磯輪日記

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世界一社風のいい会社を目指しています。

プレイバック in 沖縄 Part 1

2011年10月30日 19時22分11秒 | オフ・タイム

猛烈に忙しかったため、沖縄での出来事を紹介する時間がとれず、
やっと今日アップすることができます。

今日は『平和を考える編』です。

到着した翌18日、7時半に宜野湾のホテルを出て、まず向かったのは
ひめゆりの塔・平和祈念資料館です。



背景の白いものがひめゆりの塔ではありません。ひめゆりの塔は、私の
すぐ右後方にある



小さな墓標のようなものです。
献花して、開館と同時に資料館に入りました。

なぜここを朝一番に訪問したかというと、とても有名なスポットなので、
すぐに大勢の観光客が押し寄せてくる。そうすると静かな気持ちで展示を
見ることができないと考えたからです。

いろんな展示がありましたが、やっぱり一番胸を打つのは、生き残った
方々の証言ビデオです。この後、別の場所でガイドさんの案内をお願い
していて、事前に見学に要する時間を聞いた時は、

 「ゆっくり見て、1時間」

とのことで、それでガイドさんの予約をしていました。

ところがドンドン時間が無くなってきて、結局、館内のビデオ証言は
すべて見ましたが、それだけで1時間45分掛かってしまい、他は
何も見ることができませんでした。

ビデオを見ていたら、海外からの来館者があり、高齢の案内する方が
同行していました。お話に耳を傾けていると、

 「この次、私の証言が流れます」

と言っています。ひめゆり学徒の生き残りの方でした。少しだけですが、
生で話を聞くことができて、本当に幸運でした。

その後も、次から次へと団体が入ってきて、修学旅行生もたくさんいます。
しかしこの学生たちの不謹慎な見学態度。靴をペタペタと引きずって歩く、
大きな声でバカ話をして、展示など何も見ていない。まったくの物見遊山。
こういう姿勢の見学者と同じ年代の人たちが、66年前にここでどういう
運命と直面しなければならなかったのか。学校教育って一体何なのかと
悲しくなりました。


それから大急ぎで、南風原の旧・沖縄陸軍病院20号壕に向かいました。
この壕は、ひめゆり学徒が1945年3月末に学徒動員され、最初に
勤務した場所です。病院と言っても、立派な建物も何も無く、洞穴です。



近くの南風原文化センターで紹介されていた実物大の壕のモデルです。
右側がずらっと二段の棚になっていて、そこに患者が横たわっています。



看護見習いとして動員されると聞いて、女学生たちはみんな、戦線の
かなり後方での勤務ともう少し軽く考えていたそうです。
ところが配属された場所は、ほとんど最前線。銃弾、爆撃、火炎放射、
何でもありで、看護する兵隊も手の付けられないような重症患者ばかり
で、それも洞穴の中。負傷兵のうめき声、糞尿の悪臭、そして暗闇。

  「今まで聞いていたことは、一体何だったのか?」

と思ったそうです。

その後、この南風原の壕も敵が間近となり、とうとうここを捨て、重症の
兵隊、同級生に自決用の手りゅう弾や青酸カリを手渡して、彼ら、彼女らも
捨てて、ひめゆりの塔のあるさらに南へと逃げて行ったそうです。

壕を案内してもらったのは、私と同じ年の大城さんでした。



我々が先にひめゆり平和祈念資料館に行ってきましたと伝えると、

  「それはよかったです。
   ここでの説明がより理解しやすくなります。
   とてもいいことですね」

と言いつつ、遅刻してしまった私たちをとても丁寧に案内してくれました。

大城さん曰く、

 「決してひめゆり隊だけではありません。
  たまたまひめゆり隊は母体が沖縄でも最難関の学校だったので、
  生徒も裕福な家庭の子が多かったのです。そのため戦後多くの
  寄付が集まり、塔が建立され、さらに映画化されたために
  とても有名になりましたが、同じような学徒隊は他にもたくさん
  あり、同じ悲劇があったのです」

大城さん、ご案内、ありがとうございました。




お昼も過ぎたので、沖縄そばの昼食。
そばと言っても、普通の蕎麦とは違うということで、蕎麦アレルギーのツノ坊も
安心して食べられました。


その後、もう一度、ひめゆりの塔近くの摩文仁の平和記念公園を訪れ
ました。



広大な、緑いっぱいの明るいこの場所が、日本軍が最後に沖縄の司令本部を
置いた場所であり、多くの沖縄の人たちを死に追いやった場所。
私の手前が平和の火。そして後方に黒く見えるのは、沖縄で亡くなった20万人
とも言われる兵士、民間人、外国人の一人ひとりの名が刻まれた碑が放射状に
並ぶ、平和の礎(いしじ)。
65年という年月が築いた平和を大切にしなければいけません。




摩文仁の丘に登り始めたら、何やら黒服の一団がやって来ました。
ツノ坊の後方左を見ると、玄葉外務大臣とそのお供でした。


その後は、ここでもうるさい修学旅行生を避けようと摩文仁の丘に登りました。
そこには各都道府県ごとの慰霊の塔が並んでいて、平和の火の辺りとはまるで
違った静けさが。

結局、日没までこの一帯をツノ坊と散歩しました。

本当によく歩いた一日でした。

しかしここに追いつめられた沖縄の人たちの辛苦を思えば、恥ずかしいもの
です。




穏やかな、真っ青な海。

しかしひめゆりの祈念館で見た証言ビデオの中の女性は、

  「その後、何十年、怖くて海が見られなかった」

と言っていました。

同じ海、同じ丘。

日本で唯一地上戦を経験した沖縄です。



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2 コメント

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まだ続きます (磯輪)
2011-10-31 21:06:16
 りつさん

結構書くのにエネルギーが要るんです。
だから一度に書ききれず、今日も書きました。
でも行って良かったです。
行かなきゃ分からないから。
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Unknown (りつ)
2011-10-31 17:55:36
プレイバックシリーズの中でも保存版にしたい今回でした。
ありがとうございました。
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