リチャード氏のベトナム便り第二弾です。(^^;
これって、一枚何分くらいで描き上がるんでしょうか?
結構な枚数を描いておられるから時間が気になりだした。(笑)
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2月19日の旧正月を前にベトナム風景をリチャード氏が送ってくれました。
二回に分けてUPします。お楽しみ下さいませ。(^^;
ハドン(ハノイ最西部の地区)第一の古刹、ビア・バー寺。
ベトナムの女の人は信心深い。とくに毎月1日、15日はごった返すような人出。
おなじくハドンの街角
世界のビール
ハーナム省の田舎、ハノイの南、約70キロ
ハーナム省のフデ村。私の家〔ハータイ省)から歩いて15分。
このあたりは屈指の米どころ。
ハノイ・ハドン地区。
高い家並みにはさまれた狭い道路や路地、描いていてあきません。
同じ風景描写でも写真と絵では全く趣が違うことを改めて認識しました。(^^;
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山が好きで居酒屋をこよなく愛し、有能な(本人若干否定(^^;「上司に嫌がられ女子社員・嘱託とは仲が良かった」)
サラリーマン生活を終えた男リチャード・バサラ氏(仮名)が何故ベトナムで第二の人生を送ることになったのか。
その可憐な出会いと恋の物語
最終話 世にも不思議な物語(3)
私は、へたなベトナム語で、ゆっくりとしゃべりました。
「もし、私がホアさんと結婚したら、私は、きっと幸せになるでしょう」
(一同、オオーという賛同の声)
「しかし、ホアさんは、幸せにはなりません」
(一同、不満そうな空気・・「なぜ?」の声が・・
「私は老人です。すぐにとは言いませんが、まもなく死にます。結婚生活は長くない。それはホアさんには不幸です」
(一同、シーン)
ホアさんはさびしそうだった。
姉のヒエンさんが、私に寄ってきて「そんなことない。ベトナムでは17、年の離れた夫婦は珍しくないよ」と言う。
そのうち一族の人々は、帰っていった。
その夜、用意された寝室で、ベッドメイクをしてくれたホアさんが、「結婚のことよく考えて・・思い直してほしい」とさびしそうに言った。
それから、一生一度のレベルといっていいほど、集中して考えた。途中から、これは考えることではなく、決断するか、どうかの問題だとわかった。
17歳年下の妻は、何かモラルに抵触するような気がした。私が高校生の時、ホアさんは赤ん坊。私が32歳の時、ホアさんは15歳。これは淫行というやつではないか。まあ、しかし年の差の問題は、ひとまずおいておこう。
このまま、男やもめで生きていって悔いはないのか。
これこそが重大テーマである。
独り身は、確かに気楽だ。死んだ妻には悪いが、独身の自由が、再び味わえるとは思わなかった。蜜の味だ。
しかし妻がいなければ、特老か特養かしらんが、ああいう所で死ななきゃいかん。それは、ごめんこうむりたい。私は、最後の数日だけでも、家に戻って家で死にたい。
また、このやもめのまま、定年生活に突入すれば、居酒屋参りも、仕事がない分、さらに頻繁になって、あまり長生きはできないだろう。まあ、それは自業自得ということで悔いはないが、それは、ぽっくり逝ってくれたらの場合だ。
問題は、体が不自由になった時、世話する特定の人がいなければ、老人ホームに行くしか、選択肢はないではないか。
うーん、この老体がホアさんのお役に立つなら、そして自分自身の老後も安心ということなら、結婚を了承してもいいかな・・。
私はだんだん考えが変わってきました。
そして翌朝、結婚しますと長兄に伝えました。
ベトナムに住むことには何の迷いもなかった。心の準備ができていた。日本の生活に刺激があまりなくなっていて、酒に関心が集中する危険な傾向もあったから、その意味でもベトナム移住は正解だったと思っている。
あ、そうそう17歳年下の妻との結婚をモラルの上でどう克服したか・・お答えします。自分が90歳の時、妻は73歳です。もうほとんど同じ老人の部類ではないですか~。 そう考えることにしました。モラルの壁は、あっさりと越えてしまいました(笑)
