・私の見るところ、
内大臣・伊周(これちか)の君は、
父君・道隆公が亡くなられてから、
母方の祖父・高二位の、
入道どのに頼っていられるようで、
その影響で、
祈祷や加持に凝られられるように、
なった
もちろん、
はやり病で人がしきりに、
死ぬ時代は祈祷や加持に、
頼るものはないのだが、
伊周の君は、
関白の位が、
ご自分に廻ってくるよう、
高二位をせきたてて、
夜昼祈祷させているらしい
内覧宣旨があったといっても、
「関白の病の間」
という期限つきなので、
関白薨去されたいま、
振り出しにもどったというわけ
伊周どのは、
関白と氏の長者の実験が、
父の弟の粟田殿・道兼の君や、
道長公に移りはしないか、
と気をもんでいられる
伊周の君は、
父君薨去されてから、
どことなく少しずつ変っていられる、
気がする
今までの感じと変って
神経がいらだって鋭くなられ、
ご発言に慎重な配慮が失われた
以前は、道長の君と、
軋轢が少々あっても、
人目の多い場所では、
口外なさらなかった
それがいまは、
きんきんひびく声で、
高く言い放たれる
宮中というところは、
誰がいつどんな顔をして、
見たり、聞いたり、
さらにそれをどこへ伝えるか、
わからぬところなのだ
宮仕えしてわずか二年の私にも、
目に見えぬ空間を飛び交う、
声なき誹謗、中傷、嘲笑、反発、
呪詛を肌に感じるようになっていた
それだけに、
宮中の人前での発言は、
どんなに気心の知れた、
と思われる人々の前でも、
充分に心を尽くしすぎても、
尽くしすぎる、
ということはなかった
経房の君なども、
そのへんの機微に通じていられて、
私に洩らされる秘かな情報も、
用心に用心を重ねて、
さりげなく耳打ちして、
いかれる
宮中では、
どんなに秘めやかなささやきも、
屋根に上がって山伏がほら貝を、
吹くように音響は増幅され、
こだまを伴って広められてしまう
そんな当然の配慮すら、
伊周の君は失ってしまわれた
(これから、
どうなるんでございましょう)
という不安は、
世の中の上下を問わず、
抱いている
それゆえ人心は動揺しやすく、
なっている
そういうときには、
ほんのちょっとの針先で、
つついたような切れはしの言葉も、
取り返しのつかない、
流言蜚語となって、
まき散らされるのは、
目に見えていた
伊周の君が話されるのは、
おん妹の中宮の御前である
当然、ここには、
中宮ならびに、
故関白ご一家に心寄せる、
人々しかいない
しかし、
宮中社会の複雑さは、
こういうところで交わされた、
会話すら外へ洩れ出る
おまけに変質して流れ出すので、
奇怪としかいいようがない
私は伊周の君のお言葉が、
聞こえない風を装って、
遠くへ退き、
他の人々と私語していた
伊周の君も、
妹宮と内密の話を、
していられるつもりらしいが、
お声がかん高くなるのは、
抑えようもないらしかった
「粟田どのも、
大納言どの(道長の君)も、
父君が亡くなられたというのに、
弔問にさえ来られなんだ
そういう人でなしに、
天道が加護あるはずはない・・・
と母君も請け合っておられる
そういわれると、
百万の味方を得た気がする
そうお思いになりませんか」
伊周の君は、
笑い声をひびかせられた
叔父君、
祖父君、
母君の高内侍・貴子の上に、
ひたすら頼ることで、
当面の不安を乗りきりたい、
おつもりらしかった
中宮のお返事は聞こえない
真っ白い檀紙をお顔にあてて、
あふれる涙をぬぐっていらっしゃる、
らしいご気配
ややあって、
辛うじて声が洩れ出た、
というようなあるかなきかの、
お返事が耳を打った
「すべては、
人の力の及ぶところでは、
ございませんわ、お兄さま
何もかも天のお指図通りにしか、
この世は動きませんわ・・・
天命を、
この上は天命をお待ちなさいませ
お心をしばらくやすめて、
お体を大切になさって、
そしてまず、
何よりも父君のお葬いを、
ご立派にとり行われるよう、
お心がけ下さいませ
それがさしあたってのお仕事・・・」
中宮の仰せは、
理路ととのった、
やさしみあふれるものだったが、
そのお心がどれだけ、
伊周の君に通じたものか
それはともかく、
私には中宮のお考え方が、
はっきりわかった
中宮もまた、
兄君の狂おしい騒擾ぶりに、
不安感を抱いていられるのだ
中宮のご身辺に、
いつもただよっていた、
あの明るく挑発的な楽しい気分は、
いまは消えて、
その代り、
物思いとただならぬ不安が、
舞い落ちていた
東宮の女御で、
お妹の淑景舎の君へ、
お悲しみを慰め合われる、
お手紙をやりとりなさり、
そして御張台のうちからは、
数珠を操る音とともに、
きれぎれの御念誦が、
漏れるのであった
(次回へ)