「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

15、女・結婚・幸福

2022年03月01日 08時51分42秒 | 田辺聖子・エッセー集










・この間、妻は家庭にいて子供にありったけの愛情を注ぐべきか、
それとも自分の仕事を持つべきか、という論争が新聞に載っていたが、
これからはますますそういう議論が多くなるであろう。

しかしそれらは、
実際には直接的な参考にならないような気もされる。

家庭は千差万別で、家族の性格や組み合わせによって、
十の家庭があれば、十の様式があると思う。
原則論は、女の人を混乱させるだけである。

私は、これからは家庭の崩壊が音もなく進行するのではないか、
と思って悲しんでいる一人なのだ。

家庭の崩壊は、
妻が家にいて家事に専念していても起こるものだ。

また職業を持つ母の後姿を見ていれば、
子供は悪くならない、というのも楽観論のような気がする。

子供の中には親が後姿を見せると、
これ幸いと悪いことをするのもいる。

要するに子供の性格次第、家族の組み合わせ次第なのであって、
妻、母が仕事を持つということの大切なキーは、
ここらへんにありそうである。

家庭の崩壊、といえば、
私は農村の出稼ぎ、単身赴任などもいたましく思える。

そう思っている人が多いはずなのに、
社会はこのいびつな形を平気で見過ごしている。

こういうことは自然ではなく、どこかに無理があるので、
会社が悪い、資本主義が悪いというより、
世の中そのものが悪い、ということであろう。

しかし、こういう形でさえ、離れた家族が心を寄せ合い、
愛を結ぶ場合もあるから、家庭の要素は千差万別である。

家庭を崩壊させず、つなぎとめるのは、
形ではなく心で、愛しか家庭の接着剤はなさそうだ。

私は、女の人にその接着剤になって欲しいと思う。
男の人にはこれが出来ない。

男に出来ないといえば、子供を産むこともそうだが、
これはいろんな条件が重なった結果によるもので、
女の人でも子供を産めない人もいるけれど、
子供を持ったから女なのではない。

私は、子供を持って女の喜びを知った、
という人の言葉をハラハラして聞くのである。

女の喜びは子供を持つことではなく、
むしろ愛の接着剤になることではないのか。

ともすれば、バラバラになろうとする家庭や世の中をつなぎ止め、
うるおすのは女の愛情ではないのだろうか。

女は人を愛するから女なのだ。
人を愛さない女は女ではないんじゃないか。

女は自分の子供を愛することだけの専門家みたいなのが、
現在の風潮だけれど、それは多分にエゴイズムが匂っていて、
他者を辟易させるところがある。

今のお母さんは、いろんな知恵がついているから、
子供に負けないように太刀打ちすることばかり考え、
それが子供を育てることだと信じているのではなかろうか。

そうして、いつまでも密着して子離れ出来ない。

私は、愛というものは太刀打ちするものではないように思う。
無理というのがいちばんいけない。

私は、愛と言うのは、
むしろ思いやりという意味を深く響かせて使っている。

それは女が結婚してから急に出てくるものではないので、
母親は娘に生活技術だけを教えてはいけない。

少女のうちから、周りの人の喜びとなるような、
人に思いやりを持ち、人の心をつなぎ合わせられるような、
女の人になる喜びを教えてやらねばならない。

これは仕事を持って自立出来るようにすることとは、
全く別次元の女に生まれた誇りのためである。

愛は人に好奇心を持つことである。
思いやりは探求心から生まれる。






          

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