ホアさんは、家事の能力は抜群、しかも聡明な女性でした。(私にはもったいないほど)
そんな女性がなぜ独身だったのか。それなりの履歴がありました。同情すべき履歴です。
そのことは後になってわかったことですからここには書きません。いつか、その事実もふくめて、「チャン家の人々」という題で、また駄文を書いてみたいです。
◇
ホアさんとの結婚を決断して、入籍はしたものの、定年まで約3年間あったので、二人いっしょに生活をするわけにはいかず、「通い婚」の形で、神戸とハノイの間を行き来した。正月休み、盆休み、5月の連休などを使って、実にあわただしい逢瀬でありました。ものぐさな私にそれができたのは、やはり恋愛感情があったからでしょう。今はちょっと難しい・・
そんな事情で、結婚式は、入籍してから2年ほどしておこなった。長男(家長)の家の中庭にテントを立て、2日間に渡り、村人約150人を招待して、結婚式と披露宴をした。このチャン家は、長男が村長をつとめる名士の家なのであったと今さらながら知りました。
ホアさんをはじめ、6人姉妹が、色あざやかなアオザイを着ていたのが、今でも目にうかびます。長い独身時代に終止符を打ったホアさんを、きょうだい皆が、心の底から祝福をしていました。忘れられない一日です。
2010年4月、これぽっちも仕事への未練はなく、定年という待ちに待った時がきて、ベトナムに移り住んだ。そうしてみると、「日本からベトナムへ」という大きな環境の変化よりも、私には、「神戸の生活から村の生活へ」という転換の方が、むしろきつかった。
コンビニになんとなく立ち寄る、本屋になんとなく立ち寄る、居酒屋に(こちらはしっかりと)立ち寄るといった遊惰な都市の生活習慣が、私の中に染み込んでいたのだ。ここではコンビニ、本屋、居酒屋なんかはない。夜8時になれば、真っ暗で、出歩く人もいない。
田舎のシンプルな生活になじんでいくのも、禅僧の修行のようで、なかなか難しいわいと身にしみて感じたしだいです。
もちろんベトナムの生活も、頭が痛いことはいくつかあった。簡単なようで難しいのが、村人の顔と名前を覚えることだった。濃厚な人間関係のある村の生活は、顔と名前を覚えないことには始まらない。 葬式、命日、新築祝い、披露宴などで、しょっちゅう顔をあわせる人に、いつまでたっても、「ええっと、どちらさんでしたか?」といえば、「この日本人、アホか!」です。
(ちなみに、ベトナム語で、アホ・バカは、「グー」といいます、漢字の「愚」の音からきています)
ところがベトナム人の名前はじつに覚えにくいのだ。簡単すぎて覚えにくい。頭が痛かった。
例えば、男の名前は、フッ、ドゥッ、ナム、ハウ、フン、ズン、ミン、ニャン、二ェン、タン、ティン、キー、ムイ、・・
女の名前は、ハー、ホッ、ソン、タオ、リー、フォン、エン、ハイン、タイン、アイン、マイ、・・
個性がないというか、一度聞いてもすぐ忘れる名前です。親族、村の有力者あわせて100人ほど覚えるのに2年以上かかった。やはり、彦左衛門とか紋十郎のほうが覚えやすい。
日本は少子化がとまらないみたいですが、この村では、あちこちに子どもの元気な声が、時には赤ん坊の泣き声が、路地に聞こえてきます。なにかしら、ゆったりとした幸せを感じます。ベトナムでの生活が4年をこえた、その功徳のような気がします。
(終)
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その可憐な出会いと恋の物語
第5話 世にも不思議な物語(2)
脳出血でほぼ5ヶ月間休職を余儀なくされた。
といえば、あまりにもあっさりしたいいかたになってしまうが、右手が全く機能せず、箸をもつことも、字を書くこともできず、職場復帰もほんとうに危ぶまれた。
明石リハビリセンターに入院中、担当医のT先生が「リチャードさん、右手の機能回復は、99%無理だと思いますから、左手で字を書くように練習してくださいね」と言われた時は、崖から突き落とされた気分になり、その夜は荒れた酒を飲んだ。
しかし、万事楽観主義の私、「何をいってやがる、Tの野郎、見立てが間違っていたやないかと、後で謝らせてやるからな」と、次の日からさらに熱心にリハビリにとりんだ。そして周りがおどろくほど機能回復がすすんだ。あのT先生は、ひょっとして、いい意味の挑発をするために言ったのかなと思うようになった。
