・そんなところへお使者が来た
「早く出仕せよ」
という中宮の宣旨を、
伝えて来たのである
ついでに見事な白い紙が二十枚、
うず高く積み上げられていた
上質のやわらかい光を吸い込んで、
早春の香りを運びこんだような、
すばらしい紙
たっぷりと墨を吸い込みそうな、
思うことがすらすら書けそうな、
極上の紙
「わっ、どうしたの、これ・・・」
私、明けて三十三である
しかし、紙や筆のいいのを見ると、
抑えきれない歓声があがるのだ
着物も飾り物も好きだけれど、
紙も大好き
「宮さまの下されもので、
ございますよ」
と台盤所の雑仕はいう
そういえばいつか、
中宮に申し上げたことがあった
(世の中がいやになって、
生きてる気もしないときでも、
気がむしゃくしゃしているときでも、
いい紙や良い筆が手に入ると、
幸福な気分になって、
いっぺんに機嫌がなおってしまいます)
なんて
それを覚えていて下さったに、
違いない
こんなにたくさんの、
いい紙を必要としないけれど、
中宮はあのときのことを、
(ひやかしていられるんだわ)
と思うと嬉しいやら、
光栄な気持ちやらで、
胸が熱くなってきた
私自身忘れていたのに、
中宮が覚えていて下さった、
なんて
中宮がわざわざ私のために、
こんなにお心を、
遣って下さるなんて、
勿体ないといおうか、
光栄といおうか
どうお返事を申し上げていいか、
うろるろする気持ちだったが、
とりあえず、
<かけまくも
かしこきかみの験(しるし)には
鶴の齢となりぬべきかな>
(勿体ない
頂きました紙のおかげで、
私は千年も命が延びそうで、
ございます)
紙と神をかけたつもりで、
中宮なら則光とはちがう、
わかって下さるであろう
お使いの雑仕女には、
お祝儀に青い綾の単衣をやって、
帰らせた
そのあと、
私は夢中で小雪や古女房をたちを、
相手に紙を切って折り、
冊子を作るのにかかっていた
(中宮さまに頂いた紙)
と思うだけで心躍る
(ここに書こう
あの方の輝かしい日々を
この紙に書きとどめよう)
と思う
今はまだ下書きを書き散らし、
書きためている段階だけれど、
いつかはこの美しい紙に、
清書して中宮にさし出そう
(たのしいこと
美しいこと
心おどることだけを、
書きとどめればいいんだわ
悲しいことなんか、
書く値打ちはないわ)
と弁のおもとはいった
あの方に、
輝かしい記録を捧げよう
いつかは・・・
そうして私は思うのだ
中宮は私の「春はあけぼの草子」が、
完成するのを待っていらっしゃる
早く読みたいと、
思っていらっしゃる
書き手と読み手が、
めでたく心を通わせあった、
この幸福
しかも、
その幸福はそればかりでは、
なかった
二日ほどたって、
赤い衣を着た下人たちが何人か、
「ごめんください、
これをお持ちしました」
と畳表を持ってきた
それがずんずん中庭まで、
持って入るのだから、
「失礼じゃない、
勝手に入り込んで」
と侍女たちが怒ると、
まごまごして、
「じゃ、ここに置きます」
と縁に放り投げて、
帰っていった
「どこからなの?」
と私がいうと、
「それが何もいわずに、
置いていくんでございます」
と侍女はいう
取り入れさせて見ると、
これはまた、
上等の御座である
い草が匂うような、
青々しい畳表に、
高麗縁が清らかで、
私ははっとした
(これも中宮さまだわ・・・)
そうだった
いつぞや中宮に、
いい紙と畳表の新しいのを、
見ていると嬉しくて、
と申しあげたのだ
それも高麗縁の畳表など、
見ていると、
(やっぱりこの世の中って、
生きて甲斐ある世なんだわ
捨てたものじゃないわ)
と心が慰められて、
命まで惜しくなってくる、
と申しあげると、
中宮は、
「変った人だこと」
とお笑いになり、
おそばの女房たちに、
(紙や畳表で、
命を取り止めるなんて、
安上がりなおまじないね)
と笑われたっけ
急いで下人たちを追わせたが、
もう姿は見えなかった
それでいっぺんに里心が、
ついてしまった
