・この間、妻は家庭にいて子供にありったけの愛情を注ぐべきか、
それとも自分の仕事を持つべきか、という論争が新聞に載っていたが、
これからはますますそういう議論が多くなるであろう。
しかしそれらは、
実際には直接的な参考にならないような気もされる。
家庭は千差万別で、家族の性格や組み合わせによって、
十の家庭があれば、十の様式があると思う。
原則論は、女の人を混乱させるだけである。
私は、これからは家庭の崩壊が音もなく進行するのではないか、
と思って悲しんでいる一人なのだ。
家庭の崩壊は、
妻が家にいて家事に専念していても起こるものだ。
また職業を持つ母の後姿を見ていれば、
子供は悪くならない、というのも楽観論のような気がする。
子供の中には親が後姿を見せると、
これ幸いと悪いことをするのもいる。
要するに子供の性格次第、家族の組み合わせ次第なのであって、
妻、母が仕事を持つということの大切なキーは、
ここらへんにありそうである。
家庭の崩壊、といえば、
私は農村の出稼ぎ、単身赴任などもいたましく思える。
そう思っている人が多いはずなのに、
社会はこのいびつな形を平気で見過ごしている。
こういうことは自然ではなく、どこかに無理があるので、
会社が悪い、資本主義が悪いというより、
世の中そのものが悪い、ということであろう。
しかし、こういう形でさえ、離れた家族が心を寄せ合い、
愛を結ぶ場合もあるから、家庭の要素は千差万別である。
家庭を崩壊させず、つなぎとめるのは、
形ではなく心で、愛しか家庭の接着剤はなさそうだ。
私は、女の人にその接着剤になって欲しいと思う。
男の人にはこれが出来ない。
男に出来ないといえば、子供を産むこともそうだが、
これはいろんな条件が重なった結果によるもので、
女の人でも子供を産めない人もいるけれど、
子供を持ったから女なのではない。
私は、子供を持って女の喜びを知った、
という人の言葉をハラハラして聞くのである。
女の喜びは子供を持つことではなく、
むしろ愛の接着剤になることではないのか。
ともすれば、バラバラになろうとする家庭や世の中をつなぎ止め、
うるおすのは女の愛情ではないのだろうか。
女は人を愛するから女なのだ。
人を愛さない女は女ではないんじゃないか。
女は自分の子供を愛することだけの専門家みたいなのが、
現在の風潮だけれど、それは多分にエゴイズムが匂っていて、
他者を辟易させるところがある。
今のお母さんは、いろんな知恵がついているから、
子供に負けないように太刀打ちすることばかり考え、
それが子供を育てることだと信じているのではなかろうか。
そうして、いつまでも密着して子離れ出来ない。
私は、愛というものは太刀打ちするものではないように思う。
無理というのがいちばんいけない。
私は、愛と言うのは、
むしろ思いやりという意味を深く響かせて使っている。
それは女が結婚してから急に出てくるものではないので、
母親は娘に生活技術だけを教えてはいけない。
少女のうちから、周りの人の喜びとなるような、
人に思いやりを持ち、人の心をつなぎ合わせられるような、
女の人になる喜びを教えてやらねばならない。
これは仕事を持って自立出来るようにすることとは、
全く別次元の女に生まれた誇りのためである。
愛は人に好奇心を持つことである。
思いやりは探求心から生まれる。