月末と言うことで、もうかれこれ30年前の10月末に体験した「同じ事」の話。
実は、FBに書いたものがどうも一人歩きの気配があり、自身で公開しておこうかと、、。
殆ど身の上話。(^^;
その時のタイトルは「二度永平寺に行ったお話」。(少々加筆訂正してあります)
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自分は寺の生まれだから、寺の中を知らないわけではなかった。
世に言う跡取りの立場ではあったが跡継ぎ教育は一切されず、大学は農学部だし、東京で8年間設計会社のサラリーマン。その後、留学したり設計業の下請けをしたりでお坊さんとは無縁の生活。
なのに、成り行きでアメリカから帰った半年後に永平寺安居(あんご=修行のこと)となった。
35歳の春、昭和59年3月10日上山。
何も知らなかった故に、道元禅師の世界という勝手な憧れのようなものもあった。
そう、崇高で神聖な世界!
が、現実は違った、そこは自分風に言ってみれば軍隊と刑務所と戸塚ヨットスクールを足して三で割った世界だった。古参の言葉使いが激しい!往復ビンタは当たり前。
ここはヤクザ養成所かと本気で思った。
こんな所にいてはいけない、人間が腐る!その思いがつのり、ついには
もう一日経てば入堂という旦過寮六日目の朝「帰らせて頂きます」と古参に言った。
後堂老師にも引き留められたが、昼過ぎには電車の人になっていた。
以来、私の永平寺は敵のようなものとなった。あんな所、二度と行くものか!!
世間ではケツを割ったヤツという評価を頂いたが、当人は何処吹く風!
「喰う寝る坐る」という永平寺の暴露本のようなのを読んだ時は我が意を得たりと無性に嬉しくなったものだ。
その後は、もとの設計業下請けを数年。
ところが、お仏飯で育てられた者はお仏飯に返ると言われた事が現実味を帯びてきたのが8年後、43歳の時。
師匠ともなる父親はすでに78歳。このお寺、あとどないしまんねんや問題!だ。
まぁ、一度摂心でも行ってみたら、と知り合いのご住職に紹介されたのが永平寺ではなく小浜の発心寺。
そして、平成4年10月31日には発心寺にいた。
その夜が一生忘れられないものとなるとは夢にも思わず。
なまじ永平寺を体験したもので、僧堂に対するある種の恐怖感もあった。
翌日から七日間坐禅三昧の摂心に入ると言うことで、前晩、初めての参加者だけ
呼ばれて堂頭原田雪渓老師と面談。
そこで、老師は静かに問われた「あなたは何故、発心寺の摂心に来ようと思われたのですか?」
「家で、ごろごろテレビを見ているより坐禅でもした方がいいかな、と思いまして!」と結構本音のような言葉が咄嗟に口をついてでた。
老師は「同じ事のはずですがね」とこともなく言われた。
この「同じ事」になんで?という思いは有ったが、質問できる雰囲気ではない!
その後、何で?何故おなじ?とその言葉が頭を駆け巡り、その夜一睡もできずに遠くで辰鈴が鳴った。
一週間の摂心中、ずっとこの何故同じ?が頭の中にあり。その後、12月の摂心にも参加しながらずっと、この謎解きを頭の中で繰り返していた。
結局は、年が明けて永平寺再安居となるのだが、この同じ事の謎は解けぬまま、、。
またしても旦過寮で44歳の私は息子のような古参から往復ビンタを食らっていた。
そして思った、この状況と家でテレビを見ているのとがホントに同じなのかと。
と同時に忘れていたあの永平寺が眼前に蘇る。殴られて頭が真っ白になる!そう軍隊と刑務所と戸塚ヨットスクールは9年前と変わっていなかった。そして旦過寮の一週間が経ち、無事僧堂への入堂を果たした二日後、反省会で口走っていた。
「私は明日帰る!」本音は永平寺より発心寺の方が修行になるという思いだった。
これを思いとどまらせたのは、20歳の同安居。
「待った!」という声の後に「みんな帰りたいのだ。ずるい!今帰ったらあの旦過寮の苦労はなんだったんだ」と。
その言葉の中身よりも、今まで一言も口を聞いたことのない、一見生意気そうなその若者が、自分に関わってくれている、というその事実に思いっきり心を動かされた。
そんなこんなでなんとか一ヶ月が過ぎ、もう殴られることもなく、大体のことはできるようになってきた。
それでも20代の若者と同じ飯を喰い、同じ作務をこなすのはどうしても能力的に劣るものがある。
それを救ってくれたのは少し若いがやはり年配の同安居。彼らのおかげで何とか永平寺修行僧を続けることができた。
夏に大庫院に転役して公務中十日間。毎朝一時半に起き、夜九時まで一日中立ち仕事、座れるのは食事の時だけ。
この時は流石にこのまま行くと死ぬかもと本気で思ったほど。この地獄をなんとか切り抜けたのも年配同安居が居てくれたから。
この頃すでに半年が過ぎようとしていて、もう永平寺もいいかな、と思うようになっていた。
これを時の単頭老師に打ち明けると、「永平寺を半年で下りた者は永平寺をよく言わないよ。しかし、一年居て永平寺の春夏秋冬を見た者はみな居て良かったと言うよ」と言われた。
この言葉で、また救われた。
そして、二月になり、新到和尚がやってくる。ピッカピカの一年生だ。
回廊掃除で走ると若いのに年寄りに(そういつも爺と言われていた(^^;)付いてこれない。お経を読むと全く声が出ていない!
年は若いのに!
その時、自分が永平寺の一年でどれだけ成長させて頂いたかを思い知ることに。
三月になって、送行する者が多くなる。(修行を終えて帰るということ)
前年の春、あんなに嫌だった永平寺!
ああそれなのに、何故かもう少しここに居たいという自分が居た。
が、流石に79歳の師匠が待っているのでこれは断念。
結局平成6年4月2日に45歳で永平寺の山門を出たわけだが、
そこは刑務所でも戸塚ヨットスクールでもなかった。
一年前に散々殴られはしたが、もう恨みもつらみも何もなかった。
人には大変でしたねと良く言われたが、自分が頑張ったなんて全く思わず、
ただ、みんなのおかげで一年が無事送れたという思いだけだった。
そんなこともあって帰ってからも50代前半まで再々安居をまだ夢見ていた。
一年では知らないことが多すぎるから。
この思いが消えたのは、あの「同じ事」を「ああ、そういうことだ」と
気づいた還暦の頃。
思えば20年近く「同じ事」の公案に悩んでいたことになる。
これをお示し頂いた原田雪渓老師は本年(2010年)六月御遷化された。
が、老師のあの時の声はまだ耳に残っている。
「同じ事のはずですがね」
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言うまでも無く、時代は変わります。
相撲界と同じように今の永平寺に殴る蹴るは無いと聞きます。
私の後、15年後に永平寺安居した息子は、一年間一度も殴られたことは無かったと言います。
それを聞いて、あぁ、なんで殴ってやらないのだ!勿体ないことだと思ったのも事実。
大きな声では言えないが。(^^;
世の中には伝統があり、それを守る人々がいてこそ繋がっていきます。
それが好きだとか嫌だとかの入る余地のない世界でもあります。
私が永平寺で学んだのは、個人の計らい、思いはどれほどのことでもないと言うこと。
それらを捨て去ってこそ見えてくるものがある。
画像は20年前の永平寺仏殿前、右手に僧堂。