
・夫はいったい「子供のために」と、
ひたすら堪えている妻の苦しさに気づかぬほど、
鈍感なのであろうか。
粗放なのであろうか。
そんなに妻に我慢されて、
夫は幸福なのであろうか?と、
私は疑わざるを得ない。
こちらがいくら愛していても、
向こうがひたすら堪え、
我慢して暮らしていると思うのは、
私なら堪えられない。
しかし人生の波のうねりは、
さかしらな人間があたまの中で考えているよりは、
はるかに大きく深く、
どんなに我慢ならない夫婦でも、
ひとときふと心が通い合ったり、
あるいは双方で重宝がったり利用し合ったり、
利害一致して外敵に当たったり、
という場合もあるので、
妻たちが口でいうほど辛くないのかもしれない。
人生の根底から存在をくつがえされるほどの、
苦しみに遭遇すれば、
人は別れてしまう。
別れたいけれど子供のために我慢している、
という主婦たちの言葉を聞く度、
私はこの人は本当は別れたくないのだ、
と心の中で考えたりする。
それはともかく、
実際に離婚する、
あるいは死別するというとき、
再婚して「生さぬ仲」の父なり母なりが、
子供とつき合う意味をもっと大人は考えるべきだと思う。
現代ではやっと、真実の親が「綾学」「親業」
というものについて学びはじめた。
まして「義理の親学」「義理の親業」
までは手がまわらないのが実情だろう。
しかし、そういう間も、どんどんと離婚はふえ、
子連れの再婚がふえ、
即席の親子が何組もふえてゆく。
現実の方が議論や認識を越えてゆく。
実際にそういう体験をした人が活発に発言して、
「継母・継子」の関係について、
従来の固陋な偏見や迷妄を、
打ち破って下さればいいと思う。
私は先に「継父と継母は根本的に違う」と書いたが、
もともと父親というのは子供に対して、
分身意識というのはないように思われる。
母親は違う。
「子供こそわが骨の骨、わが肉の肉なれ」
という一体感を子供に持つものである。
骨肉の愛で結ばれるべき母と子が、
その絆を全く持たずに向き合ったときの深刻さは、
男たちの想像以上である。
人類は昔から、
その深淵におののいて、
「継母の継子いじめ」物語を、
語り続けてきたのにちがいない。
シンデレラ物語のような昔話の図式は、
西洋にも東洋にもあって、
継子物語は、
心理学的に成人女式の通過儀礼だという。
受難、試練、そして成功の象徴としての、
継子虐待があり、
いわば継母は子供が自立していくための、
仮想敵なのだという。
人々は深層意識として、
受難・試練・成功のかたちを希求し、
継母の継子いじめ物語を喜び、
そのたぐいの昔話が世界に流布したというものである。
そう説明されれば、
継母の物語が世界にあるのがわかる気もするが、
しかし我々女が考えてみて、
それだけに盛り切れない根深いものが、
もっと奥にある気がする。
骨肉愛というものはあるだろうけれど、
母性愛はそれとはべつのものである。
その辺の女性心理・母親心理は、
まだ未知の領分である。



(次回へ)