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疲れていたので、昨夜、
「今夜はゆっくり寝よう」
と決めて、ベッドに入りました。
途中何度か目が覚めましたが、結果今朝は10時まで寝ました。
起きてきて、リビングで何となくテレビを見たら、『記憶が届けた遺書』と
いうドキュメンタリーがやっていました。
シベリア抑留中、病気になって帰国の望みがなくなった元日本兵士が、
祖国で待つ母、妻、子どもたちに向けて、一通の遺書をしたためました。
山本幡男さんという方で、常に仲間を励ましてきた人だったそうです。
でも当時収容所では、遺書は認められていなかったので、せっかくの遺書も
家族に届ける手段がありませんでした。そこで仲間たちは、山本さんの
遺書を何人かで手分けして、暗記することにしました。
何とかしてお世話になった山本さんの遺志を家族に伝えようと、仲間は
自分の担当する部分を書き写し、常に持ち歩き、何度も何度も読み返し、
各自記憶に残したそうです。
その後とうとう念願の日本への帰国が叶い、それぞれ自分の記憶を元に
山本さんの遺書を再現し、家族の元に届けました。
その内容のすばらしいこと。そしてその文体の高貴なこと。例えば子ども
たちに向けて、正確に憶えていないけど、
「東洋は道義の文化。西洋と東洋の架け橋になるのはお前たち日本人だ。
最後は、義、誠が勝つ」
こんなことを残していました。いろんな人の記憶によって復元された
山本さんの遺書は、それを受け取った家族がその後生きていく上で大きな
支えとなりました。
山本さんは俳句も嗜んだそうで、たくさんの句も残していました。
数年、収容所のベッドで療養していて、下界の様子は限られた窓から見える
わずかな景色だけ。でもそんな中でも、豊かな感受性で多くのことを感じ、
それを句にとどめていました。
その時、強く思いました。
毎日普通に生活できているのに、ブログに書くことに困るようじゃとても
ダメですね。山本さんに恥ずかしい。五体満足、五感満足であれば、
もっといろんなことが見え、感じられるはず。
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山本さんは最後に病床で、千キロも離れた故郷隠岐の『ろんろん』と響く
海鳴りを聞いたそうです。その『海鳴り』という詩は、山本さんの望郷の
叫びのように響きました。
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