武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

216. 宮崎で始動

2024-12-01 | 独言(ひとりごと)

 11月26日にようやくインターネットが繋がりました。ポルトガルを引き上げたのが9月24日。それからの2か月間は何となくボケっと過ごしていた様な、忙しく過ごしていた様な、地に足が着いていなかった様な、訳の分からない夢の様な時期を過ごしていた様な、でも夢ではなく現実。その間、帰国後1か月が過ぎたところではたと思いつき、友人知人たちに帰国報告のハガキをお送りしました。宛名不明で戻って来たのも10通ほどがありました。ここにその文面を書いてみたいと思います。

 『ご無沙汰しております。お元気ですか。当方は二人ともなんとかやっています。実はこの2024年9月24日に帰国しました。1990年9月16日から暮らしたポルトガルから引き揚げ完全帰国を果たしました。もうポルトガルには戻りません。

 ポルトガルに移住した1990年当初には5年も住めれば良いかなと思っていましたが、5年が10年、10年が20年、気が付けば34年です。

 10年ほど住んだ頃から70歳くらいになれば帰国しようかなとは漠然と思い始めていましたが、その帰国をするべき頃からコロナ禍でした。でもコロナ禍で自宅に閉じ籠りの生活に実は快適さを感じていましたし、私たちが老人と言われる世代の仲間入りをしたのと同時にコロナ禍でのセトゥーバルの人々の思いがけぬ親切にも多々触れることにもなり帰国は遠のいた感は否めません。ますますセトゥーバルでの生活が気に入ってしまったのです。

 でも今の年齢を考えると、健康に自分の足で歩けるうちに帰国するのなら今しかないとも考え、一念発起して、急遽帰国の道を選びました。この歳になっての帰国(引っ越し)は想像以上に大変なものでした。そしてそれでも何とか帰って来ました。

 心残りなのはポルトガルでの油彩は完成には至っていませんし、淡彩スケッチのブログも3403景で中断したままです。

 セトゥーバルでの生活と宮崎の生活のあまりにもの違いに戸惑いも感じていますが何とか始動しています。油彩100号も描き始めました。

 34年間のセトゥーバルでの生活で溜りに溜まったゴミは殆どを捨てましたが、それでもどうしても捨てきれないゴミは段ボール箱20個分にもなり、仕方なく船便で送りました。それが1月頃には到着する予定です。狭い宮崎の自宅にどのように収納するのかが今からの課題です。

 今は時差ボケがそのまま慢性化した如く気分ですが、一刻も早く宮崎の気候、気圧に慣れていきたいと思っています。今後とも変わりませぬよう、お付き合いの程をお願い申し上げます。』

 このはがきを郵送してからさらに1か月が過ぎました。宛先不明で戻って来たハガキもありますが、お返事を下さった方もありますし、電話を下さった方も、都城から会いに来てくださった方、そして大阪からわざわざ飛行機に乗って会いに来て下さった方も居て、それぞれ恐縮しています。

 暑すぎる秋を過ごし、急に冬がやって来ました。宮崎にずっとお住いの方も戸惑っておられるようですが、我々にとっては尚更です。インターネットも繋がり、昨日は新車が我が家にやって来ました。でもいまだに、どこからどう手を付けて良いのやら、何だか宇宙遊泳をしているが如く、地に足が着いていません。 武本比登志

 

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215. 完全帰国 Retorno completo ao Japão

2024-09-01 | 独言(ひとりごと)

 そうなんです。完全帰国です。

 今月、2024年9月23日、月曜日、早朝6:15リスボン発ミュンヘン経由羽田行きの便で完全帰国です。そして帰国先は宮崎市内城ケ崎です。

武本比登志油彩「エルヴァスの家並」F20-油彩画像と文章は関係ありません。

 34年前の1990年9月19日、水曜日、モスクワ経由リスボン着。「快晴、安宿からの夕陽と赤瓦の屋根が美しく早く絵を描きたいと思ったものだ。」と書き記しています。その3日後からセトゥーバルに住み始めて34年もの歳月が過ぎてしまいました。

 34年もの歳月ですから、当時、私たちも若かったのです。40歳代の前半でした。

 これ程長く住むとは思いもしなかったのですが、トランク一つでやってきました。

 その前々年にバリ島で買った水牛皮のトランクです。

 最初は1~2年も住めれば良いかな。と思っていました。

 それが、5年が10年、10年が20年。そして34年です。

 絵が描きたくなって、その目的のためにやって来ました。そして猛烈に絵は描きました。

 枚数だけは誰にも引けをとらないと思っています。

 絵を描くことが目的ですから、他には何も考えませんでした。

 ポルトガル語を勉強して世間に溶け込もうなどとは一切思いませんでした。

 それは最初に住んだスウェーデンの教訓からです。

 1971年、未だ20歳代の前半にストックホルムで4年余りを暮しました。

 語学学校に通い、ストックホルム大学でも語学を学びました。予習復習を怠りなく、一生懸命にスウェーデン語を勉強しました。その4年余りは全くのスウェーデン語浸けでした。