私の里心は、
じつに中宮さまのおそば、
なのだった
こんなところで、
一人いても仕方がない、
去った者は去ったのだ
則光は何年かたたなければ、
帰らないのだ
そろそろ出仕しようかと、
思っていると、
「今夜は方違えです」
ということで、
やむなくほんの少しの、
知り人の家へ寄らせてもらう
もてなしの悪い家で、
そうそうにわが家へ引きあげたが、
気が滅入るほどの寒さだった
やっとの思いで、
居間へ入って火桶を、
引き寄せかじりつく
(一人ぼっちなんだわ)
としみじみ思う
いつぞや兄の致信が、
(弁のおもとの、
死にざまを見ろ)
といったが、
いくら派手なところに、
お仕えしていても、
里下りしてみれば、
一人きり、
寒さでがくがくしているざまで、
いるなんて
「炭を埋けてございますよ」
と小雪がいってくれる
火箸で細かい灰を、
掘り起こすと、
赤々とした大きな炭の、
よくおこったのが、
いくつも出てきていっぺんに、
くわっと熱くなり、
「おお暖かい・・・
生き返ったようだわ」
「お早く、
おやすみなさいませ
甘ずらの湯をお持ちしました」
古女房の左近がいう
左近はもともと、
父に仕えていた女房だが、
この三条の邸に住みついて、
ここの留守番役とも、
なっている
死ぬまでここに、
いてくれるだろう
もう六十過ぎていて、
夫も子もなかった
(次回へ)
・私は、
「いつ出発なの?」
という手紙を使いに持たせた
そして、
こんな手紙を書かねばならない、
状態を作った則光に怒っていた
私が、待っている、
とひと言ほのめかせば、
取るものも取りあえず、
あたふたとかけつけるべきなのだ
来るといって、
すっぽかすなど、
言語道断である
すっぽかすとは、
怪しからんではないか
私が重ねてやった手紙の、
返事がやっと来た
「すまん
ごたごたしているんだ
薄情な奴と思わないでくれ
薄情はお前にならった、
といってもいいかな
元気でいてくれ
すぐまた帰るんだ、
その時に会おう」
実に実務的というか、
そっけないというか、
立ちながら走り書きしたとしか、
思えない
世間並みな男なら、
離別という事態に立ち入ったら、
それこそ情を尽くして、
やさしい言葉をつづり、
女心をなぐさめ、
いたわってくれるであろうが、
この走り書きには、
味もそっけもない
私はくやしくて、
きりきりと腹を立て、
手紙をねめつける
その手紙に、
(お前のことどころじゃ、
ないんだよ、
こっちは忙しい、
というより嬉しくて)
という気持ちが抑えきれず、
浮かび上がっているのが許せない
則光はいつか、
(全く都と変ったところがいいな
都びとと全く違う型の人間と、
親しんだり一緒に仕事をしたい)
といったことがあったが、
彼は今、
そういう新しい人生への、
期待で心弾み、
何も手につかないのかも、
しれなかった
私とは別の地点で、
心弾みしている彼が、
(しゃらくさい)
という気でもあるのだ
私は歌を書いてやった
<よしさらば
つらさは我にならひけり
たのめて来ぬは誰が教へし>
(薄情をあたしにならった、
というのなら、
それはそれでいいわ
じゃ、来ると約束して、
来ないのは誰に教わったの?)
というような意味
すると思いがけなく、
夜に入って使いが彼の返事を、
もたらした
「歌なんか詠むな
といったろ?
歌、と聞いてだけで、
おれは頭痛がする
歌が書いてあると見る気もしない
それより、
お前のことをおれは、
心配しているんだよ
(おにいさま)(いもうと)
という情愛だけでもいいじゃないか
元気でいろよ」
これがまた私を怒らせた
「おにいさま」「妹」
という立場でごまかされた、
と感じたのだ
ちゃんとした挨拶もなく、
「妹」分扱いに、
うやむやにしてしまうなんて、
許せない
私はまた歌を書いて返した
<崩れよる妹背の
山の中なれば
さらに吉野の川とだに見し>
(おにいさま、いもうと、
なんて約束も崩れてしまったのよ
そんな情愛なんてまっぴらよ
何が心配?
