
・その年の五月、
兼家公は病気になられた
二条京極の邸を美しく造営して、
住んでいられたがこの邸は、
怪異の多いところで、
物の怪が跳梁すると評判である
長男の道隆公はじめ、
お子たちが心配して、
お移りになるよう申しあげるが、
聞かれない
しかし病気が重くなり、
とうとうその二条邸を寺にして、
法興院(ほこいん)と、
改められた
「あの怪異の邸では、
寺にしたって同じこと
やはりお移りにならなくては、
ご快癒は望めないのではないか」
と憂える人もあったが、
元来、人のいうことなど、
耳に入れられない性格の、
兼家公なので、
「ここは都の東のはずれだから、
東山などが間近に見えて、
山里という感じがよい」
とうそぶいていられた
世の中を思うがままに、
支配してこられた一の人、
帝と東宮のおじいちゃま
一族の長にして、
天下の主という要のお人、
強欲で冷酷で策謀家で、
陰険で、しかも、
それとは裏腹に、
人を愛する血が熱く、
豪放で太っ腹で、
わがまま者といわれた
邪魔者は片はしから破砕し、
その手は汚辱にまみれている
それらは今、
目に見えぬ陰鬼となって、
兼家公の終焉の邸の、
そこここにうずくまり、
のび上りして、
公の最後のときを、
待ち受けているのかもしれない
それらの物の怪の中には、
一時、
兼家公の北の方といわれた、
女三の宮の怨霊もあると、
いうことだ
この兼家公は、
たくさんの夫人たちのところへ、
通われていただけで、
ご自分の邸に北の方を据える、
ということはなさらなかった
正室と見られていた、
時姫も亡くなられ、
「蜻蛉日記」の夫人との仲も絶え、
そのほかも打ち絶えてからは、
ご自分の邸にやもめ住みであった
邸に仕える女房の一人、
「内侍のすけ」を愛人にして、
この人が準正室のように、
邸をきりもりし、
世間では「権の北の方」
と呼んでいた
兼家公とて、
もともとやもめを通す、
おつもりではなかったらしく、
古い夫人たちとの仲が、
絶えてからは、
村上帝の皇女だった、
女三の宮に懸想して、
通われたことがあった
しかし、
それも数カ月のことで、
兼家大臣は興味を失って、
たちまち女三の宮を、
捨ててしまわれた
女三の宮は、
それを恥ずかしく思って、
物思いのうちに亡くなって、
しまわれた
兼家公のまわりには、
何人も女性がいたが、
兼家公は内侍のすけしか、
お目にはいらなかったそうである
先立たれた長女の姫の、
超子(まさるこ)女御が、
亡くなられたときは、
人目もかまわず泣き悲しみ、
忘れ形見の幼い三人の皇子たちを、
いつくしまれること、
大変なものであった
三人の皇子とは、
冷泉院の親王の、
二の宮、三の宮、四の宮である
二の宮たちは、
花山院の異腹の弟宮たちで、
いらっしゃるわけである
そして二の宮は、
ただいまの東宮でいられる
当今(今の帝)の一条帝が、
御位を下りられたら、
次の帝になられるべき宮である
兼家公は母君に、
早くに死に別れられた、
三人の宮たちを可愛がられ、
いつくしまれた
大風、大水、地震や雷鳴といった、
天変のときは、
兼家公はまず東宮御殿に、
かけつけられたということだ
兼家の大臣は、
悪辣さもたっぷり持ち合わせ、
あたたかな情愛もあふれるばかり、
貯えていられた方らしい
ただその情愛が、
かなり恣意的で、利己的で、
次元が低くて、
人間すべての愛にまで、
純化されていない、
どろどろの不純物を、
いっぱいふくんだ情け、
といえるかもしれない
公のご病気は、
いっこう好転しない
道隆公はじめ、
子息たちや皇太后詮子の宮は、
ご心配で次々お見舞いになる
昨年元服された、
冷泉院の三の宮は弾正の宮、
四の宮は帥の宮と申しあげるが、
その方々もしきりに、
お見舞いされ心もとながれた
兼家公は、
太政大臣の位も、
摂政も辞されて、
内大臣、道隆に譲られた
ついで出家される
功徳で病が軽くなろうか、
との願いからである
あらゆる手をつくし、
祈祷祈願の甲斐なく、
ついに七月二日亡くなられた
六十二であった



(次回へ)