「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

10、小説を書く

2022年02月24日 09時05分21秒 | 田辺聖子・エッセー集










・神戸に十何年住んだが、伊丹へ移った。
神戸では山手と下町と二つの住居を持った。

山手の家は異人館だった。
錆朱色の鎧戸があって、二階四部屋、
下が三部屋に大きな広間というだだっ広い邸で、
夜は怖くて、一人で寝られなかった。

庭から真下に海が見え、ポートタワーが見え、
秋はことに空気が澄み渡り、大阪湾をはさんで堺辺りの灯まで見えた。

家の後ろは山、横は谷なのでモズやヒヨドリがたくさん来た。
エニシダや桃、ハンノキが裏山に茂り、キンモクセイの匂いが流れ、
この家にいると、仕事をしたくなくなる。

夜は灯をつけて出て行く船をいつまでも見た。
夫は仕事を済ませて、毎晩、山手の家へ帰ってきた。

十一月の朝の海の青さは、目を洗われるようだった。
そうして、海がよく見えるように、窓際に食卓を持ちだして、
朝食をとるのだった。

そのうち、いろいろの事情が重なって、
私は夫の診療所のある下町に、
夫の家族と一緒に住むようになる。

夫の家族は十何人いた。
その中で暮らすのは大変だったが、興深くもあった。

それより、一日中、夫と一緒にいられるのが嬉しかった。
下町の家は、海も船も見えない代わり、盛り場が近くて楽しかった。

そして、盛り場というのは、寒い時の方が情緒がある。
秋風がたって、だんだん秋が深まり、木枯らしのころになると、
盛り場の灯はなつかしく暖かく見える。

ここは三宮や元町といったモダンな場所ではなく、
モッサリした野暮な大衆的盛り場、そのかみの赤線だった福原に近く、
もの悲しい陰気なイメージのある盛り場だったから、
よけい肌寒の頃の灯はなつかしいのだった。

私は夫に連れられて、屋台で串カツを食べ、
熱燗の酒を飲む楽しみを教えられた。

毛糸の帽子をかぶって、毛糸の手袋をはめて、
盛り場をほっつき歩いた。

そんな下町暮らしが楽しかった。

私の家は敷地いっぱいに建ててあるので、
家の中に日は当たらなかった。

朝から電灯をつけるような部屋で、
私はせっせと小説を書いた。

私の恋愛小説の主人公はみな美女で、男に熱愛されている、
私のあらまほしき姿である。

(早く書き上げて、夫と遊ぼう!)と思いながら、
下町の穴ぐら部屋、小さい町医者の診療所の裏手の部屋で、
とうとう五十冊ばかりの本を書いてしまった。

今年、夫が病気して、夏中、仕事を休んだ。
医者は激務なのか、ここ、二、三年に夫の友人の医者が、
三人亡くなっている。

みな、同じような年ごろであるから、五十才前後である。

この辺で一区切りつけた方がいい、ということになって、
下町を離れ、伊丹のマンションの六階住まいになったのだった。

診療所はそのままなので、夫は神戸へ通うことになった。

ここのマンションからは六甲連山が正面に見え、
壮麗な夕陽がまともに見られる。

今いるところがいちばんいいと思える私だが、
秋の入日がまともに見られる今の住居は好き。

夫を待つ夕暮れ、空いっぱい、朱色と金色が広がって、
入日は橙黄色に山の端へなだれ落ちてゆく。

私は再び小説の主人公になってしまったので、
今は小説は書けないのである。






          

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