今日は広島に原爆が落とされてから68年目です。
毎年8月6日には広島を訪れていた私ですが、今年はいろいろな用事が重なり、広島には行けませんでした。
そこで68年目の2日前の8月4日、この日は私の62回目の誕生日でもありますが、広島を訪れて来ました。
その日の広島は蒸し暑く、雨は山陰地方のようには降っていませんが、確実に以前のからっとした夏とは変わっていました。
その広島でやることは決まっています。
原爆ドームと平和公園を訪れること。
慰霊、鎮魂、いろいろな意味はありますが、私のためのもの、私の原点を確かめること・・なのかなと思うようになりました。
私は被爆から6年後の広島で生まれました。
ただ爆心地から5キロ以上はなれた井ノ口というところで、あまり被曝ということを知らず育ちました。
幼稚園に上がる頃、父親の仕事で広島市の中心部、大手町というところに引っ越しました。
原爆ドームのすぐ近くです。
遊びに行くところは元安川のほとり、まだバラックが密集していた原爆ドームでした。
私の記憶に間違いがなければ、当時の原爆ドームには何の囲いもなく、どんどん中まで入って行けました。
原爆ドームの中心から空を見上げたことがある人間は、地球上にそういないと思います。
それが幼稚園だったのか小学校低学年だったのか定かではありません。
でも、ざっと被曝から12年後だったのかなと思います。
広島の水を飲み、広島の野菜や果物、魚を食べて育ちました。
まだセシウム137が多く残っていただろうと思います。
当時はそういう注意を払う人はいませんでした。
母親は私が小学校1年生のときに体調を崩し、長期の入院をしました。
1年近く、宇品の病院に入院していましたが、原因は不明としか聞いていません。
母親は長く病気がちでしたが、60歳を過ぎた頃からなんだか元気になりました。
私は小さい頃、デキモノが良くできました。
頭の中に角のように生えて来て、あるとき落ちる。
何かを身体の外に排出する力が強いのか、おかげでいまでも私は湿疹体質、何か疲労が重なったりすると手や足にばーっと湿疹が出ます。
腎臓や肝臓で浄化しきれない、悪い血を皮膚の薄いところで吐き出しているかのようです。
原爆資料館をはじめて見たのは小学生のとき。
そのころは、ただれたケロイドの肉片標本までありました。
いまの再現人形どころではない生々しさで、強烈なショックを受けました。
原爆の威力は凄まじい・・ということを実感していました。
しかし、だから何かをする・・というふうにはなりませんでした。
小学校を卒業し、中学、高校を出て大学は横浜でした。
原爆と正面から向きあったのは、さらに大人になってからだったと思います。
そう、30歳の頃、反核コンサートなどを主催するようになってです。
そうか、ボクは被曝の街に生まれたのかと。
そして、その後にやって来たのがゲンパツでした。
広島では記念式典でのお言葉よりも、夜の灯籠流しが好きです。
無数の灯籠が川面に浮かび、ゆらゆらと流れている。
美しいですし、荘厳ですし、なにか厳粛な気持ちになれる。
その無数の灯りの明滅が、私の原点なのかもしれません。
広島の前市長秋葉さんは、「被爆体験の思想化」というのが口癖でした。
広島の被爆者は、被曝の実態を後世に伝えるために「語り部」というのを生み出しました。
みずから被爆体験を語る。あまりに悲惨で、本当は語りたくない、思い出したくないことを「語る」ことにしたのです。
その語り部の話をテープにとり、さらには映像で収録するようになりました。
いま、その集大成ともいえるものが「国立広島原爆死没者追悼平和記念館」というところに納められています。
ここに行くと、そのすべての証言を、音や映像や書かれた文章で確認することができます。
この記念館に入ると、まず長い回廊を通ってレリーフの空間に入ります。
うすくらい照明、空間のまん中につくられた噴水というよりも水が流れる台、そして壁には365度レリーフ画。
被曝直後の廃墟となったヒロシマです。
水の流れる音だけの静かな空間の中で、私はこのレリーフをながめているのが好きです。
外の蒸し暑さもここには届きません。
じっと瞑想し、そして被爆体験をナマのまま集めた資料室に行きます。
そこで、時間の許す限り、ランダムに被爆体験を見、聞く。
とても豊かな、贅沢な時間だと思います。
体験を学びながら、みずからの思考を研ぎすませて行く空間。
思想をおしつけるのではなく、思考をさせてくれる場所。
もしかして「被爆体験の思想化」とはこのようなことなのか・・と思える空間です。
長々と書いて来ましたが、あなたも広島に行かれたなら、原爆資料館だけでなく、ぜひ「国立広島原爆死没者追悼平和記念館」も訪れてください!というお願いでした。
68年後のヒロシマ