病院の生活は退屈なものだが、毎日ベトナム語のCDを聞いたり、ホアさんに手紙を書いたり、それこそベトナム語漬けの日々だった。
9月1日の職場復帰の直前にベトナムへ行くことに決め、ハロン湾などを回るメインの計画を立て、最初にホアさんの田舎を1泊2日で訪ねることにした。
2007年8月21日午後1時、ハノイの統一公園で8カ月ぶりに会ったホアさんは、午前中の宝くじ売りの仕事を終え、着替えてきたらしいカラフルなTシャツを着ていた。姉のヒエンさんもいっしょだった。後にホアさんに聞けば、その時の私は、いかにも病みあがりという様子で、別人のように老けていたそうだ。以前のおとこまえのリチャードではなかったらしい。
チウクック村行きのバスは午後3時に出発するので、しばらく話をした。ホアさんはライチの皮をむいてくれたリ、まだ完全ではない私の右手の手のひらを、自分の両手に包んで、同情の言葉を言ったりした。
いよいよバスに乗り込む。
家族全員が、リチャードさんが来るのを歓迎しますと手紙に書いていたが、何人くらい集まるのかな。父親は亡くなったというから、母親と独身のホアさん、この姉のヒエンさん、それと近所の兄弟数人かな。あまり大勢で来られるのも、ちょっとうっとおしいな・・
それにしても目的地は遠いなあ。このあたりはハタイ省の米どころと聞いていたが、なるほど見渡す限りの田んぼの風景だわい・・
やがてバスは舗装道路を折れ、細い村道に入り進んでいく。バス一台がようやく通れる道幅だ。しばらくすると「ここよ、着いたわよ」とうながされ、村の停留所に降り立った。路地を進んでいくとすぐ、ホアさんの家はあった。
門をくぐると中庭があってコの字形に幾棟かの建物があり、牛小屋や農機具の納屋もある。お寺に似た瓦屋根と柱のある立派な集会場のような建物があり、オオーという人のどよめきが聞こえる。大勢の人が日本人の私を見て、発した声である。
逃げ出したくなりましたねえ・・
家族のことを、ベトナム語でザー ディーンといいます
が、日本の核家族の概念とは違う。祖父母、親、子の三世代のイメージでもない。もっと大きい祖父母、叔父叔母夫婦、兄弟夫婦、その子、孫をふくめた一族全体をさし、大きな相互扶助、情報連絡組織である。
例えば、家を建てる場合、ベトナムには銀行が個人に融資をする制度はなく、このザー ディーンが力になる。貧しいがゆえの互助組織ともいえる。
大勢集まったのはそういう力が働いたからです。
また後にわかったことだが、集会場は一族が集まるための建物で、家長である長男が、代々受け継ぎます。
それにしても、多すぎるわ、子どもも含めて、40人は越えている。それに、みんなニコニコしている、ベトナム人はこんなに外国人に友好的なのかな?
歓迎夕食会がはじまったが、あまり大勢すぎて、人に酔うというか、居心地が悪く、食べても味がわからないという感じ。早く一人にしてほしかった。また田舎の人のベトナム語の発音は聞き取りにくく、早口で、自分の語学力の頼りなさがわかった。
食事が終わって「べトナムコーヒーを入れましょう」といってくれ、「お仕事は何ですか」「給料はどのくらい」「お子さんは何人ですか」という会話の時間になった。 24の瞳ならぬ、80以上の瞳が私の一言一言、一挙手一投足を見守っている。こんな居心地の悪い経験も久しぶりだ。
やがて長男がすこし改まったように口を開いた。みんなも静かになった。
「妹ホアはあなたのことを文通を通して知り、結婚したいと言っています。私たち10人きょうだいですが、あなたの20通ほどの手紙を検討して、会議を開き、みんなが、あなたとホアとの結婚に賛成しました。あなたも同意してくれますね?」
何それ!おーい、聞いてないよ。ちょっとまってくれよ。
10人きょうだい?それでこんな大人数なの多なのか。結婚??それでみんなニコニコしていた・・婚約者を見に来たというわけか・・
とりあえず断らんといかんな。
ええと、知っている限りのベトナム語の単語をかき集めて・・失礼にならんように断るにはどう会話を組み立てればいいのか。こんな大勢を怒らせたら無事には帰れんぞ。NOをいうのは難しいが、こういうケースはさらに難しいぞ。