 でもストックホルムから一歩離れるとスウェーデン語は殆ど忘れてしまいました。語学の才能が全くないのを身に染みて感じました。でもそれはそれでとても充実した4年半で、私たちの人生において重要な位置を占めていることに違いはありません。

 絵を描きたいと思ってやってきたポルトガルでは最初からポルトガル語を学ぶということは敬遠していました。

 絵を描くことに時間を費やしたいと思ってやって来たのです。ポルトガルにとっては失礼な話ですが、絵だけ描くことが出来ればそれでよいと思っていました。

 そしてその通りにやって来ました。モティーフを求めてポルトガル全国を歩きました。エスキースを描き、それを油彩にしてきました。膨大な数に上りました。

 34年間には、日本全国で数えきれない程の個展を催して頂きました。パリの公募展にもポルトガルをモティーフにした絵を出品してきました。

 34年より以前、ストックホルムからニューヨークに暮らし、ポルトガルに住み始める前は宮崎県の山の中で13年を過ごしました。

 山の中と言っても国道10号線が走っているその沿道でしたが、四季折々、山の美しさを感じることが出来る場所でした。水源林としての照葉樹に覆われた山で、照葉樹の間には野性の山桜、藤、藪椿、そして香り高い白花沈丁花。エビネランの名産地でもありました。

 国道10号線沿いですので長距離トラックも走りますし、宮崎市と都城市の丁度中間でしたのでクルマは多く走っていました。

 でも一旦、クルマが途切れると、猪は庭を横切りますし、山猿の群れが飼い犬にちょっかいを出しに来ます。遠くで鹿の声も耳にしました。アカショウビンは我が家のガラス窓に激突し気絶する姿も2度ほどありましたし、庭を取り巻くせせらぎではカジカガエルがいい喉を聞かせてくれました。季節には蛍の乱舞もありました。

 それはそれでとても気に入ってはいたのですが、ポルトガルに住むと言う段になって、それとは正反対の場所を望んでいました。

 出来ればリゾート地ではない港町。大きすぎず、小さすぎず、生活臭のある庶民的な町。クルマがなくても何でもできる街なか。と漠然と思っていたのです。第1候補にセトゥーバルを考えていました。

 そしてその第1候補地ですぐに部屋が見つかったのです。それも下町の小さな広場に面した、アーチ窓のある、天井の高いレトロな建物で、台所には太ったサンタクロースでも列をなして入って来られそうな大きな煙突が被さっていました。私たちには理想的でした。

 その下町の家で2年間を過ごしました。そして今の丘の上の家に引っ越してきて32年で併せて34年です。住めば都と言いますが、よくぞいいところを選んだものだと思っています。住めば住むほど気に入っていると言っても過言ではありません。

 ポルトガルでの34年を一言では括れません。時代も代わりました。通貨もエスクードからユーロです。スペインとの国境線は1,215キロメートルだそうですが、その検問所は全てなくなりました。趣はなくなった、と思われがちですが、それ以上に便利になりました。

 時代に惑わされず、その時代その時代で最善の選択をして来たつもりです。こうしておけば良かった、などと言う後悔は一切ありません。

 地域に溶け込もうなどとは思っていなかった。ポルトガル語を学ぶことは敬遠していたと言っても地域の人達とのカタコトのポルトガル語での挨拶は怠りませんでした。

 コロナ禍になって、私たちも老人と言われる年齢になって、セトゥーバルの人々の親切を身に染みて感じています。セトゥーバルで良かったなと改めて思います。

 それに天気が良い。高温多湿の日本とは違って、乾燥しているので気温が高くても爽やかなのです。エアコンも要りません。海の見えるところに住みましたので尚更です。

 定年退職後5年間の限定で日本人ご夫妻がリスボン郊外に住んで居られました。5年が来るのを待ち遠しくしておられたのが印象的でしたが、帰国する間際に「天気だけは持って帰りたい」と名言を吐かれました。本当にその通りだと思います。

 我が家は、それに加えて部屋は南向きなので夏は涼しく冬温かい。

 私たちは天気だけではありません。このセトゥーバルの生活を、ここに来て増々気に入っているのです。その一番気に入っている生活を方向転換して完全帰国です。一番いい時に完全帰国です。