毎年8月6日には広島を訪れていた私ですが、今年はいろいろな用事が重なり、広島には行けませんでした。
そこで68年目の2日前の8月4日、この日は私の62回目の誕生日でもありますが、広島を訪れて来ました。
その日の広島は蒸し暑く、雨は山陰地方のようには降っていませんが、確実に以前のからっとした夏とは変わっていました。
その広島でやることは決まっています。
原爆ドームと平和公園を訪れること。
慰霊、鎮魂、いろいろな意味はありますが、私のためのもの、私の原点を確かめること・・なのかなと思うようになりました。
私は被爆から6年後の広島で生まれました。
ただ爆心地から5キロ以上はなれた井ノ口というところで、あまり被曝ということを知らず育ちました。
幼稚園に上がる頃、父親の仕事で広島市の中心部、大手町というところに引っ越しました。
原爆ドームのすぐ近くです。
遊びに行くところは元安川のほとり、まだバラックが密集していた原爆ドームでした。
私の記憶に間違いがなければ、当時の原爆ドームには何の囲いもなく、どんどん中まで入って行けました。
原爆ドームの中心から空を見上げたことがある人間は、地球上にそういないと思います。
それが幼稚園だったのか小学校低学年だったのか定かではありません。
でも、ざっと被曝から12年後だったのかなと思います。
広島の水を飲み、広島の野菜や果物、魚を食べて育ちました。
まだセシウム137が多く残っていただろうと思います。
当時はそういう注意を払う人はいませんでした。
母親は私が小学校1年生のときに体調を崩し、長期の入院をしました。
1年近く、宇品の病院に入院していましたが、原因は不明としか聞いていません。
母親は長く病気がちでしたが、60歳を過ぎた頃からなんだか元気になりました。
私は小さい頃、デキモノが良くできました。
頭の中に角のように生えて来て、あるとき落ちる。
何かを身体の外に排出する力が強いのか、おかげでいまでも私は湿疹体質、何か疲労が重なったりすると手や足にばーっと湿疹が出ます。
腎臓や肝臓で浄化しきれない、悪い血を皮膚の薄いところで吐き出しているかのようです。
原爆資料館をはじめて見たのは小学生のとき。
そのころは、ただれたケロイドの肉片標本までありました。
いまの再現人形どころではない生々しさで、強烈なショックを受けました。
原爆の威力は凄まじい・・ということを実感していました。
しかし、だから何かをする・・というふうにはなりませんでした。
小学校を卒業し、中学、高校を出て大学は横浜でした。
原爆と正面から向きあったのは、さらに大人になってからだったと思います。
そう、30歳の頃、反核コンサートなどを主催するようになってです。
そうか、ボクは被曝の街に生まれたのかと。
そして、その後にやって来たのがゲンパツでした。
広島では記念式典でのお言葉よりも、夜の灯籠流しが好きです。
無数の灯籠が川面に浮かび、ゆらゆらと流れている。
美しいですし、荘厳ですし、なにか厳粛な気持ちになれる。
その無数の灯りの明滅が、私の原点なのかもしれません。
広島の前市長秋葉さんは、「被爆体験の思想化」というのが口癖でした。
広島の被爆者は、被曝の実態を後世に伝えるために「語り部」というのを生み出しました。
みずから被爆体験を語る。あまりに悲惨で、本当は語りたくない、思い出したくないことを「語る」ことにしたのです。
その語り部の話をテープにとり、さらには映像で収録するようになりました。
いま、その集大成ともいえるものが「国立広島原爆死没者追悼平和記念館」というところに納められています。
ここに行くと、そのすべての証言を、音や映像や書かれた文章で確認することができます。
この記念館に入ると、まず長い回廊を通ってレリーフの空間に入ります。
うすくらい照明、空間のまん中につくられた噴水というよりも水が流れる台、そして壁には365度レリーフ画。
被曝直後の廃墟となったヒロシマです。
水の流れる音だけの静かな空間の中で、私はこのレリーフをながめているのが好きです。
外の蒸し暑さもここには届きません。
じっと瞑想し、そして被爆体験をナマのまま集めた資料室に行きます。
そこで、時間の許す限り、ランダムに被爆体験を見、聞く。
とても豊かな、贅沢な時間だと思います。
体験を学びながら、みずからの思考を研ぎすませて行く空間。
思想をおしつけるのではなく、思考をさせてくれる場所。
もしかして「被爆体験の思想化」とはこのようなことなのか・・と思える空間です。
長々と書いて来ましたが、あなたも広島に行かれたなら、原爆資料館だけでなく、ぜひ「国立広島原爆死没者追悼平和記念館」も訪れてください!というお願いでした。
68年後のヒロシマ
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