
・ウォーター事件というのがあった。
あれと同じことが日本では行われるだろうか。
日本でならもみ消されてしまうのではなかろうか、
いや、たとえ摘発糾弾され、権力者が失脚しても、
それをただちにテレビドラマにし仕立てる、などという、
野放図で太っ腹なことが許されるだろうか。
私は「大統領の陰謀」というアメリカのテレビドラマを、
面白く見たが、それ以上に、こういう事実あった事件を、
すぐテレビドラマ化させるアメリカ社会の柔軟な発想、
ふところ深さを面白く思った。
実際、アメリカでは何でも起り得るのだ。
大統領が汚い手を使って陰謀をめぐらすかと思えば、
現職の大統領が射殺されたりする。
その犯人は、真実のところまだはっきりしない。
どんなに浩瀚な政府関係の調査報告が公表されても、
誰も心から納得しない。
そういう暗黒部分はあるものの、
あの、宇宙ロケット打ち上げのニュース、
あれは失敗も成功もアメリカではもろとも発表される。
宇宙飛行士のいたましい事故も、
ただちに報道される。
社会主義国の厳しい報道規制とくらべてあげつらうのは、
あまりにも単純で粗笨な考えではあるが、
一般庶民としては感動しないではいられない。
もっともこれは、
われわれ庶民クラスが普通に接するニュースの範囲で、
プロのそのみちの方々からみれば、
庶民のうかがい知れぬ部分も多いと思われるが、
私の印象では、アメリカはつねにフランクである。
ふところ深いといえば、
映画「風と共に去りぬ」は昭和14年(1939年)にできた。
昭和14年といえば5月に日本はノモンハンでソ連と衝突、
日中戦争はその2年前からはじまっていた。
物資がそろそろ配給制になり、
服装も規制され、ヨーロッパでは、
この年、9月にヒットラーのドイツ軍がポーランドに進撃し、
第二次世界大戦がはじまるという、
物騒な騒然たる時代に「風と共に去りぬ」は出来た。
映画原作料5万ドル、製作費600万ドル、
上映時間4時間、総天然色、
今見ても興趣あせぬ豪華版である。
これが日本で見られるようになったのは昭和27年(1952年)。
製作されて13年もたっていたが、めざましく面白く、
24才の私は熱中して何度も見た。
もっともその時は若かったので、
クラーク・ゲーブルやヴィヴィアン・リーにばかり、
心を奪われていたが、今では、映画そのものよりも、
あの風雲ただならぬ時代に、腰を据えてこれだけの大作を作る、
アメリカの底力というか、身幅の広さというか、
底なしの壷のような深い活力に打たれてしまう。
戦後、私たちは、渇いたものが清冽な水をむさぼるように、
続々封切られるアメリカ映画を、飛びついて見た。
今もおぼえている名作の一つに、
「心の旅路」がある。
しっとりしたラブ・ロマンスで、
いささかの戦争批判もただよっていた。
これが昭和17年に作られたというのだから驚く。
戦争の真っ最中は日本もアメリカも同じ条件だが、
そのころの日本で、恋愛映画が作られただろうか。
戦意昂揚映画ばかり、
そうでなければ剣豪もの、
恋愛映画は記憶にはない。
日本は昔も今もまとまりがよすぎて、
号令がかけやすく、統制は行われやすく、
戦争下では戦争遂行に必要なものしか、認めない。
戦争に無関係な恋愛小説を書く、恋愛映画を作る、
というようなことは考えられない。
物資的な国力のひよわさというよりも、
何かぽっと抜けた精神の人のよさ、
みたいなものが日本には欠けている気がする。
私がこうしてアメリカをほめる、
それを政治的レベルで勘ぐって、
なぜアメリカに色目を使う、
という人があるかもしれないが、
全くそういう色合いは私にはない。
私はアメリカにわずかばかり滞在して、
天窓が開けられたような気がし、
その気分を珍重しているだけである。
べつにおいしいものとてなく、
遺跡も美景もない。奇観というのならあるが。
ヨーロッパよりアメリカが好もしいのは、
いまの時点で思うことで、
さらに年を重ねればどうなるかわからないが、
私には尽きぬ興をそそる国である。



(了)