・神戸に十何年住んだが、伊丹へ移った。
神戸では山手と下町と二つの住居を持った。
山手の家は異人館だった。
錆朱色の鎧戸があって、二階四部屋、
下が三部屋に大きな広間というだだっ広い邸で、
夜は怖くて、一人で寝られなかった。
庭から真下に海が見え、ポートタワーが見え、
秋はことに空気が澄み渡り、大阪湾をはさんで堺辺りの灯まで見えた。
家の後ろは山、横は谷なのでモズやヒヨドリがたくさん来た。
エニシダや桃、ハンノキが裏山に茂り、キンモクセイの匂いが流れ、
この家にいると、仕事をしたくなくなる。
夜は灯をつけて出て行く船をいつまでも見た。
夫は仕事を済ませて、毎晩、山手の家へ帰ってきた。
十一月の朝の海の青さは、目を洗われるようだった。
そうして、海がよく見えるように、窓際に食卓を持ちだして、
朝食をとるのだった。
そのうち、いろいろの事情が重なって、
私は夫の診療所のある下町に、
夫の家族と一緒に住むようになる。
夫の家族は十何人いた。
その中で暮らすのは大変だったが、興深くもあった。
それより、一日中、夫と一緒にいられるのが嬉しかった。
下町の家は、海も船も見えない代わり、盛り場が近くて楽しかった。
そして、盛り場というのは、寒い時の方が情緒がある。
秋風がたって、だんだん秋が深まり、木枯らしのころになると、
盛り場の灯はなつかしく暖かく見える。
ここは三宮や元町といったモダンな場所ではなく、
モッサリした野暮な大衆的盛り場、そのかみの赤線だった福原に近く、
もの悲しい陰気なイメージのある盛り場だったから、
よけい肌寒の頃の灯はなつかしいのだった。
私は夫に連れられて、屋台で串カツを食べ、
熱燗の酒を飲む楽しみを教えられた。
毛糸の帽子をかぶって、毛糸の手袋をはめて、
盛り場をほっつき歩いた。
そんな下町暮らしが楽しかった。
私の家は敷地いっぱいに建ててあるので、
家の中に日は当たらなかった。
朝から電灯をつけるような部屋で、
私はせっせと小説を書いた。
私の恋愛小説の主人公はみな美女で、男に熱愛されている、
私のあらまほしき姿である。
(早く書き上げて、夫と遊ぼう!)と思いながら、
下町の穴ぐら部屋、小さい町医者の診療所の裏手の部屋で、
とうとう五十冊ばかりの本を書いてしまった。
今年、夫が病気して、夏中、仕事を休んだ。
医者は激務なのか、ここ、二、三年に夫の友人の医者が、
三人亡くなっている。
みな、同じような年ごろであるから、五十才前後である。
この辺で一区切りつけた方がいい、ということになって、
下町を離れ、伊丹のマンションの六階住まいになったのだった。
診療所はそのままなので、夫は神戸へ通うことになった。
ここのマンションからは六甲連山が正面に見え、
壮麗な夕陽がまともに見られる。
今いるところがいちばんいいと思える私だが、
秋の入日がまともに見られる今の住居は好き。
夫を待つ夕暮れ、空いっぱい、朱色と金色が広がって、
入日は橙黄色に山の端へなだれ落ちてゆく。
私は再び小説の主人公になってしまったので、
今は小説は書けないのである。