むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

12、手習 ⑪

2024年08月08日 08時10分51秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・暮れ方になって、
僧都が山荘へ入った

僧都は母尼の部屋へ行き、
老い人のごきげん伺いをし、

「東の御方(妹尼)は、
物詣でに行かれたそうですね
ここにおいでだった方は、
まだ居られますか」

「はいはい、
ここにまだおいででな
気分が悪いとおっしゃって、
戒をお前さまから、
お授け頂きたいと、
いうておられた」

僧都は老母の話だけでは、
心もとなくまた戒を受けたい、
(出家したい)という話を、
聞き逃せないと思い、
たしかめようと東の対へ行き、

「こちらにおいでですか」

と几帳の前に坐った

浮舟は僧都と知って、
にじり寄り、

「はい」

と答える

「どんな風にお過ごしになって、
いられるやら心にかかりながら、
僧の身は、
女性(にょしょう)にお便りするのも、
はばかられましてな
自然にご無沙汰のうちに、
過ぎました
こんな草深いところで、
世を背いた老いびとたちと、
ご一緒では、
お若い身には、
お淋しいことでしょう」

「いえ、
尼君さまには、
たいそうよくして頂いています」

浮舟は今までは、
いつも誰かの後ろ盾に頼ってきた

しかし今はじめて、
わが希望を自分自身で表明し、
わが道をわが手で切り開かねば、
ならない

浮舟は自分の考えていることを、
僧都に伝えようと真剣だった

「この世に生きていまい、
と思い立った身が、
不思議にも生き長らえております
情けなく存じますが
あれこれお骨折り頂きましたご好意、
身にしみて嬉しくありがたいことに、
存じております
生きておりましても、
普通の人のような、
人生は送れぬように思われます
どうかわたくしを、
尼になさってください」

僧都はいう

「まだまだ先の長い、
お若い身の上で、
どうして一途に決められることが、
ありましょう
かえって罪作りです
かたくお気持ちを決めていられても、
年月が経つと女の身というのは、
厄介でしてね、
いろんなことが起こります」

と出家を、
思いとどまらせようとする

「いま急に思い立ったのでは、
ございません
小さい時から苦労の多い身で、
まして少しは世間のことも、
わかるようになりましてから、
世の常の女の幸せはあきらめて、
永遠の心の安らぎ、
後世の幸福を願いたい、
と思うようになりました
この頃はとても心細い気持ちが、
募って何かにすがりたい思いで、
いっぱいでございます
どうか尼にして下さい」

泣きながら訴える浮舟を、
僧都はじっと見つめ、
心動かされた

僧都は、
浮舟の嘆願を聞く気になったものの、
いますぐというのは、
ためらわれた

「わかりました
ともかくご本人が、
出家を決心なさったのは、
仏も賞でられることで、
私も僧の身として、
反対することではない
戒を授けるのはたやすいのですが、
今は急ぎの用で山を下りましたので、
今夜、一品の宮(明石中宮の女一の宮)に、
参上せねばなりませぬ
明日から御祈祷がはじまります
七日で果てますゆえ、
その後退出してきたときに、
お勤めいたしましょう」

七日経てば妹尼は帰ってくる
必ず浮舟の志を制止するに、
違いないと思い、
浮舟は必死にいった

「とても気分がすぐれません
ますます苦しくなります
これ以上悪くなりましては、
せっかく戒をお授け頂いても、
手遅れになります
どうぞお願いいたします」

浮舟が泣きながら、
哀願する姿は、
僧都の私心ない魂に触れた

これほど切望している人を、
望み通りにしてやるべきだ、
と哀れに思って、

「それでは
今夜にも
山を下りるのは昔は、
格別のこととも、
思いませんでしたが、
年を取るにつれ、
辛くなりましてな
ここでひと休みして、
内裏へ参ろうと思っていました
あなたがそうお急ぎであれば、
今日のうちに、
勤めてさしあげましょう」

浮舟は僧都の言葉に、
心から安堵した

「さあ、大徳たちこちらへ」

弟子の僧を呼んだ

「御髪をおろしてさしあげよ」

と命じた

この時、
少将の尼も、
左衛門という尼女房も、
この場にいなかった

少将の尼は、
僧都の一行の中に、
僧になった兄がいるので、
自分の部屋で会っていた

左衛門も知人を接待していた

そこへこもきが駆け込んできて、

「大変です!
お姫さまが出家なさるんです!
ご存じでした?」

というではないか

「まさか・・・
何かの間違いじゃないの」

少将の尼は信じられないで、
あたふたと浮舟の部屋へ来ると、
僧都や阿闍梨も立ち合い、
出家の儀式の最中

にわかのこととて、
定めの衣や袈裟の用意がなく、
僧都自身の衣、袈裟を、
形ばかり肩にかけた浮舟が、
礼拝しているところであった

「まあ、何ということ、
こんな軽はずみなことをなさって
尼君がお帰りになりましたら、
どんなに驚かれますやら」

少将の尼は惑乱して叫ぶが、

「もはや儀式は始まっているものを、
今更言い騒いで、
本人の心を乱さないほうがよい」

と僧都が制したので、
浮舟に近づくことも出来ない






          


(次回へ)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする