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今年も、母の命日 3月15日が近づいてきました。
今年は母が亡くなって12年ということで、十三回忌の法要を行い
ました。
ツノ坊が書いた席札を手に記念撮影。
母の実家の加藤家のみなさん、とってもお茶目です。
胸ポケットに名札のように差している右前列の二人は、母の弟です。
その母の実家 加藤家は、わが家から150mほどしか離れていなく、
母の曽祖父(ひいおじいさん)の加藤忠四郎は名古屋にあった陸軍
第三師団への貢献が大ということで、昭和6年4月に陸軍によって
名古屋市役所のやや東、基幹バス通りのど真ん中に碑が建てられ
ました。
市役所の交差点を東に向かうと、
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道路の中央にこんもりとした小山が出てきます。
東行き車線と西行き車線がこの小山の両側をぐるっと回っている
ところです。右側に見えるのは愛知県東大手庁舎です。
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その西行き車線の南側にさらに小さな緑地帯があります。
ここに碑が建っています。
奥に見えるのは名古屋拘置所です。
そんな家だったので、昭和5年生まれの母 幸子は子どもの頃は、
地元では「幸さま」と呼ばれるほど、ちょっとしたお嬢様だった
そうです。
しかし曽祖父の後を継いだ母の祖父が放蕩、借金を繰り返し、
経済的に厳しくなったりもしました。
父と結婚してからは、祖父が自分の兄弟家族まで自宅に引き取り、
それに加えて父の大勢の弟、妹もいるという大きな、かつ複雑な
家だったため、それはそれは苦労したんです。
そんな中でも父が仕事に打ち込めるよう家のことをか細い腕で
一手に引き受けた母の内助の功は偉大でした。
こんなふうに苦労したせいか、母はひとつもお高くとまったような
ところはなく、天真爛漫という言葉がピッタリなとても気さくな女性
でした。
長く私の祖父の三度三度の食事などの世話をしつつ、私たちが結婚
してほどなく自分の父が亡くなり、残された母のことも毎日の様に
世話をしていました。
そしてその母(私の祖母)が、さらに私の祖父も亡くなり、60歳
過ぎて、孫ができ、やっと自由な時間を謳歌できるかと思った矢先、
1992年頃、パーキンソン病を発症してしまいました。
2001年、私が社長に就任した日、すでに病気はかなり進行して
いたのですが、会社から帰宅した私に、
「お父さんに感謝しなさいよ。
そしてしっかり頑張りなさい」
としっかりとした口調で励ましてくれました。
それから1年も経たずに母は亡くなりました。
その時、そしてその後も事ある度に、
「母の人生って、一体何だったんだろう?
母は幸せだったんだろうか?」
と思います。
誰かのために尽くすだけ。
かといって、誰かから感謝されることも少なかった。
母にもっと感謝しておけばよかったと後悔するばかりです。
きっと父もそう思ったことでしょう。
母に言ったことが無かったけど、ぜひ言いたかった言葉:
「お母さん、ありがとう。愛してるよ」
そんな母のことを、改めて偲ぶ十三回忌でした。
感謝の気持ちを伝えることを先延ばしせず、その都度伝える。
母が自分の人生と引き換えに教えてくれたような気がします。
だから、今日の法事の陰の立役者であるツノ坊にお礼を言います。
ありがとう。
御母上、幸子様。
奇遇ですね、私の母と同名ですね。
私の母も2000年の3月にガンで亡くしました。
磯和社長と同じく私も母親の大変な人生に
同情や疑問を持ちましたが時間とともに薄らいでゆきます。唯一残念なのは内孫、私の子供を見せれなかったのが今でも悔やんでおります。
やはり おっかさん にはいつまでも元気でいてほしかったですな。
私の母は『ゆきこ』ですが、箱屋さんのお母様は
『ゆきこ』『さちこ』いずれですか?
でも箱屋さんのお母様は若くして亡くなられたの
ですね。
長生きして欲しかったですね。