「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

3、継母ってなに ②

2022年06月24日 08時42分11秒 | 田辺聖子・エッセー集











・夫はいったい「子供のために」と、
ひたすら堪えている妻の苦しさに気づかぬほど、
鈍感なのであろうか。
粗放なのであろうか。

そんなに妻に我慢されて、
夫は幸福なのであろうか?と、
私は疑わざるを得ない。

こちらがいくら愛していても、
向こうがひたすら堪え、
我慢して暮らしていると思うのは、
私なら堪えられない。

しかし人生の波のうねりは、
さかしらな人間があたまの中で考えているよりは、
はるかに大きく深く、
どんなに我慢ならない夫婦でも、
ひとときふと心が通い合ったり、
あるいは双方で重宝がったり利用し合ったり、
利害一致して外敵に当たったり、
という場合もあるので、
妻たちが口でいうほど辛くないのかもしれない。

人生の根底から存在をくつがえされるほどの、
苦しみに遭遇すれば、
人は別れてしまう。

別れたいけれど子供のために我慢している、
という主婦たちの言葉を聞く度、
私はこの人は本当は別れたくないのだ、
と心の中で考えたりする。

それはともかく、
実際に離婚する、
あるいは死別するというとき、
再婚して「生さぬ仲」の父なり母なりが、
子供とつき合う意味をもっと大人は考えるべきだと思う。

現代ではやっと、真実の親が「綾学」「親業」
というものについて学びはじめた。

まして「義理の親学」「義理の親業」
までは手がまわらないのが実情だろう。

しかし、そういう間も、どんどんと離婚はふえ、
子連れの再婚がふえ、
即席の親子が何組もふえてゆく。

現実の方が議論や認識を越えてゆく。

実際にそういう体験をした人が活発に発言して、
「継母・継子」の関係について、
従来の固陋な偏見や迷妄を、
打ち破って下さればいいと思う。

私は先に「継父と継母は根本的に違う」と書いたが、
もともと父親というのは子供に対して、
分身意識というのはないように思われる。

母親は違う。
「子供こそわが骨の骨、わが肉の肉なれ」
という一体感を子供に持つものである。

骨肉の愛で結ばれるべき母と子が、
その絆を全く持たずに向き合ったときの深刻さは、
男たちの想像以上である。

人類は昔から、
その深淵におののいて、
「継母の継子いじめ」物語を、
語り続けてきたのにちがいない。

シンデレラ物語のような昔話の図式は、
西洋にも東洋にもあって、
継子物語は、
心理学的に成人女式の通過儀礼だという。

受難、試練、そして成功の象徴としての、
継子虐待があり、
いわば継母は子供が自立していくための、
仮想敵なのだという。

人々は深層意識として、
受難・試練・成功のかたちを希求し、
継母の継子いじめ物語を喜び、
そのたぐいの昔話が世界に流布したというものである。

そう説明されれば、
継母の物語が世界にあるのがわかる気もするが、
しかし我々女が考えてみて、
それだけに盛り切れない根深いものが、
もっと奥にある気がする。

骨肉愛というものはあるだろうけれど、
母性愛はそれとはべつのものである。

その辺の女性心理・母親心理は、
まだ未知の領分である。






          

(次回へ)

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