リチャードの頭は、最大出力で働き始めました。
(つづく)
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その可憐な出会いと恋の物語
第4話 世にも不思議な物語(1)
ベトナム語を勉強しはじめて1年2ヶ月、よおし、現地で会話を実践してみようと、再度年末のベトナムに行くことにしました。
ハノイでも、まだ行ったことのない所へ、というので、地図を頼りにどんどん歩いて、南のはずれにある「統一公園」に着いた。ここは映画の撮影にも使われる美しい公園で、入場料が要るため人も少なく、掃除も行き届いている。バイマウ湖という湖があります。
ちょうど昼下がりで、湖に面したベンチに腰掛けて、近くのスーパーで買ってきたサンドイッチを食べていた。ベトナム語のテキストを見ながら。
向こうから3人連れの女性が近づいてくる。公園にいる人たちに、それぞれ、手分けして、話しかけている様子。ははあ、なにか、ものを売っているんだな。
小柄な女性が私に寄ってきたが、すぐに外国人だとわかったらしく、言葉はださず、これを買いませんかと、紙の束を見せる。宝くじだ。
(そんなものを買っても、当選番号発表の時、ベトナムにおらんがな)
「ホン カン」(要りません)と答えてやった。
その小柄な女性は、私をまじまじ見た。
<リチャードって、ベトナム人受けする、おとこまえだったのかなあ>と一瞬思ったが、たぶん、日本人の口からベトナム語を聞くとは、彼女は思わなかったのだろう。
その女性にテキストを見せて「発音を教えて・・」と身ぶり手ぶりで言いました。
彼女は、私の横に坐ってゆっくり発音してくれました。色の呼び方、白(チャン),黒(デン)、赤(ドー)、黄(ヴァン)、青(サイン)・・から発音を頼みました。
相手が十分にわかったと判断したら、はじめて次へ進む。その間の取り方がうまく、なんとなく頭のいい人だなと思いました。
連れの他の二人が、「あんた何をしてるの。仕事は?」という感じで、二度ほど、うながしに来ましたが、彼女は知らんふりだった。
30分ほどレッスンした後、お互いにベトナム語で自己紹介しあいました。彼女は、ハノイから2時間半ほど離れた農村の人で、ふだんは百姓の手伝い、農閑期には、ハノイでこういう物売りをしているそうです。年はいくつですかと聞くと39歳という。ベトナムは年を聞いてもセクハラにあらずです。
りチャードの持論ですが、年を聞くのがセクハラという考えがまちごうとる。年齢というのは隠すような恥ずかしいことではない。それとも自分の人生に自信がないのか(笑)
最後に、写真とりましょうかというと、喜んでポーズをとっていました。ベトナム人は写真が大好きです。そして彼女、ホアさんの田舎の住所を聞き、写真を送ると約束しました。
私は、商売を投げ出してまでレッスンしてくれたことに感謝して、日本円で約700円ほどホアさんにあげました。するとホアさんは「チョー ハイグイ ネー」(他の二人にもあげてくださいね)といいました。その通りにしましたが、なんだこのやろうと彼女の印象は悪くなりました。
ホアさんと私の出会いは、ヒウさんとは印象が、だいぶちがったものでした。しかし湖のほとりのベンチは共通の出会いの場所です。世にも不思議な物語には、そういう意味もありますよ。
◇
帰国するとハノイ・統一公園でとった写真を現像して、ハタイ省のチウクック村のホアさん宛に送った。 お礼の返事が、長い近況報告とともに届いた。
ホアさんの手紙を、日越辞書を使いながら、読む。すぐにベトナム語で返事を書く。内容は日本のサラリーマン生活の空しさや酒に溺れぎみの毎日の様子などだ。
ベトナム語で手紙を書くのは、なかなかしんどい。6時間以上かかることもザラ。ベトナムの文字は、母音に、いちいち発音記号や声調記号をつけるので、まあめんどくさいです。しかし、この文通で語学力がついたような気かな。
ベトナム語会話の先生(ベトナム人留学生)から「リチャードさん、最近しゃれた言い回しがふえましたね」とほめられましたから。
