「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

11、上方に住む

2022年02月25日 08時46分11秒 | 田辺聖子・エッセー集










・私はもう半世紀、大阪とその周辺で暮らしている。
大阪、尼崎、神戸、伊丹と小さい輪を描いてまわっている。

時々、脱出しようかと思うが、
(いやいや、美味しいおうどんが食べられなくなる)
と思うと出られない。

実際出てしまえば、案外適応するかもしれないが。

本当は、物書きは一所不在でなければならない、という気持ちで、
どこに住んでもよいと自戒しているが、
これが、死ぬまで永住となると(待った!)の声がかかるのだから、
意気地がない。

こうも私を近畿圏にしばりつけておくものは何かというと、
うどんもそうであるが、食べ物が美味しいのだ。

ことに野菜がいい。
関西特有のやわらかい水菜やかぶら、
ナスといった美味しい野菜が買える。

市場には「明石の昼網とれとれ」の魚が並んだり、
神戸へ出ると牛肉を買い、京都へ行けば錦市場へ足をのばして、
琵琶湖の小魚のたぐい、湯葉、漬物、ゆずみそを少しずつ買って楽しむ。

美味しいものは諸国にあるが、
近畿地方は都会と田舎の混ざり具合がうまくできていて、
流通の按配がいい。

海山の美味しいものを食べ慣れて、
うどんのお汁(つゆ)も色は淡いのに味は濃い、という、
まったりしたものになった。

こまごました美味しいものを作るのは、
上方の温暖な気候であろうか。

特に阪神間の気候は人間の肌に、
いちばんあたりがやわらかいように思える。

そういう中で暮らしていると、
人は切り口上でものが言えなくなってしまう。
白黒をつけることは出来ない。

うやむや、なあなあのうちに、
「それもええけど、こっちゃもよろしデ」
「ぼちぼち行きまひょ」ということになる。

他国の人が聞かれると、
これらはじれったく歯がゆく思われる言葉で、それを生む精神風土は、

「何もそない、角立てんかて、
いつかはまたお世話にならんとも限らんし」

という曖昧模糊としたもの。

白黒の決着は自分一人の胸ではついているが、
それをぶちまけて、あとの収拾がつかなくなる、
という、そういうことはしない。

商売人の感覚で、

「いつ、どこで、回り回ってまた顔合わせんならんかもしれん」

と思い、糸ほどの細いつながりでも残しておく。

大阪では「あの人、商売人やな」というのは、賛辞なのだ。

それからまた、私にとって、この辺に住む楽しみは、
歴史のふところが深いことである。

京都、奈良はむろん、大阪近郊でもなつかしい地名が随所に残り、
(近ごろは便利さを重んじ、古い由緒ある地名が抹殺されることが多い。
あれは郵政省の横暴、怠慢である)
そぞろ歩きしながら、それを拾う楽しみは格別である。

近畿地方は私鉄がよく発達しているので、
かなりのところでも日帰り出来る。

大和の古い山野を歩いて「古事記」や「日本書紀」「万葉集」
に出てくる地名を見つけたりした時の心ときめきを、
どう言おうか。

地図には載っていなくても、それを見つけたりする。
古い歴史の風土に生まれ、住んでいるということは、
私をたいそう落ち着かせ、くつろがせる。






          

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