あたしの何を心配するの
もうあんたのことなんか
これっぽちも関係ないわ)
そういう意味だと、
わかったかどうか
いや、
歌だと知って、
見もしないで、
うち捨ててしまったのかも、
しれない
とうとう返事は来ずになり、
そのまま、
則光一行は遠江の国へ、
赴任してしまったらしかった
則光は行ってしまった
彼が都にいる間は、
会わなくても気にならなかった
呼べば飛んで来ると思ったから
そういう彼が、
私に会いもせず、
都を出ていくなんて
遠江には大きな湖がある、
というけれど、
そういうところで則光は、
土の匂いを嗅ぎ、
川の水をすくって飲んで、
いるのかしら
私は則光を愛していた、
というのではないのに、
彼が都にいない、
というだけで、
何だか何を見ても、
うつろな気持ちだった
そうして則光に腹を立て、
彼を任じたお役所に腹を立て、
手づるを与えた兄・致信にも、
腹を立てた
しばらく出仕もできない、
状態だった
そのころ、
故粟田殿(道兼の君)の姫君が、
あらたに入内された
お年は十五でいらっしゃる
もっとも七日関白といわれ、
政権を手にして七日も、
たたぬうちに病にたおれられた、
道兼の君が、
「女の子が欲しい、
欲しい・・・」
と神仏に願をかけ、
やっと北の方が懐妊されて、
狂喜していらした
あの時のお子ではない
だってあれは三年前のこと
あのときのお子は、
願い通りに姫君だったが、
そのお顔を見ることなく逝かれた
こんど入内されたのは、
主上の御乳母の一人の、
藤三位という人と、
道兼の君との間に、
生まれられた姫君である
愛人の藤三位の姫君は、
別に可愛がっても、
いらっしゃらなかったらしい
藤三位は主上の御乳母として、
時めいている人だが、
道兼の君亡きあとは、
中納言惟仲と再婚している
惟仲がなかなかの野心家で、
道兼公の姫君を、
そのままおいておかず、
「御くしげ殿別当」として
入内させたという噂だった
いずれは女御に格上げするよう、
ひそかに運動しているという噂
さあ、定子中宮のほか、
承香殿、弘徽殿の女御がたに、
対抗して主上のご寵愛を、
ことさらお受けになろうとは、
思えない
承香殿の女御が、
ご懐妊とさわいで、
おなかからおびただしく水が出、
いっぺんにぺしゃんこになられた
と世間の嗤い者になっていらしたが、
主上はそれを、
おやさしいお心から、
深く憐れまれたらしい
傷心の女御に、
やさしいお便りがあって、
さきごろ女御はまた、
内裏へ戻られたという
そんなわけで、
私はもっぱら、
自分一人のむしゃくしゃにかまけて
出仕もしないでいた
(次回へ)
・行成の君は、
私の顔を見てない、
なんていって、
どこかからこっそり、
ご覧になったに違いない
まさしく私は、
あごと首すじ、
口元には自信があって、
首は白くて、
皺も筋も入っていないのが、
まあ、どちらかといえば、
自慢の一つ、
声もそう老いているとは、
思えないけれど
行成の君の言葉で、
私は嬉しい笑みがこみあげてくる
行成卿は知らずに、
おっしゃったのかも、
しれないけれど
私と行成の君は、
どこがどうということなく、
話が合う
「清少納言って、
ぬけめなく要路の男たちと、
つき合う人
それも左大臣(道長の君)がわの、
人々にもよしみを通じたりして、
何を考えているのか、
油断ならぬ人」
という陰口も聞こえてくるが、
私は中宮をご信頼申し上げているし、
やっぱり、
学識と教養を積んだ男たちと、
対等に会話を楽しめる、
この面白さを手放せない
体質的に私は、
男性との交際のほうが、
性に合っている
女人は、
私にあっては、
中宮お一人でこと足りる
私は美しい人が好きだから、
朋輩の女房の中でも、
美しい人に親しむが、
彼女らは私を退屈させる
頭の弁(行成の君)があるとき、
職の御曹司へ来られて、