当時(2007年)ベトナムにケータイは普及しておらず、手紙だけが連絡手段。ホアさんは英語がわからないので、私がベトナム語で書くしかない。彼女は。返事をもらえば、すぐに書いて、ハノイ国際郵便局に行き投函する。1ヶ月に2,3回のわりで手紙のやり取りをした。
彼女は「私に対する関心をいつまでも、持っていてください」と書いていた。私は、一度ベトナムの農村に行ってみたかったので、訪ねていいですかと聞くと、家族みんなで待っていますという返事だった。
彼女が独身であることは知っていたが、当時の私にレンアイ感情などはなく、ベトナムの農村に潜入したいという魂胆だけがありました。
2007年の4月、私の身に一大事件がおこった。遍路旅の途中、徳島の田舎道を歩いている途中、右肩・右手が動かなくなり、舌がもつれだすという症状がでてきた。
「これは脳出血の発症だ」と自己判断できたので、すぐ救急車で病院へ運ばれ、軽症ゆえに投薬だけで、手術なしですんだ。しかし右手が全く動かず、リハビリなどの入院や自宅療養で、4月~8月末まで病気欠勤を余儀なくされました。
「妻が亡くなったのが2002年、それから5年後の今年に脳出血。ダブルパンチ攻撃か・・。人生には落とし穴というか、地雷がうめてあるんやな、それを踏んでしまったやなあ、ちくしょう」と やけくそぎみのリチャードでした。
「人生何があるかわからん、一寸先が闇というんやったら、これからは、思いっきりやりたいことを、何の遠慮もなしにやることやことや!」
これが闘病生活の中でつかんだ、私の揺るがぬ考え方です。子どもに対しても、なんの遠慮もせず、親父のやりたいようにやらしてもらうということでもあります。(過激な考え方で~す))そのやりたいことの真ん中にベトナムが現れてきました。
入院した直後、ホアさんに「汚い字は左手のせいです。脳の病気にかかり右手が使えません。命に別状はなしです。元気になったらべトナムへ行きたい」と書いて送りました。
脳出血が私をラディカル(過激かつ純粋)な考え方にしたように、ホアさんをも変えたようです。どう変えたのか?
それは次回にのべさせてもらいます。
病気欠勤の切れる8月末、私は、職場復帰前に体を慣らすためにも、ホアさんの家に行きます。そこで、一生に一度あるかないかという、驚愕の事実を突きつけら れます。そして厳しい決断を、即答を迫られます。
つづく
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その可憐な出会いと恋の物語
第3話
12月、二度目のベトナム訪問。今度は一人旅だ。
夏に会ったあのベンチを待ち合わせ場所にした。朝8時にヒウさんは、やってきた。私が「さて、どこへ行こうかな」というと、「私の家に来ませんか」という。ちょっとめんどくさい気もしたが、何事も経験、ということで、OKと答えた。
移動中のバスの中で、
「私の父はタクシーの運転手で、母はミシン工場で縫い子をしています。二人とも仕事で、今、家に居ません。それで祖父母の家に行きます。バクニン省です。そこに弟もすんでいます。弟の大学がその近くにありますから」とヒウさんは言った。
バスはハノイ市の東にあるホン河にかかる長い橋を渡って、北方向へと進んで行く。遠すぎるなあと少々心配になってきた頃、バスが停留所についた。
そこは古い4階建ての集合住宅が幾棟か集まっていて、近くに体育大学があり、その学生寮だとわかった。
祖父の家というのは、集合住宅の1階に入った食堂で、屋根は傾き、看板も色あせ、お客は1人もいず、さびれた感じの店だった。
しかし、豪華なお屋敷を自慢そうに見せてもらうより、ありのままの家をこだわりなく見せてもらうほうが、リチャードとしてはうれしいのであります。
祖父、祖母、ヒウさん、弟(私に、会うなりこんにちはとあいさつをした)の4人は、私のために、すぐに昼食の準備をしてくれた。ヒウさんから連絡があり、みんな私の訪問は承知しているようだった。
やがて豪華な五品ほどの料理が並び、白髪の上品なおじいさんがウオッカをさしだした。
ヒウさんが「ロシアに働きに行ってる兄が送ってきたものです」と説明する。私はベトナム語学習2カ月目、シンチャオ(こんにちは)を乱発するだけだった。
