「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

6,姥処女 ①

2025年02月20日 08時37分59秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・「今日ちょっとお伺いしても、
よろしゅうございますか、
奥さま」

と西条サナエが電話してきた

うーん、またかぁ、
と私は憮然とする

この女、頑固者で、
会ってもあまり楽しくないのだ

人のことを頑固というのは、
自分も頑固だからかもしれない

素直で、
何でも相手のいいなりになったら、
頑固とは思わないだろうから

サナエのほうも、
私のことを頑固と思っているかも、
しれない

頑固対頑固、
頑固頑固した仲が面白いはずは、
なかろうに、
サナエはちょくちょく来たがるのである

六十になって、
淋しくなったのかもしれない

私なんか、
六十はまだ現役で働いていた

六十は老人の中へ入らない
女の美しい盛りである

「女盛りは真っ八十」
と九十になる私の叔母はいい、
私と宝塚を見にいって、

「やっぱり何やな、
若い人に比べると、
ワタエもちょっとトシとった、
という思いがしまんなあ
はっさい(おてんば)のワタエも、
あない足は上がらしまへん

そやけどどないだす、肌は
まだ娘はんに負けしまへんなあ」

と自慢していた

六十ぐらいで淋しがっていては、
こまるのだ

この女はしかし、
古い馴染みなので、
細木老人が来たがるのを、
断るようなわけにもいかない

戦後に私の店で働いてくれていた、
事務員である

四十でやめて、
今はお茶やお花の先生をして、
食べている独り者である

昔はキビキビしていい子だ、
と思っていたが今はちょっと、
老人性うつ病なのか、
陰気で頑固という、
私の最も好ましからざる性格に、
なってしまった

そこは困るけれども、
前沢番頭と同じで、
長年、一緒に苦楽をともにしてきて、
半分身内のような女だから、
よその人間という意識はない

私に時々会いたくなるらしい
そこもふびんである

「そうね、
今日は集まりがあるのやけれど・・・」

「今日はいけませんか?
私、今日ならよかったんですが・・・
集まりというのは何ですか?
『天地生成会』にお入りになって、
いらっしゃるんですか」

集まりというと、
宗教団体しか考えられないらしい

私はサナエもパーティに、
誘ってやろうと考えた

老人性うつ病の治療に、
いいかもしれない

「いえ、
遊ぶ集まりなのよ
ウチで『敬老の日」のパーティを、
しようと思うの
あんたも寄せたげるから、
いらっしゃい」

「そうですか
そんな所へ伺っていいですか
ほんならお伺いします」

とサナエは電話を切る

私はつくづく思うのだが、
私の所へ来たがる男や女は、
多いけれども、
私に来てくれと誘う人は少ない

彼らは電話をかけてくるが、

「お伺いしてもいいですか」

という「お伺い電話」ばかりで、
「お誘い電話」というのがない

私に電話してくる高齢者の男女、
熟年男女はサナエはともかく、
自立していないからであろう

自立老人だけが、
「お誘い電話」をかけられるのである

経済的、精神的、肉体的に、
ひとり立ちできる老人だけが、

「遊びにおいで下さい」

と誘えるのである

「お伺い電話」ばかりの、
老年男女を見ると、
自分の部屋もなく、
娘や嫁や孫に気がねする環境に、
ある人が多くて気の毒である

しかしそれ以上に、
何よりも気概がないから、
人を招くことが、
出来ないのではあるまいか

「自分の領土に、
客を迎える領主」

の気概である

客を迎えるというのは、
自分が主になり柱になることで、
ぐうたらや未熟者では、
つとまらぬわけである

気概のない人間は、
自分が招くより、
人に招かれ客になって、
大切に扱われたがるのであるらしい

だから私だって、
誰かれかまわず招く、
ということはしない

かの細木老人などは、
私のウチへ来たがってしょうがないが、
老人の昔話につきあわされるのが、
いやさにいい返事をしないわけである

客で来るほうも、
やはり気概のある客でなくちゃ

といっても、
私はどういうものか、
招かれても人のウチで、
居心地よかったことはあまりないので、
招待されるのはあまり好きでもない

小さい子供が出てきて、
しまいに童謡のテープなんか聞かされ、
おゆうぎを始められたりすると、
げんなりする

チビやガキ、
赤ん坊を見せると、
老人は喜ぶと思っているのかも、
しれないが、
私ゃ、へたくそなガキのおどりなんか、
見させられるほどヒマ人じゃない

ませた顔つきの幼稚園児が、
カックンカックンと首を振って、
拍子をとったりし、
得意満面でいるのを見ると、
つくづく、
生き飽いたという感じがする

カックンカックンのころから、
七十六の今日まで、
思えば遠くへ来たもんだ

私の息子たちが、
カックンカックンするときは、
私はもう夢中で可愛かった

しかし息子たちのそれぞれの孫の、
カックンカックンのころは、
私は会社を維持し、
暖簾を守ってゆくのに、
しゃかりきであった

孫のカックンカックンは、
可愛いのだけれど、
もっとヒマになったら、
ゆっくり楽しもう、
と自分に言い聞かせ、
働いてきた

働いて、働きぬいて、
ホッとした今、
孫たちは嫁入りしようか、
という年頃になっており、
他人の孫のカックンカックンを見ても、
どうしようもないわけだ

それからまた、
招かれるのはいいが、
無理やり招待されることがある

「お食事をどうぞ、
ご一緒に
お一人暮らしではさぞ、
お淋しい食事でしょうねえ
お察しいたしますわ
ウチで召し上がってください
ウチは何もございませんで、
ありあわせのものですけれど、
みんな家族が一緒で、
にぎやかに食事いたしますのが、
取柄なんでございますの」

といわれて、
七、八人の食卓へつかされる

これが虎や熊でも、
素手でひしぐような大男の、
高校生の息子たちが並ぶ食卓なのだ

娘も大女であった







          


(次回へ)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 5,姥野球 ⑥ | トップ | 6,姥処女 ② »
最新の画像もっと見る

「姥ざかり」田辺聖子作」カテゴリの最新記事