「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

16、わが家の正月 ①

2022年03月02日 08時32分49秒 | 田辺聖子・エッセー集










・私が夫と結婚していちばんびっくりしたのは、
正月のしきたりであった。

夫は奄美大島の出身で、私は大阪。
内地でも関東と関西は違うのに、
まして南方離島とは風俗習慣はまるで違う。

その上、私も夫も中年になっている。
(夫、四十一才、私、三十八才で結婚)

どちらも異質の人生観を持って、
しかもそれがいちばんと思い込んでいるのだから、
かけ離れたことが多い。

どちらも好奇心が強かったので、
それらに腹を立てないで、むしろ関心を持った。

何もかも珍しかったが、
まず、言葉がおかしかった。

関西より外へ出たことのない私は、
上方を定規にして物を計るくせが抜けないのであった。

夫は奄美生まれだが、
鹿児島で学業を卒えたので薩摩なまりになっている。

彼が正確に時間を守るのにも驚いた。

「十分待ったぞ」と言われると、
それが咎められているとは思わず、
(早く来た)とほめられたのかと思った。

私は時間にルーズで待たせても平気なところがあった。
これは、上方の気風というより、私のだらしなさかもしれない。

しかし、上方文化圏では、物事を断定することは少ない。
人をほめるにもけなすにも、直接言わず、
逃げ道の多い言い方をする。

そういう文化は夫には全く異質であったと見え、よく戸惑っていた。

奄美には特別の信仰伝承があるので、
内地のように宗派別の仏教はない。

一家が神戸へ来て、お寺さんを頼むとき、
いちばん手近なお寺の檀家になった。
そこが、たまたま浄土宗だったから、そうなったに過ぎない。

また何かのことで、家紋を要することがあった。
家紋も奄美にはない風習で、たまたま私の家が「カタバミ」なので、
それを使うことになった。

私には、宗旨や家紋のない家があろうとは思えなかったので、
外国人と結婚した気がした。

夫は宗旨や家紋など、この世に必要とは思わぬ男である。
さらに、家紋には男紋と女紋があり、娘には女紋を伝えてゆく、
などという習俗など、驚きを越して滑稽に映ったらしい。

また南方離島の人は、
嬉しいにつけ悲しいにつけ、島唄を唄うが、
夫の父が病気の時、親類縁者が集まって、
枕元で蛇皮線を弾き、哀愁をおびた島唄を唄ってなぐさめたのに、
私は感動した。

私は島唄が好きになり、夫や姑に教わろうとした。
夫の弟妹は神戸で育った年月が長いので、唄えない。

島のやさしい人情、もの悲しい島唄が私は好ましくなり、
人々の抑揚の強い言葉にも慣れ、島の方言も覚えた。

姑は島の風俗をどこかしら、卑下している様子があって、
内気で恥ずかしがり屋だった。

結婚して同居を始めたころは、
舅、姑、義弟妹たちがいたので食事は別にしていたが、
島の田舎料理を作った時は、姑が鍋ごと持ってきた。

「これは、あの子が好きだから」

と、恥ずかしそうに口ごもりつつ言うのであった。

それらは味噌で煮込んだ豚足料理や、
塩だけで煮たイカナゴである。

私は豚足などはじめて見てびっくりしたのだが、
見るからに美味しそうで、手を出し二つ三つと食べてしまう。

私は食べ物に何の先入観もなかったので、
姑が持ってくると、みんなで先を争って食べた。

夫には四人の子供がいたが、
これがみな田舎料理が好きなのだった。

夫の亡くなった先妻も離島出身の人だったので、
子供らは島特有の料理になじんでいた。

私が食べることがわかって、
姑は喜んでそれからは大なべにいっぱい豚足を煮込んで、
持ってくるようになった。

私はその作り方を教わったが、
とても姑のようにうまく出来ないので、
姑の持ってくるのを待った。

私は島の料理から夫や夫の家族になじんでいった。
しかし、私の持ち込んだ風習をこの家に定着させるのは、
難しいのであった。






          

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