むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

12、手習 ⑨

2024年08月06日 08時29分57秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・九月になって妹尼は、
初瀬の観音さまにお礼参りを、
思い立った

亡き娘を恋うて、
心細い生活をしていた身に、
娘の身代わりとしか思えぬ人を、
恵まれたので、
観音にお礼を申し上げなくては、
と思う

「さあ、
ご一緒に参りましょう
心配など要りません
あそこの仏さまは、
霊験あらたかな仏さま、
幸せを授けて下さいます」

妹尼は浮舟に同行をすすめるが、
浮舟はその気になれなかった

昔、
母や乳母が同じようなことを言って、
度々お詣りさせられたけれど

(それで幸せになったというの?
何の霊験もなかった
死ぬことも出来ず、
生きていると人に告げられず、
こんな悲しい身の上になって
それに、尼君は何といっても他人、
長い道中の旅を共にすれば、
どんなことになるやら)

と怖かった

しかし、強く拒むことは出来ず、
妹尼の心を傷つけぬよう、

「気分がすぐれませんので、
そのような遠い旅の道中、
どうなることかと、
案じられます」

といった

妹尼は、
さもあろう、
宇治で怖い目にお会いになった、
ことでもあるし、
無理はないと思って、
強いて誘わなかった

浮舟は手習いの紙に書きつけた

<はかなくて世にふる川の
憂き瀬には
たづねもゆかじ二本の杉>

(あるかなきかに、
心細く世に生きてる私
初瀬の古川のほとりの、
ふたもと杉を再び訪ねる気には、
なれない)

尼君はその歌を見つけて、

「おや、
ふたもと杉とおっしゃるからには、
再び会いたい方がおいでですね」

といったが、
それは浮舟にとって、
図星であった

妹尼は事情はわからぬまま、

「<古川の杉のもとだち
知らねども
過ぎにし人によそへてぞ見る>

どんなご事情があったか、
わかりませんが、
私には亡き娘のように、
思っています」

初瀬詣では、
少ない人数でひそかに、
というつもりだったが、
山荘の尼君たちはみな、
お供したがったので、
留守居役は少なくなった

妹尼は、
留守があまりに少なくなるのを、
浮舟のために気の毒に思い、
心利いた少将の尼、
それに左衛門という年輩の、
しっかりした人、
女童などを残した

初瀬詣での一行が出発したのを、
浮舟はぼんやり見送り、

(ああ、つまらない人生
頼みの綱の尼君さえ、
行っておしまいになった
心細い・・・)

と思っているところへ、
中将の手紙が来た

少将の尼は、

「ご覧なさいませ」

というが浮舟は耳もかさない

山荘はいつもより、
人少なで淋しい

浮舟はすっかり沈みこんでいた

少将の尼は慰めて、
浮舟に碁をすすめた

自分の方が強い、
少将の尼はそう思って、
浮舟に先手で打たせてみると、
全く歯が立たぬほど、
浮舟は強い

少将の尼は感嘆し、

「まあ、
尼君が早くお帰りになれば、
お姫さまの御碁をお見せしたいもの
尼君もとてもお強うござます
なんとすばらしい」

少将の尼は面白がっている

老いた尼が、
碁などに興じているのが、
浮舟には好ましくない

月が出て、
風情あるころ、
昼に手紙をよこした中将が、
自身、訪れてきた

(まあ、いやだわ
どういうこと、これ)

浮舟はうっとうしくなって、
奥深く引きこもる

浮舟は不在だと言わせたが、
昼に来た手紙の使いが、
浮舟は留守に残っていることを、
告げたらしく中将は退かない

少将の尼は、
中将と浮舟に挟まれて、
困り切っていた

「尼君がいらっしゃらないので、
代わりにお返事なさる方もいません
何とかご返事を」

と責めるので、

「山里のあわれも分からぬ身、
あなたのお話相手になれますまい」

ひとりごとのように言うのを、
少将の尼は伝えると、
中将はいよいよ心動かされて、

「どうか、ほんのもう少し、
お出になってくださいと、
おすすめして頂けませんか」

人々が困るほど嘆願する

少将の尼が奥へ入ってみると、
浮舟はなんと、
母尼の部屋へ隠れている

普段はめったにのぞかない部屋、
なのに中将を避けたい一心で、
あるらしかった

中将が奥まで踏み込んで来たら、
という懸念があったのであろう

少将の尼は呆れてしまって、
今は仕方なく中将に告げた

中将は嘆きながら、
そこまでかたくなな女の態度に、
新たな好奇心をかきたてられた

「こんな淋しい山里で、
若い女性が物思いに沈むのも、
おいたわしい
ただ風雅を語るお話相手に、
と願ったのだが
これでは私は疫病神のように、
思われているのか
このお仕打ちは、
まるで無教養なわからずやよりも、
もっとすげなく、
にべもないではないか
それとも何かね、
よほど男で懲りた事情でも、
あるのだろうか
どんなわけがあって、
人生に絶望していらっしゃるのか、
いつまでここにおいでに、
なるのですか?」

中将は矢継ぎ早やにたずねたが、
少将の尼も、
詳しいことなど、
どうして自分からいえよう






          


(次回へ)

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