話し込まれ、
つい夜おそくなったことがあった
丑の刻(午前一時~三時)が、
近くなり、
「明日、
宮中の御物忌なので、
夜中をすごしてしまうと、
不都合ですから」
と急いで出ていかれた
そのあけの朝、
蔵人所の備品の、
薄いのを二枚重ねて、
走り書きのお手紙がきた
「今日は、
言い残したことが、
たくさんある気がします
夜を徹してお聞かせしようと、
思っていましたのに残念です
鶏の声にうながされて、
席をたってしまいまして」
などとお書きになった、
手蹟の美事さ
私はお返事を書くのが、
恥ずかしかったけれど、
「鶏の声にうながされて、
とおっしゃいますが、
丑の刻を『鶏鳴』とは呼ぶものの、
まだ夜深く、
私の耳には鶏の声は、
聞こえませなんだ
もしやあなたのお聞きになった、
鶏の声は孟嘗君のそら鳴きの、
鶏でしょうか」
と書いた
孟嘗君の話は「史記」にある
この戦国時代の王族は、
たくさん食客を抱えて、
厚遇していたことで有名だが、
危地を逃れんとするとき、
食客の中に鶏の鳴き声の、
真似が巧みなものがいたのを、
利用して、
函谷関をたばかって開けさせた、
その故事を引いて、
諷したのである
するとすぐさま、
返事がある
「孟嘗君の鶏は函谷関、
でもこれは、
あなたと私の逢坂の関ですよ
彼は三千の食客の集団、
でもこちらは、
あなたと私だけの、
秘めやかな逢瀬
情緒がまるで違いますよ」
と何やら暗示的な手紙
楽しくて笑ってしまう
再びお返し
「<夜をこめて
鶏のそら音ははかるとも
世に逢坂の関はゆるさじ>
逢坂の関は、
鶏のうそ鳴きを、
一晩中したってだめ
開きはしませんわよ
あなたと私との仲も、
友人以上の仲になるなんて
それはあり得ないことですわ
しっかり者の、
関守が見張っていますから」
この返事がまた来た
「逢坂は
人越えやすき関なれば
鶏啼かぬにもあけて待つとか」
鶏が鳴かないのに、
開けて待つなんて、
ひどい歌
どうにも返事がしにくくて、
そのままになってしまった
経房の君は、
私のところへ来られ、
「頭の弁が、
あなたのことを、
ほめちぎっていられますよ」
「そう?」
私は赤くなったが、
嬉しかった
「『夜をこめて』の歌など、
誰知らぬものも、
ないほどですよ
自分が好きな人が、
人にほめられるというのは、
嬉しいものですね」
「あらま、
嬉しいことが、
二つ重なりましたわ」
と私はいわずにいられなかった
「何です、
二つって?」
「行成さまがほめて下さった上に、
またあなたが好きな人のうちに、
わたくしを入れて下さったこと」
「これも『春はあけぼの草子』に、
お書きなさいよ」
と経房の君はいわれた
われほめは面はゆいが、
中宮の再びの春の記念に、
これも書きつけておこう
この年の暮れには、
いいことが重なった
姫宮の脩子姫に、
内親王宣下があり、
いよいよ脩子内親王という、
お身分になられた
それから、
待ちかねた伊周の君が、
帰京された
誰よりもお喜びになったのは、
中宮ではなかろうか
再びの春は、
ゆるぎないものに見えた
年明けての除目で、
私は則光が遠江の権守に、
なったことを知った
ところが則光は、
私に会わずに出発してしまった
三条の自邸で、
しばしの別れの宴、
になると思っていたのだ
それをひそかに期待していた
遠江へ赴任すると聞いて、
しばらく私は待っていた
則光から、
何かいってくるだろう、
と思って
でも、むなしく日が過ぎ、
出発の日も迫るので、
ついに私は、
「三條へ里下りしている」
と手紙を持たせた
すると則光からは、
手紙の返しではなく、
使者の口上で、
「あさってごろ伺います」
といってきた
その夜、
私は心をこまかく使い、
金も使った晩餐を用意していた
若狭の小かれいを干したもの、
くわい、雉肉、鯛のみそだれ
つぐみのあぶりもの
