
・今年で阿波踊りも四回目になる。
実に不思議なご縁である。
「徳島のご出身ですか」とよく聞かれるが、
私は大阪生まれの大阪育ち。
母は岡山の出だから、山陽道に縁戚縁辺は多いが、
海を渡った四国には全く何の関係もなかった。
人生の契機というものは面白いものだ。
ことの起りは、私が日本経済新聞に連載した、
「中年ちゃらんぽらん」という小説であった。
連載中に私は信州の松本へ取材に行った。
昭和五十二年の六月、
はじめて山開きしたばかりの雪の立山から大町を通って、
松本へまわる旅であった。
松本市郊外の崖の温泉に泊まった時、
どういうきっかけからか、阿波踊りの話が出た。
メンバーは日経の編集局の人と、
挿絵を描いて頂いた高橋孟氏。
それに私と主人の四人で、
中年者ばかりの楽しいメンバーであり、
泊まり泊まりのうちに打ちとけて、
小説についても扇動やら入れ知恵やらアイディアが飛び交った。
その旅ははなから終わりまでテーマが「中年」であったため、
戦中派中年の特色も話題にのぼった。
1、英語に弱い。
2、ダンスが出来ない。
3、出されたものはみな食べる。
「社交ダンスもゴーゴーも出来ないが、
かといって盆踊りも出来ない」
中途半端世代、谷間世代であるという話から、
孟さんが徳島ご出身なので、
「阿波踊りは都会の空き地や団地の広場の盆踊りとは違う。
これは中年もみな踊っている」と。
いろいろ阿波踊りについて聞くことになった。
すると、成り行き上、「見に行こか」になり、
また成り行き上、「同じことやったら、みなで踊ろ」
ということになった。
「そろいのユカタとなると、四人では貧弱や。
募ったら神戸の連中たくさん来るかも知れん」
「東京の編集者も来たい人はいるかも知れん」
「それなら、連を作って」ということで、
「カモカ連」という名前が出来上がり、
ユカタも孟さん描く「カモカのおっちゃん」の似顔絵を散らそう、
ということになった。
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・六月初めのことで、もう阿波踊りまで二ヵ月しかない。
急な話で、親戚の方々はさぞビックリなさったに違いない。
来年となると、気が抜けてしまう。
ユカタの手配はともかく、難関は宿の確保。
「かめへん、この際、軒下でええ」と、
電話でハッパをかけていた。
それに続く二ヵ月というのは全く戦争騒ぎで、
これ、ご当地の孟さん及び奥さんのご縁戚のご尽力がなかったら、
到底実現できなかったであろう。
第一回は七、八十人がそろい、「カモカ連」のユカタに身を包んで、
灯のまばゆい演舞場をどうやら踊り抜けたのであった。
みんな初めてのことで、不安でいっぱい。
男性の中にはキマタのはき方もわからない人、
印籠を首にかける人・・・
女性たちも、帯を結んでもらい、鳥追笠をかぶった格好が、
嬉しそうであった。
阿波踊りへ行ってみると、
私は小説の結末は、はじめ違う風に考えていたが、
ラストはこのシーン以外にないと思われてきたのだった。
阿波踊りは、テンポが早いので、
いったんコツをのみこむと体が覚えてしまう。
神戸には祭りにサンバを踊る習慣があるので、
阿波踊りもその要領でこなす人が多い。
何百人の連がそろいの衣装でくり出すさまは迫力があり、
エネルギーに満ちたもので、他の踊りにない明るさがみなぎるのがいい。
日本の盆踊りというと、
哀々切々たるしらべにしんみりした踊りが続くが、
これはその土地の人々でないと、
よそ者には消化しきれぬうらみがある。
それに比べると阿波踊りはモダンで都会的で、
今の若い人たちが溶け込みやすい雰囲気を持っている。
それに町全体が大人の秩序を保ちつつ、
楽しんでいるところがいい。
「カモカ連」には九州、東京、神戸、大阪と、
ちゃんと税金を払っている大人が参加していて、
一年に一度の憂さを散ずるのを楽しみにしている。
一行の中には肩書きのあるエライさんもたくさんいるが、
徳島へ来るとそれは一切抜きにして、
ただの「カモカ連」の踊り子になる。