おじいさんはベトナム戦争の頃、共産軍の将軍だったそうで、ヒウさんは父よりも尊敬していると言っていた。なるほど聡明な感じの人だった。
昼食の後、午睡をすすめられたが、それはていねいに断ってハノイの町へ戻った。
後に、ヒウさんは、かなり込み入った家族の話をしてくれた。
父には離婚歴がある。別れた前妻との間に子があり、それは前妻が育てている。父は無責任だ。(どうやら父は。尊敬できる祖父からすれば不肖の子という感じでとらえている様子)
母は中国人で、去年里帰りをした。なかなか気が強く、私とよくケンカをする。
兄はロシアで働いているが、なかなかお金がたまらない。だからなかなか帰国できない。2年前同じロシア在住のベトナム人と結婚し子どももできた。
弟は体育の先生になりたいという希望をもっている。
ヒウさんは言う「私は日本に行きたいが、お金がありません。でも、私にお金を出してあげるという日本の老夫婦がいます。昔、お二人でベトナム観光に来られていて、絵葉書を売っていた私を気に入ってくれました。(その時、話は、お互い得意な英語でしました)
ご夫婦は、その後、10回以上ベトナムに来て私に会い、家にも来ました。何百回とEメールでやりとりしました。 ご夫婦は今、留学の費用は出してあげる、学校(専門学校;2年)は私たちの家から通いなさいとまで言ってくれてます」
私は質問しました「里親みたいなものかな。そんなラッキーな話は、他にあるの?」
「数としては本当に少ないですが、あります。アメリカにいった人もいます。そういう援助者を、スポンサーペアレントといいます。私も、日本のその老夫婦に電話や手紙で呼びかける時、おとうさん、おかあさんといいます」
ベトナムの家族、ベトナムの社会、その断面をみるような一日でありました。観光旅行ではなかった。
ヒウ(HIEU)さんには、3日間ハノイの街を案内してもらったが、やはり初日の自宅招待が、強く心に残った。
このことを現在の妻ホアに話すと「よく無事に帰れたね。お酒を飲まされて、寝ている間にお金をとられることもあるのに」と言いました。(アホ、眼力には自信あるわ)
なお、記念にとったヒウさんの写真は、すべてホアによって破られてしまいました。なにかいわれなき悪感情を持っているようです。
ヒウさんとはその後、会うことはなかったが、彼女の日本行きが失敗したことを最後のメールで知りました。
スポンサーになった老夫婦(夫は埼玉県の大学教授)は専門学校にヒウさんの書類を送り、書類審査で入学許可をもらったものの、入国管理事務所の入国許可が下りませんでした。
善意だけでは、身元保証人の資格がないのです。たとえ留学であれ、保証人というのは、日本に帰化しているベトナム人、難民認定されているベトナム人、あるいは日本ベトナム友好協会の里親(日本人)など、公的証明のできる人に限られます。
ヒウさんの無念さが、伝わってきました。
(つづく)
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その可憐な出会いと恋の物語
第2話
「日本語を勉強していますが、私の宿題の答を点検していただけますか」
年の頃なら・・といいたい所だが、ベトナム人の年はよくわからない。20歳前後かな。ものおじしない女性の態度に気押され、でれ~っとしてる間はなかった。
約30分かけて6ページほどみてみたが、よくできていた。優秀だった。
彼女は外国人向けレストランで仕事をしていて、日本人客から日本語を習い、今、本格的に勉強しているとか。日本語をマスターすれば日本人客の多いホテルなどに勤務でき、高給が保障される。しかし今は日本に行ってみたいと熱く語った。
こんな湖のベンチでしゃべりつづけるのも、若いカップルじゃああるまいし、貧乏くさい・・というので
「コーヒーでも飲みに行きませんか?」と言うと
「私、コーヒーは飲みません」
(あれー、ふられたかな~、リチャード、誘うの下手だもんね~)
(まてまて、ベトナムの女性は肌の色が悪くなるといって、コーヒーとかお茶をのまないと本に書いていたなあ、よし)
「トマトジュースでも、喫茶店でいかがですか」
「はい・・でも私、お金持ってません・・」
(なんという謙虚な言葉・・どこかの国の女とえらいちがいや!)