山芋入りの白粥、
それに酒まで用意したというのに、
来ないのだ、これが
翌晩も来なかった
赴任前のあわただしさは、
父の例を見てよく知っている
まして則光は、
このたびはじめてのこと
従者も多いであろうし、
一家眷属、
たいへんな人数であろうし、
多忙をきわめているのは、
わかるけれど・・・
その翌晩も来なかった
(次回へ)
・行成の君は、
でも、どんな呪詛にも悲劇にも、
関係ないような明るい、
端正な容貌の殿方でいらっしゃる
しかし、態度が重々しく、
真面目でいられて、
趣味も地味でいらっしゃるから、
目立たない
前任者の斉信卿が、
かなりおしゃれな伊達男で、
派手な装いが似合われ、
また冗談もよくおっしゃって、
女房たちとふざけるのも、
お好きだったのに比べて、
かなり行成の君は、
「気ぷっせいな方」
という評判である
「とっつきにくい方ね」
という人もある
行成卿は、
お年は二十六歳だが、
お年よりは老成していられ、
座を賑やかすという、
ご趣味はないようである
また能吏として評判高く、
書では当代一人者といわれ、
学問もお出来になるのに、
歌が詠めない、
と人に思われていらっしゃる
実をいうと、
そこも私が、
行成卿を好きなところで、
私も歌を詠むのは苦手なほう、
とっさの頓智の歌なら、
得意なんだけれど、
名歌は得手ではない
しかし自分で詠めない、
ということと、
人の作った佳歌名吟を、
鑑賞する力がある、
ということとは、
別である
また女房たちの中には、
行成の君が左大臣殿(道長の君)と、
親しいのを憎む人もいる
しかしそれも私にいわせると、
左大臣殿はご自身が大物だけに、
行成卿のすぐれた資質を、
見抜かれたせいなのだ
そもそも地下びとだった、
行成卿を抜擢なさったのも、
才人の源俊賢卿だったけれど、
主上が、
「地下びとを蔵人の頭に?」
とためらわれたとき、
俊賢卿は力をこめて、
「これは得難い人材でございます
かかる者を打ち捨てておかれるのは、
天下のために不利と申すべく」
と奏上されたそうである
それほどの方だから、
左大臣殿も目をかけていられる
行成卿ははじめから私に、
「清少納言どの、
斉信に君に聞いていますよ
これからはよろしく
こちらへはしげしげと、
参上することになると思いますが、
お心安くしてください」
といわれる
役人たちはそれぞれ、
自分とウマのあう女房を、
探し当てて用事のある時は、
その人を介して奏上したり、
指図を仰いだりするのであるが、
この新任の頭の弁は、
まっすぐ私をめざして、
申し込んでこられたのである
ちょっと見は、
とっつきにくく見えるかも、
しれないが私は行成卿の、
誠実な重厚なご性格を、
すぐ見てとった
斉信の君みたいに、
打てばひびくという才気と違い、
熟慮断行というか、
軽々しいところはない
目は切れ長で澄んで生気があり、
鼻も唇も大きくいい形である
主上も行成の君を、
お気に入られてご信任あそばして、
いられるそうな
行成の君は、
取り次ぎの私がいないと、
局まで人を寄こして呼び立て、
あるいは里に下っていると、
手紙を寄こされたり、
ご自身でいらしたりする
「どうしてわざわざ、
ここまでいらっしゃいますの、
あちらに女房たちが、
いくらもおりますのに」
と私がいうと、
「いや、
そういうわけにいきません
私はいったんこの人と決めたら、
わき目もふらずという型の、
人間でしてね」
「窮屈ですこと
何によらず、
あり合わせで済ませ、
物にこだわらない、
融通無碍というのが、
大人のすることですわ」
私がからかうと、
笑顔になられて、
「生まれつきの性格は、
なおりませんね
改むべからずは心なり、
というじゃありませんか」
「あら、それじゃ、
過てばすなはち改むるに
憚ることなかれ、
という聖人の教えは、
どうなるんでしょう」
