磯輪日記

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世界一社風のいい会社を目指しています。

『記憶が届けた遺書』

2007年08月25日 22時07分19秒 | オフ・タイム

疲れていたので、昨夜、

 「今夜はゆっくり寝よう」

と決めて、ベッドに入りました。

途中何度か目が覚めましたが、結果今朝は10時まで寝ました。

起きてきて、リビングで何となくテレビを見たら、『記憶が届けた遺書』と
いうドキュメンタリーがやっていました。

シベリア抑留中、病気になって帰国の望みがなくなった元日本兵士が、
祖国で待つ母、妻、子どもたちに向けて、一通の遺書をしたためました。
山本幡男さんという方で、常に仲間を励ましてきた人だったそうです。

でも当時収容所では、遺書は認められていなかったので、せっかくの遺書も
家族に届ける手段がありませんでした。そこで仲間たちは、山本さんの
遺書を何人かで手分けして、暗記することにしました。

何とかしてお世話になった山本さんの遺志を家族に伝えようと、仲間は
自分の担当する部分を書き写し、常に持ち歩き、何度も何度も読み返し、
各自記憶に残したそうです。

その後とうとう念願の日本への帰国が叶い、それぞれ自分の記憶を元に
山本さんの遺書を再現し、家族の元に届けました。

その内容のすばらしいこと。そしてその文体の高貴なこと。例えば子ども
たちに向けて、正確に憶えていないけど、

 「東洋は道義の文化。西洋と東洋の架け橋になるのはお前たち日本人だ。
  
  最後は、義、誠が勝つ」

こんなことを残していました。いろんな人の記憶によって復元された
山本さんの遺書は、それを受け取った家族がその後生きていく上で大きな
支えとなりました。

山本さんは俳句も嗜んだそうで、たくさんの句も残していました。

数年、収容所のベッドで療養していて、下界の様子は限られた窓から見える
わずかな景色だけ。でもそんな中でも、豊かな感受性で多くのことを感じ、
それを句にとどめていました。

その時、強く思いました。

毎日普通に生活できているのに、ブログに書くことに困るようじゃとても
ダメですね。山本さんに恥ずかしい。五体満足、五感満足であれば、
もっといろんなことが見え、感じられるはず。

      

山本さんは最後に病床で、千キロも離れた故郷隠岐の『ろんろん』と響く
海鳴りを聞いたそうです。その『海鳴り』という詩は、山本さんの望郷の
叫びのように響きました。


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