・四月二十七日
右大臣・道兼、粟田殿に、
ついに関白の宣旨が下った
出雲の前司、相如(すけゆき)
の邸に滞在していられる、
粟田殿のもとへ、
慶び申しにくる百官の車は、
あふれた
その喧騒を聞きながら、
粟田殿はただならぬ苦しさに、
身のおきどころもなく、
脂汗を流して臥していられた
出雲の前司・相如の邸は、
中河にあった
庭には、
池や遣水や築山など配して、
趣ある小ぢんまりした邸であるが、
世間には知られていない
というのは、
相如という人、
出世の本流から離れて、
晴れがましい栄えを知らず、
不遇だからである
この人は、
時平大臣のおん子、
敦忠中納言の孫にあたる
名門の出身にはちがいないが、
何しろいわくつきの家系なのだ
かの菅原道真公をおとしいれて、
道真公の怨みを買い、
子々孫々まで祟られるという、
時平大臣の曽孫というわけ
官位も出世せず、
人づきあいもできない、
というのはそのためであろう、
と世の中に思われている
この相如は、
粟田殿・道兼の君に年来、
私淑していて、
ひたすら粟田殿を頼り、
世の中の人が、
関白・道隆の君のもとへ、
参り集うても、
目もくれず粟田殿ばかりに、
勤めていた
そうして、
見事に作った邸も、
「これはただただ、
粟田殿の御方違えのつもりで、
造らせ参らせたもので、
ございます」
と平素からいっていた
それで道兼の君は、
療養のために相如の邸へ、
渡られたものらしい
邸内の造作は、
相如が心をこめて仕上げたもので、
障子など相如自身が絵を描いたりして、
道兼の君も興じられたが、
ここへ移ってもご気分は、
よくなられなかったようだ
そこへ関白の宣旨が下った
粟田殿の喜びもさりながら、
相如がどれほど喜んだことか
それほどまでに、
慕われるところを見ると、
道兼の君には、
男同士から見た魅力が、
あったのかもしれない
私たち女から見ると、
陰険で冷酷な策略家、
という印象であったが、
男の友情というもの、
女にはわかりにくい
そのうち、
祝いの人々がかけつける
邸は牛車や馬で埋まる
しかしここは何分手狭で、
関白就任の儀式も何もできない、
というので、
いったんここを出られることになった
その足で御所へ参内して、
お礼を言上される
恒例のことながら、
関白として初参内というので、
よりぬきの身分高き人々を供に、
連れられた
その後、
道兼公の北の方もまた、
相如邸を出られ、
これは二条の粟田殿の本邸へ、
帰られる
待ち受けるご本邸の人々も、
浮かれはしゃぎ、
その賑やかさといったら・・・
「あんまりのはしゃぎぶりだ、
と眉をひそめる人々もある」
と経房の君が、
私に耳打ちされた
それに引き換え、
静まりかえっているのは、
伊周(これちか)の君のお邸
(人の物笑いになった
あっという間に、
目の前の関白をさらってゆかれた、
みっともなさ・・・
もう人前には出られない)
伊周の君は、
嘆かれたという噂
と、また、追いかけて、
「粟田殿の病は、
かなりお悪いらしい」
という噂が伝わる
内裏じゅうに、
情報が飛び交う
殿上人たちは、
足も地につかず、
心もそらのようだった
その余波で、
後宮までうわずった、
躁狂に染まってしまう
主上はお心も、
お平らかでないらしく、
ご憂慮の色が深い
そして中宮は、というと、
二条のお里でひたすら、
父君の御菩提を弔われるのに、
専念あそばされる
兄君・伊周公にいわれたように、
(なにごとも天命)
と思いすまして、
いられるようだった
私は道兼の君の、
容態が気になってならない
いちばん利用しやすいのは、
経房の君である
この貴公子のもたらす情報は、
上つ方の動きについて、
正確で客観的なところに、
特色がある
経房の君は、
そっと二条邸の私の局へ寄られて、
「いま、
新関白どのが退出された」
と告げられた
「いかがでした?
お礼言上に参内されるくらいなら、
お悪いといっても、
たいしたことはございませんのね」
私も小声になる
この中宮のお里にいてさえ、
警戒をゆるめてはならない
「御前でお礼を言上されたが、
それだけで精いっぱいらしい
もう殿上の間から退出できなくて、
前駆の者を召され、
その肩にもたれかけて、
退出された」
「まあ
それでごようすは?」
「顔色ったらなかったよ
もともと色黒な方だから、
青黒くなっていられた
冠はまがり、
苦し気な息づかいに見えたが、
あれで関白の要職が、
勤まるだろうか
人々はおどろきあわてています」
経房の君は、
そういって、
またあわただしく出てゆかれる
夜になって、
私は朋輩の女房、右衛門の君に、
こんな噂を聞いた
参議で検非違使別当の、
実資(さねすけ)の君が、
粟田殿へお祝いに参られると、
粟田殿は母屋の御簾をおろして、
呼び入れられた
臥せっている寝室で、
面会されるらしかった
「こういう格好で、
お目にかかるのは、
失礼だとわきまえているが、
今後の相談相手として、
あなたを頼りにしているので、
そのことだけ申しあげたく、
失礼をかえりみず、
こういう所へお越し願った」
という意味のことをいわれたが、
それも息も絶え絶えで、
実資の君は、
こういうことを、
おっしゃっているのだろう、
と推量されるだけだった、
という
折しも風が御簾を吹き上げ、
実資公が道兼の大臣をご覧になると、
大臣は、
脇息によりかかっていらしたが、
「もう、頬はこけ、
ひげがまばらに生え、
眼が落ちくぼんで、
顔色ときたら死人のよう
荒い息を吐きながら、
それでも関白になったら、
ああもしよう、
こうもしたいと、
抱負をお話しになるので、
実資の君は何も言えず、
悲しくなってしまわれたそうよ」
右衛門の君は、
実資の君にお仕えする女房から、
それを聞いたそうである
(次回へ)