「まあまあ、
少納言どのと争っては、
負けてしまうのに、
決まってる」
などと楽しかった
私は行成の君と、
うちとけてつきあえる気がする
親を早くに失って、
苦労されたぶんだけ、
人にも暖かい思いやりがあって、
それは言葉の端々に匂う
中宮にも、
「やはり主上が、
お引き立てあそばすだけあって、
普通の人のようでは、
ございません
心ざま深い方でございます」
と啓上していた
「そのようね、
あの美しい字を見ても、
そう思うわ」
と中宮は行成の君の書に、
傾倒していられるようだった
行成卿は、
北の方との間に、
姫君も若君もいらっしゃるが、
浮いた噂はない方である
ただし女の容貌に、
いたく関心をお持ちでいられる
むろんそれは殿方の、
通癖だろうけれど
「少納言
お顔をいっぺん見せなさいよ
こんなに仲良くなって
そればかりじゃない、
ほかの人々は、
私とあなたはもう、
ただの仲じゃないとまで、
疑うくらい仲よしなのに、
まだ私に顔を見せてくれない
いつもいつも、
簾越しに会うなんて」
「いやよ、
わたくしはもう、
若くないんですもの
中宮さまの御前にも、
明るい昼間は恥ずかしくて、
夜だけこっそり出ていますの
不細工な器量、
お目にかけるほどのものじゃ、
ありませんわ」
「そうかな
経房の君は見ていると、
あなたの局の簾をあげて、
ずかずか入って、
いらっしゃるではありませんか」
「・・・あの方は、
まあ、弟のようなものですから」
「う~む、
則光がお兄さまで、
経房中納言が弟とすると、
私は年下の従弟、
ということにして下さい」
「頭の弁を従弟に持つなんて、
冥加があまりますわ
だけど、行成さまは、
どういう美人がお好き?」
「ま、私の好みからいうと、
たとえ目が吊りあがろ、
眉はおでこにくっつき、
鼻があぐらをかいていても、
ただもう、
口元がかわいらしく、
あごや首すじが清らかに美しく、
声がかわいい、
そういう人がいい
女性美というのは、
顔の下半分が元締めになりますねえ」
驚いたわ
私の顔を見てない、
なんていって、
どこからかこっそり、
ご覧になったに違ない
(次回へ)
・長徳三年(997)の夏は暑かった
都では物価が上がって、
暮らしにくいという
飢え死にする貧民も多い、
という噂だが、
ここ、中宮をお囲みする後宮では、
再び春が戻ったような花やぎだった
姫君はすくすく育っていらっしゃる
中宮のおん元へは、
主上からのご連絡が、
ひっきりなしにあり、
中宮の明るいお声がよく洩れる
殿上人の姿は、
夜昼、絶えることがなかった
上達部もよほど急ぎでない限り、
こちらへ参上なさって、
私たちを相手に、
おしゃべりを楽しんで行かれる
宮廷の社交界は、
中宮のいられる職の御曹司に、
移ってしまった
内裏よりはるかに開放的な、
暮らしは最適である
まだ姫宮がお小さいので、
内裏にお住まいになることは、
できないのだったが、
社交の面白さという点では、
こちらの方が自由だった
私のいちばん親しい男友達は、
経房の君をのぞいては、
藤原行成卿である
斉信の君が栄転なすったあと、
蔵人の頭になられた
この人は、
一条摂政・伊尹(これただ)公の、
お孫さんであるが、
祖父の摂政の大臣は早くに、
亡くなられ、しかも父君も、
行成の君が三つのとき、
はやり病で亡くなってしまわれた
そのため、
出世が遅れていらしたが、
才能のある方なので、
源俊賢(としかた)卿に、
みとめられて一足飛びの栄転で、
蔵人の頭に抜擢されなすった
異例の昇進、
と世間ではびっくりしたが、
それでも伊周(これちか)の君や、
隆家の君の場合と違って、
反感を抱く者はなかった
それに当代の能筆家としても、
評判の高い人で、
人々から一目おかれていられる
人々が噂するには、
「朝成の中納言が、
たたらねばよいが」