いろんなところで、感動しながら、喫茶店へ。
自己紹介の時、彼女は
「私はグエン ティ ヒウといいます。ベトナムは、姓、ミドルネーム 名前という順に並びます。ティは女しか使いません。また私の姓はホーチミンといっしょです」といいました。
私がベトナム語に触れた瞬間でした。よく覚えています。彼女の言葉はその時、全部はわからなかったが、ベトナム語に興味を持つのには十分でした。
後でわかったことですが、グエン ティ ヒウは漢字で当てると <阮氏孝>。氏というのは一族、つまり、阮一族の娘、孝という、はなはだ封建的な名前で、最近はつかいません。ちなみに私の妻もチャン ティ ホア<陳氏和>です。
彼女の言葉、ホーチミンとグエンがいっしょ??この謎を解くのに半年ほどかかりました。
ホー チ ミンは<胡志明>でペンネームです。胡は異邦人のことで、ホーチミンはフランス官憲の弾圧がすさまじく、ベトナム本土には居られず、中国に潜伏して運動を指導していた。ゆえにさすらいの人、胡です。志は革命の志、明は気持ちが衰えないということです。
ホーチミンの本名はグエン ダッ タイン<阮達成>です。このことをしっているのは、専門の研究家くらいでしょう(エヘン)(笑)
彼女ヒウは、美人ではないが、化粧っ気のない、妙な、しなや恥ずかしさのまったくない姿に、おじさんとしては、たいへん感銘を受けました。
彼女は25歳だそうですが、小柄で若く見えました。親は早く結婚をと迫るそうですが、今は日本へ行きたいといっていました。日本の女性はおしとやかで忍耐強いとかいっていたので<もう絶滅したよ>と思わずいいそうだったが、本人が気づくまで、こちらから夢をこわすことはないとやめました。
日本へ帰ってからベトナム語を習い始めた私に、ヒウから連絡があり「お正月にハノイにきてください。観光旅行ではわからない、本当のベトナムの見どころを、私が案内します。ただしガイド料、たくさん私に払ってね」と書いてあった。
やもめの私、当然、参上しますがな~。これ以上大事な仕事、どこにありますか~。(笑)
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その可憐な出会いと恋の物語
第1話
事実は小説よりも奇なりといいますが、私の人生も、50代になってからの展開が、まさにそれで、とんでもない所へ人生が運ばれていったように思います。
まさかベトナム人と再婚して、そこに住むことになるとは・・・
今から思えば、10数年経ってみればという意味ですが、2人のベトナム女性との出会いが、どうやら人生を変えたということになるようです。
色恋沙汰には無縁な男が、なぜこの2人のベトナム女性に導かれていったのか?そこはいくら考えてもわからないですね。そこに「何故」はなく、「縁」だけがあったという感じなのです。
11年前の夏にはじめてベトナムに行きました。職場の同僚の0さん(今は赤磐市の農民)の強いすすめで、鉄道でベトナム南北縦断の旅を実行した。しかし横着者の私は、どうも一人旅の方が刺激がありそうだと思い、「ここフエ(中部ベトナム)からは、二人が別れて、ハノイも一人で観光を楽しんで、帰国の飛行機で落ち合うことにしよう」と提案しました。0さんはびっくりしていましたが、やむなくという感じで了承しました。
私の性格の異常さ、欠点の現れている話ですが、ここは正直に書いておきます(笑)
ま、この欠点が人生を変えていくきっかけになっているのですから、はずすわけにはいきません。
外国の一人旅は緊張感があります。しかも英語の全く通じない(外国人用ホテルなどは別)、このベトナムの場合は、まあスリリングそのものです。
ハノイにつくと、俗に36通りという商店の集まった所にホテルを取りました。近くにホアンキエム湖という有名な湖があります。小さな湖で一周20分足らずで歩けます。湖の周りに大きな木がたくさんあり、市民の憩いの場になっています。早朝は、大勢の市民が太極拳、バトミントン、ジョギングなどをしています。
私は、ある日、あちこち観光した後、午後4時くらいにこの湖の傍らで、ぼんやりと湖面をながめていました。ベトナムの日差しは強く、木陰に腰かけ水面を渡る風に心地よさを感じていました。
なんとなく背中の方の大通りを眺めると、若いベトナムの女性が、歩いているのが見えました。「いかにもベトナム女性、だれもかれも細いなあ」みたいなことを思っていました。するその女性と眼があって、「お、これはバツが悪いな」と、眼をそらした。気が弱いんですわ、私(笑)
するとその女性は、私にどんどん近づいてくる。まるで知り合いであるかのように。
「失礼ですが、日本の方ですか」
あれ~、日本語やないか?
(つづく)
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