 この選択も最善のものになるのだと確信しています。

 あと22日。精々楽しみたいと思っています。

 長い間、本当にありがとうございました。

 と書く前の8月26日未明5:10地震で目が覚めました。震源はセトゥーバル県シネス沖60キロ。シネスのお城の岸壁のところにはヴァスコ・ダ・ガマの立派な銅像が建っています。そして遥か沖合を見晴るかしていますが、その辺りが震源です。マグニチュード5,3。我が家では震度2程度かの横揺れが2秒ほど。恐らくポルトガルに来て初めて?の経験です。幸い物が落ちるなどの被害はありませんでした。

 日本は地震列島。少し前8月8日には日南市で震度6弱の地震。南海トラフとの関連が叫ばれています。ポルトガルの震度2程度などは笑ってしまう。と言う人が居るかもしれませんが、人類史上被害が最も大きかったのは1755年11月1日に起こったリスボン大地震です。津波による死者1万人を含む、5万5,000人から6万2,000人が死亡したと言われています。

 日本列島を襲うのは地震だけではありません。今度は8月28日、台風10号による竜巻と思われる突風が宮崎市の城ケ崎で屋根瓦を飛ばし、多くの家のガラスが割れ、電柱が倒れ電線が垂れ下がり停電の被害をもたらしたと言うニュース。

 宮崎市城ケ崎は私たちの帰国地です。まさにピンポイントのニュースです。

 インタネットのニュースを見ると何やら見覚えのある町並、そして見覚えのある看板。グーグルマップで検索してみると、わが家から直線距離100メートルの赤江大橋南詰め交差点の映像です。

 宮崎の我が家は鉄筋コンクリート2階建てなので風には強いはずですが、窓を広く取っていますのでガラス窓が割れていないかが心配で祈るばかりです。その後、義妹から「窓ガラスは大丈夫でした。外から見える限りでは被害は無かった様だ。」と電話がありました。

 被害は無かったとは言え、そんな災害列島ニッポンにあと22日で完全帰国です。

 それでも宮崎市での今後の生活がどのようなものになるのか、今からが楽しみです。温泉も楽しみなのですが、勿論、絵は描き続けたいと思っています。

武本比登志

 

 実は10年前にも同じような文章を書いています。良かったらご参考までに。

132. 1990 年 9 月 19 日、水曜日から 25 年

 

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214. 朝日の当たる家 casa ao sol da manhã

2024-08-01 | 独言(ひとりごと)

 我が家はセトゥーバルで一番最初に朝日が当たる。

 と言っても東側には殆ど窓がなく、広―い壁になっているため、その壁に朝日が当たるのだ。

武本比登志油彩画「ポルトガルの町並」(F20)と文章は関係ありません。

 只、浴室の小さな窓だけは東側に開けられていて、そこからなら日の出も朝日も拝むことが出来る。

 それと北側と南側にあるベランダに出れば、どちらも東側にも向いていてそこからも日の出と朝日を拝むことも出来る。

 たいていは日の出前に目が覚める。レースのカーテンはそのままにし、カーテンを開ける。ベッドに横になりながら、ベランダの手すりの桟を眺めていると、そのアルミの桟の東側の面が茜色に照らし出される。日の出だ。

 それっとばかりに浴室に行き、日の出を拝む。

 居間も寝室も東側に広い壁があり、それをもしぶち抜いたならばセトゥーバルの街全体が見渡せ、朝日も煌々と降り注ぐのだが、建築基準上それは出来ないらしい。

 以前に知り合いになった人が建築中の家を買った。建築途中なので「こちらに窓を作りたい」と申し出たのだが、「建築設計基準上それは出来ない」と断られた。と言う話も聞いた。ポルトガルは結構、建築基準法に厳しいのだ。

 セトゥーバルは南にサド湾とトロイア半島、そして大西洋の水平線。

 東側にモンテベロの丘の住宅地と工場地帯。

 西には我が家もそこにあるのだが、アヌンシアーダの丘の住宅地とサン・フィリッペ城とそれに続くアラビダ山。

 そして北側にパルメラの丘とパルメラ城。

 それらが取り囲むようにしてセトゥーバルの中心市街地がある。

 モンテベロの向こう側の地平線から朝日が真っ赤な頭を覗かせる。日の出だ。

我が家の浴室から撮影した日の出(2024年7月19日6:25撮影)

