であるから、東だ!」というのである。
う~ん、これはすごいねっ! 六甲山とかは大阪の街中からは見えない。北の京都方面とかは、淀川があって、取敢えず山はない。南側和歌山方面にも山は見えないし、西は海だ。天保山があるって? あれってほんとに山なんだろうか?・・・
*というわけで、かつてUFOが出ると言われた生駒山系にはそういう有難いご利益もあったのである。
そう言えば大阪へやって来た6年前には、暇さえあれば自転車を乗り回していたような気がする。神戸へは国道2号線を行けば簡単に到達出来る。但し帰りは大変だ。住之江区を更に南下して(大和川だったか)河口近くの(?)大きな橋を渡ればもうそこは堺市だ。
*でも私が一番多く行ったのは京都である。いろんなルートがあるが、基本は交通標識を見ながら北上して行けばなんとかなるという、いい加減なものだった。
袋小路の公道というものは存在しないことになっているから、出口は必ずある。ただ国道1号線は途中歩道がしっかり付いていない箇所も多いので、ママチャリ自転車ではちょっと怖い。
八幡市だったか、峠越え(?)をする羽目になったこともある。守口車庫~寝屋川市~枚方パーク~・・・後は樟葉駅で京阪線沿いから離れて松花堂公園へ向かい、更に北進して八幡中代というところから国道1号へ入るともう《憧れの京都》は目の前だ!
*電車、バス、車で行けばなんということはないのだが、普段乗っている自転車で京都駅前や四条大橋をうろつくのも一種達成感があって、なかなか味わい深いものがあるのだ。ただ時間に余裕がないと、こういうお遊びは出来ない。
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■い頭を●くする「明日使える!プチ雑学」
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言葉の元 その2 「佃煮」
日本中で、様々な素材を用いて作られている食品の1つに佃煮があります。
昆布・小女子・浅利・小海老など海の食材が中心です。
さて佃煮の起源とは・・・・・・・・・・・・・・・・
戦国時代、明智光秀の謀反を察知した徳川家康は、急遽、大阪方面に移動をしたのですが、その際に手助けをしたのが、摂津郡佃村(大阪市西淀川区)の人々だったそうです。
この事を恩義に感じていた家康は、江戸幕府を開いた際に、佃村の人々を東京湾に流れる川の中州に移住させました。
元々漁師だった佃村の人々は、その中州を「佃島」と名付け、漁業に励みました。
日々のおかずとしての保存のきく方法として、小魚や貝などを塩煮にしていたのですが、河川運搬の発達とともに千葉の野田から醤油が伝わり、醤油煮も作られるようになり、自分達の食べる分以外のものを、江戸の町に売りに行くようになり、「佃島で作られた煮付け」が佃煮になったわけです。
だから佃煮には魚貝類の具が多いのですが、起源が大阪の人々とは、とても意外ですね。
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*今でこそ日本の中心は東京で、若い人たちはみんな東京に憧れ、東京以外は都会に非ずとでも言いたげな風潮がこの国を支配しているが、ほんの100年~200年前には文化の中心は大阪であり京都であった。関西は『上方』であり、双六の上がりは京都、天下の台所・経済の中心は大阪ということになっていたのである。ぷいぷい!
*う~ん。しかし、私は現在環状線の外側にひっそりと息を潜めて生息しているしがない《ご老体》であるが、ときに気が向くと《ケッタ》(←愛知県の人は自転車のことをこう呼ぶ)を駆ってなんばまで遠乗り(?)に出掛けることがある。なんばまで行けば梅田もすぐだ(!)
大阪はコンパクトな街なのである。環状線は山手線と比べるととても小さい。但し、私は大正区とか、港区とか、あっち方面へ《チャリンコ》(←自転車のことを関東ではこう呼ぶ。でも大阪でおばさんの乗る婦人車を『ママチャリ』と言っている人がいたから、私の方言知識もアテにならない)で行くことはない。
*何故行かないかと言うと、2回程行って2回とも殆ど迷子になってしまったからである。
運河等で行き先を阻まれることがあるから、ヤマカンで工場や倉庫のある地区を走り回っていて、そのうち自分がどこにいるのかわからなくなってしまうのだ。
*あ、そうだ! そのことで言えば、ある人に大阪の街中に於ける簡単な方角察知法を伝授して貰ったことがある。
ではその秘伝を今から本邦初公開(!)するのですよ。前列の人はそこの線まで下がって下さい。あ、押さないで、押さないでったら!・・・!
それはなんと「山並みが見えたらそれは生駒山系であるから、東だ!」というのである。
う~ん、これはすごいねっ! 六甲山とかは大阪の街中からは見えない。北の京都方面とかは、淀川があって、取敢えず山はない。南側和歌山方面にも山は見えないし、西は海だ。天保山があるって? あれってほんとに山なんだろうか?・・・
*というわけで、かつてUFOが出ると言われた生駒山系にはそういう有難いご利益もあったのである。
そう言えば大阪へやって来た6年前には、暇さえあれば自転車を乗り回していたような気がする。神戸へは国道2号線を行けば簡単に到達出来る。但し帰りは大変だ。住之江区を更に南下して(大和川だったか)河口近くの(?)大きな橋を渡ればもうそこは堺市だ。
*でも私が一番多く行ったのは京都である。いろんなルートがあるが、基本は交通標識を見ながら北上して行けばなんとかなるという、いい加減なものだった。
袋小路の公道というものは存在しないことになっているから、出口は必ずある。ただ国道1号線は途中歩道がしっかり付いていない箇所も多いので、ママチャリ自転車ではちょっと怖い。
八幡市だったか、峠越え(?)をする羽目になったこともある。守口車庫~寝屋川市~枚方パーク~・・・後は樟葉駅で京阪線沿いから離れて松花堂公園へ向かい、更に北進して八幡中代というところから国道1号へ入るともう《憧れの京都》は目の前だ!
*電車、バス、車で行けばなんということはないのだが、普段乗っている自転車で京都駅前や四条大橋をうろつくのも一種達成感があって、なかなか味わい深いものがあるのだ。ただ時間に余裕がないと、こういうお遊びは出来ない。