むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「1」 ⑤ 

2024年08月24日 08時32分58秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・則光は、
葬式をすませて帰ると、
がっくりして涙を浮かべていた

「あたまの中が、
がらんどうの気分だ」

そういってすすり泣いていた

「あらそう」

私はその女を見たこともないし、
憎らしくはあっても、
親しみをおぼえたことはないから、
困った

「辛いでしょうね」

「何しろ、急だった
長くわずらっていたならともかく、
前の晩に別れたところなんだ
気分も晴れやかそうで、
どこも変ったところはなかった
やさしいんだよ、
あいつは」

「そお」

「お前と違う」

則光は、
これを憎らしそうにいうのではない

いつも淡々としていう
全く客観的にいう

それが私には判る

則光は私に、

「お前はちっともやさしく、
してくれない」

と恨むが、
それも全く、
なんの下心もなく、
真実をいっているのである

だから、
新しい女のほうをよくいって、
私を怒らそうとか、
おとしめようとか、
という発言ではないのであった

子供のように、
ありのままをいっている

則光は大粒の涙をこぼし、
私の手を握りしめ、

「子供が、
母親の死んだのも知らないで、
ゆすぶってねえ・・・
お母ちゃん、起っきしてよ、
というんだなあ
おれはたまらなかったよ」

と泣きじゃくっている

「かわいそう」

といったけど、
私はどうしても涙が出てこない

困ってしまって、
よそ見しながら、
則光の背をなでていた

「諸行無常だ
花山の院が、
女御と死に別れられて、
お嘆きになっていたときは、
おれはまだわからなかった
同情の心が薄かった
でも、今はやっとわかったよ」

「いつまでも悲しんでいては、
体がもたないわ
何も食べていないんじゃない?」

「食ってない」

則光は放心したように答える

「体に毒よ
お食事の用意をしてあるから、
おあがりなさいな」

「要らん
食う気なんかおこらない
何を見ても面白くない
何を食っても味なんかわからない」

私は、

(なにぬかしとんねん)

と面白くないのであった

別の妻の話をして、
私に共感を強いるところが、
則光のぬけた「ちょっと足らん」
ところがある気がされる

まさか(いい気味)とは、
思わないが、
私にとって女の死は、
哀傷を誘わないのが本音である

ただ、小さな男の子の話は、
心を動かされ、
あわれな気がしたけれど

「じゃ、あたし一人で頂いていい?」

私は食事をとった

私の方は別に、
胸がいっぱいでもなく、
味もわからぬということはないので、
美味しくいただく

「お前はまあ、
よくこんな時に、
めしが食えるもんだねえ」

と則光はいう

なんぞ間違うてるのと、
違いますか、
死んだのは私の親兄弟ではなし、
恋人でもないのだ

「連れ合いの悲しみは、
お前の悲しみではないのかねえ
同情心が薄いねえ」

則光は呆れているのであった

私はまた、
則光が呆れていることに、
呆れていた

それから、
あんまり長く経たぬうちに、
今度は私の父の訃報が届いた

父は身内の一人もいない、
任地先で灯が消えるように、
亡くなっていたのだ

最初に知らせが来た時、
私がまっ先にさがし求めたのは、
則光であった

「お父さまが亡くなったのよ
お父さまが!
ああ、
やっぱりついていけばよかった
年とった人を、
一人さびしく死なせてしまった」

私は則光にすがって、
ありったけの声を放って泣いた

「元気で帰って来る、
といったのよ
ああ、あたまの中がからっぽだわ」

「ふ~ん、そうかい」

そうしておずおずと、

「辛いだろうねえ・・・
仕方ないよ
諸行無常の世だよ」

「そんなこと言ったって、
悲しいものは悲しいわよ!
あんたって、
ずいぶん冷淡ねえ」

「おれが?」

「そうよ
連れ合いの悲しみは、
あんたの悲しみじゃないの
こんなにあたしが、
お父さまのことで悲しんでる、
それを万分の一でも察してくれよう、
というやさしい心なんか、
あんたにはないんだわ」

「親父さんが亡くなったら、
その分、おれが可愛がってやるから、
いいじゃないか・・・」

といい、
衿元から大きな手をさしこんできた

「それどころじゃないの、
わからないの!
このぼんくら!」

私は則光を突き飛ばした

「お父さまと私のつきあいって、
そりゃ長い心の交流だった
いま急に死なれて、
どれだけ悲しいか、
わからないの!
無能、まぬけ、とんちき」

「お前だって、
以前あいつに死なれて、
おれが悲しんでいる時、
ちっとも一緒に悲しんで、
くれなかったじゃないか」

「あの時と場合が違うわよ」

「違うもんか
人の死はみな同じだよ」

珍しく則光が反発した

あれからいろんなことがあって、
そうして私と則光は、
いったん別れながら、
再会した

私は、関白、道隆さまの大姫君、
定子中宮の女房になり、
宮中に仕える身となった

則光は、
三十にしてやっと蔵人に昇進し、
昇殿を許される身となった

そうして私たちはめぐりあい、
こんどは夫婦としてではなく、
恋人としてのつきあいになった

「則光、
清少納言はお前の何だ」

と頭の君にいわれて、
則光はあわてふためき、

「あれは私の妹で・・・」

と苦しい答弁をしたものだから、
則光は、

「お兄さま」

というあだ名をつけられ、
大笑いになった

則光は昔とちっとも、
変っていない






          


(次回へ)

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