と笑いながらあてこするぐらい
行成卿のお家は代々、
「朝成の呪い」にたたられて、
短命だといわれている
もう二十何年も前のこと、
お祖父さんの伊尹の君と、
朝成中納言は蔵人の頭を争われた
家柄の低い朝成中納言は、
伊尹の君に、
「今回はご辞退下さい
今回なられなくとも、
そのうち必ず蔵人の頭は、
まわってきましょう
しかし私は今回外すともう、
その機会は永遠にございますまい
どうかこの度は家柄の低い、
私にお譲り願えませんか」
と乞われた
伊尹の君は、
「承知しました
お譲りしましょう」
と約束され、
朝成中納言は喜ばれたが、
いざふたを開けてみると、
蔵人の頭は伊尹の君であった
確約したにかかわらず、
伊尹の君は気が変り、
しかも朝成中納言に、
ひと言のことわりも、
なさらなかったので、
朝成どのは強く不快に思われ、
以来、不和であったが、
そのうち家来同士の争いがあって、
伊尹の君が、
「頭を越されて無念のあまり、
自分に無礼を働いた」
と怒っていられるという、
噂が伝わった
朝成卿はその釈明をせんものと、
一条邸へ参上された
暑いさかりであった
来訪を告げ中門で待っていたが、
長いことたつのに、
案内はない
貴人の邸を訪れた際は、
案内があるまで邸内に入れない
いまかいまかと待つうちに、
日は西へ傾き、
入日の暑さは堪えがたい
汗は滝のように流れ、
眼はくらむが、
誰もとりなす者はいない
(伊尹の奴め、
おれをあぶり殺そうという、
つもりか
来るのではなかった)
と思うと、
朝成卿の総身に、
ふつふつと憎悪と怨念が、
湧いてきた
そのうち、
夜になってしまったから、
今日はこれまでと去られたが、
(おのれ、おぼえておれ)
と物を握りしめられ、
それは音を立てて折れたという
それ以来、
朝成卿は怨念の鬼となって、
寝つかれ、
「伊尹の一族、
末長く呪い続ける
この一族に心寄せる者あれば、
それも呪おうぞ」
と叫んで狂い死にされた、
と伝えられる
伊尹公はそのせいか、
四十九のお若さで亡くなられ、
お子の行成卿の父君に至っては、
二十一、
その兄君も二十二で亡くなられる、
という短命で行成卿も、
つねに身をつつしんでいられる、
ということだ
こんな噂もある
左大臣の道長の君が、
夢を見られた
紫宸殿のうしろに誰か立っている
「誰だ」
と何度も問うと、
「朝成だ」
といった
夢の中ながら、
道長の君は恐ろしく思われたが、
「なぜこんな所に立っていられる」
と問われると、
「行成の参内を待っているので、
ございます」
というのであった
目が覚めて道長の君は、
不気味に思われ、
「今日は公事のある日、
行成は早くから参内するに、
違いない
朝成の悪霊に出会ったら、
気の毒である」
と早速手紙を書いて、
使者に持たせられた
しかしすでに、
入れ違いに行成の君は、
参内されていた
ところが何という、
運の強い人か、
参内するには必ず通らねばならぬ、
紫宸殿のうしろを通らず、
その日に限って、
藤壺と後涼殿のあいだから通って、
清涼殿の殿上の間へ上がられた
道長の君は驚かれて、
「どうされた
手紙はごらんにならなかったのか
急いで退出なさるがよい」
とすすめられたそうである
それを聞かれた行成の君は、
青くなられてひと言もいわれず、
そうこうと退出なさって、
物忌みにこもり、
祈祷させ、
しばらくは参内されなかった、
とか
男たちの権力をめぐる、
火花の散るような争闘が、
私には壮快だった
悪霊となった朝成も、
私には共感できて、
あわれむことや、
嗤うことはできない
権力を手に入れるためには、
男たちは何だってする
それは反面、
権力におもねり、
従うことである
朝成卿は現世での権力を、
断念してしまった
そうして異次元での、
権力者にになろうと、
現身を捨ててしまったのだ
(次回へ)