豊前善三のつれづれ日記 2011年12月31日 ブログをはじめました

日頃、感ずることについて考える。人間らしさを さまざまな人間模様。

豊前善三のつれづれ日記

2021年07月22日 19時01分49秒 | 日記
 ( Vol 2866 )  東京オリンピック開催が近づいて 見えてきた矛盾が見えてきている これでも 強引に開催するのか 

選手の中には コロナの検査で 陽性となり 出場できない という状況に追い込まれ

団体競技においては 戦力が落ちる という状況に追い込まれ

十分な練習 調整ができない 


このような 状況において 真のスポーツの祭典といえるのだろうか


また 感染拡大防止として 選手 関係者 報道関係者の行動も制限


この制限も厳格化せずに 形だけでになっている


すべてが 中途半端

この原因は 自民党政権にある


なにが なんでも 開催したい

と 独走した


自民党政権 自民党議員は この責任の重さを痛感してほしいものである


一部 競技では 試合が始まっているが 盛り上がり欠ける


無観客試合 など考えられない


無観客で 試合する意義は あるのだろうか


これでは 国民は無関心になる



なんのために 東京オリンピックなのか

その意義は 不明


また IOCに開催の決定権があると 菅総理は述べるが

開催へと IOCを動かしたのは 自民党政権である


その点は 忘れてはならない


今回の 東京オリンピックは 「復興オリンピック」と標語を変えて開催にこぎ着けてきたが コロナの感染拡大にともない 標語は「コロナに打ち勝った」ということば置き換え 開会式の演説には 「復興オリンピック」という言葉が盛り込まれていない という


どこまで 場当たりで コロコロと変えてしまうのか


若者たちは 政党指示において 他の政党よりも 自民党の方がまし という思いがあるようだが

この東京オリンピックの対応 コロナ感染拡大への対応 について 冷静に判断して 指示判断をしてもらいたい


経験がすべてではない

明日を築くのは 明日を切り拓く 発想とエネルギー である


それがあるか

残念ながら 自民党にはない 

自民党は 経験に頼るばかり 明日を切り拓く力はない

すべてが ハッタリ とゴマカシ















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豊前善三のつれづれ日記

2021年07月22日 18時20分37秒 | 日記
 ( Vol 2865 )  竹中平蔵氏の Youtubeでの 「医学部獣医学部を両方ある大学はない」という発言は 立場からは 恥ずべき失言である  聴く側は 鵜呑みをせずに 検証する姿勢が大事である

言わんとすることを 言うにしても 誤った知識を公衆に晒すのは 竹中平蔵氏の 精神を疑いたくなる

医療において 獣医の知識協力が必要である ということは

バーバラ・N・ホロウィッツ氏とキャスリン・バウアーズ氏の共著
「人間と動物の病気を一緒にみる  医療を変える汎動物学の発想」という著書で

医師と獣医師との知恵の協力は述べられている

この翻訳著書は 2014年に インターシフトより発行されている

医師と獣医が協力しあうということは さまざまな病気と向かい合うときには ときには必要である

だからといって 大学に 両方の大学がなければならない という 論理にはならない


要は 必要なときに 協力し合う という体制である

上述の著書の中にも その点が訴えられている


竹中平蔵氏の 論理は 非常に偏った 行政への改革を必要とする思いが 言わせたと思える

所謂 勇み足である


何でも つくれば良いというものではない


竹中平蔵氏の推進した行政改革は 形だけで 中身の伴ってないことが多い

非正規雇用制度についても 社会的基盤を疎かにして 弱者の生活を弱体化させた

これは 負の行革というべきものである

いまだに 非正規雇用の弊害についての是正は放置したままである


竹中平蔵氏の 論理には両手を上げて 賛同するということはできない

疑って聴く 必要があり 一度 踏み止まって 一考する必要がある


竹中平蔵氏の論理は 大所に立っていない といえる








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豊前善三のつれづれ日記

2021年07月22日 07時32分41秒 | 日記
 ( Vol 2864 ) 「いじめ」をする側は プロレス 遊び ゲーム などと言って 責任を逃れようとする  本心は 自分のフラストレーションのはけ口 まさしく いじめ を自覚している 「いじめ」をなくすには 日頃から 注意する環境をつくることである

「いじめ」これは 受けた人間でしか 言い表せない

最近 いじめを受けていた本人が 実名と顔を報道の前に 姿を表して 味わった苦痛を 訴えていた

学校における教師の生徒とへの対応にも 友だち感覚になり 人権尊重という点から 「いじめ」をする生徒を 過剰とも思える 擁護に走っている

これは 教師の威厳 教師と生徒との間に距離を置くということがないためである

「嫌われる勇気」という言葉があるが

いま 教師に求められるのは 「嫌われる勇気」をもって 悪いことは悪い と注意すべきである

また 保護者にも 教育という立場から 「嫌われる勇気」をもって 悪いことは悪い ということを示すことが大事なのではないか

いま「注意」しない社会になっている 

このことが 悪いことは悪い と自覚しなくなっている


「いじめ」は悪いということを 自覚しないからこそ なくならない

いじめには 大きさに関係なく いじめられる側にとっては 同じである

精神的なダメージは 同じように 起きている


教師は いじめられる側の 精神的ダメージを 考えて いじめに対応をする 必要がある

裁判においても いじめる側の将来を考えて いじめる側に寄った判断がなされている

これでは 「いじめ」という いじめる行為に対して 理解はされない

いじめても 「いじめ」として扱われない という解釈を いじめる側は思ってしまう

上手く 言い訳逃れをしようとする

プロレスごっこ 遊び ゲーム などと 言い訳をして いじめを自覚していない と言い訳

このような 言い訳が 通用する社会にしている状況は 異常である 
と社会は自覚する必要がある

「悪い」ことは 「悪い」と言える 社会にしていく必要がある

「注意する権利があるのか」 という 意味もわからずに使う わんぱくたちに 小さいときから 「注意される」 環境をつくる必要がある

周囲の人たちが 注意すれば いじめがなくなるようになる


すべてが 小さいときから 「悪い」ときには 悪い という注意する環境が いじめをなくすことにつながる

「権利があるのか」などと 注意する人に 言わなくなる

責任を逃れようとする 言い訳もしなくなる


すべてが 環境か 関わっている

注意する という行為こそが 行動に責任感の 意識を持たせることができるのではないか







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