 点から線になり、まあるい、まるでフライパンに卵を落とした如くぷるぷるっとした楕円形になり、そして全体が姿を現す。一瞬だ。

 まるで日の丸の如く真っ赤な時もあるし、プラチナ色に輝いている時もある。そして黄金色に燃えさかって、もう直視できない時もある。日によってそれも様々なのだ。

 別に宗教的な気持ちはないのだが、思わず拝みたくなる。

 それも二拝二拍手一拝をきちんとして、ごにょごにょと願い事を唱えたりする。

 真っ先に朝日が当たる我が家をことのほか気に入ってはいるのだが、アニマルズの『朝日の当たる家』は刑務所とか少年院を歌った歌だったのだ。それもアニマルズが最初ではなく、アメリカで古くから『Rising Sun Blues』として、歌われ続けてきた歌なのだ。

 男が歌えば刑務所か少年院として歌われ、女性が歌えばそれは娼館となる。

 

The House of the Rising Sun』The Animals

There is a house in New Orleans They call the Rising Sun

And it's been the ruin of many a poor boy

And God, I know I'm one

My mother was a tailor

She sewed my new blue jeans

My father was a gamblin' man

Down in New Orleans

Now the only thing a gambler needs

Is a suitcase and trunk

And the only time he'll be satisfied

Is when he's all drunk

Oh, mother, tell your children

Not to do what I have done

Spend your lives in sin and misery

In the House of the Rising Sun

Well, I got one foot on the platform

The other foot on the train

I'm goin' back to New Orleans

To wear that ball and chain

Well, there is a house in New Orleans

They call the Rising Sun

And it's been the ruin of many a poor boy

And God, I know I'm one

 

 高田渡は曲調を変え独自の節回しで歌っている。

朝日楼』詩・曲:高田渡

ニューオリンズに女郎屋がある、人呼んで朝日楼、

たくさんの女が身を崩す、そうさあたいもその一人。

母ちゃんの云うこときいてたら、今頃は普通の女、

それが若気のいたりで、博打打に騙された。

あたいの母ちゃん仕立て屋で、ブルージンなんかをこしらえる、

あたいのいい人吞み助さ、ニューオリンズで飲んだくれ。

呑み助に必要なものは、スーツケースとトランクだけ、

あの人の機嫌のいいのは、酔っ払っている時だけさ。

グラスに酒を一杯にし、じゃんじゃん飲みまわす、

この世で一番の楽しみは旅に出ることさ。

可愛い妹に云っとくれ、あたいの真似するなと、

ニューオリンズに近寄るな、あの朝日楼へ。

妹に後ろ髪を引かれ、汽車に乗ってくあたい、

ニューオリンズへ帰っていく、あの囚人の暮しに。

ニューオリンズへ帰ろう、命ももう尽きる、

帰って余生を送ろか、あの朝日楼で。

ニューオリンズへ帰ろう、朝日がもう昇る、

帰って余生を送ろか、あの朝日楼で。

 

 そして、決して囚人の暮しではなかった、この『朝日の当たる家』で30年余りを暮らした我々は、あと2か月足らずでお別れをしなければならない。

武本比登志

 

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213. 中島先生、『にっぽん』と『にほん』はどちらが正しいのですか? professor Nakajima. O que é correto, “Nippon” ou “Nihon”?

2024-07-01 | 独言(ひとりごと)

 笑福亭鶴瓶に『青木先生』という新作落語がある。母校、高校の先生を話題にした落語だ。

 生徒が授業中に、先生に愛憎を込めていわゆる大阪弁でいう『おちょくる』という行為なのだろうと思う。

 残念ながら僕は青木先生の授業は受けていない。でも僕が在校中も居られたはずだ。

武本比登志油彩と本文とは関係ありません。

 僕は笑福亭鶴瓶より5歳程年上、面識はないが、僕の方が先輩にあたる。ほぼ同世代、同じ高校、浪速高校、通称『浪高』に通っていた。青木先生は国語の先生だ。比較的マンモス高だったので国語の先生も沢山居られた。

 国語で僕が習ったのは長野先生、中島先生などが居られたが国語でも現代国語と古文などもあって、どちらがどちらか覚えていない。長野先生は3年生の時の担任で僕は個人的にもご迷惑をおかけした思い出がある。

 青木先生は戦後間もなく昭和22年の、お若い頃から浪高に居られた様だが、笑福亭鶴瓶の居た頃には70歳近いご高齢になっておられて、その事がおちょくる題材になっている訳だけれど、母校にはご高齢の先生が多く居られた。長野先生も中島先生も何処か他の学校を定年退職されてから浪高に再就職を求めて入られたのかもしれないが、そういった先生が多く居られた。

 長野先生は先生の有志を集められて俳句の同好会などもやっておられて、授業も担任も受け持っておられたのだが、学校ライフを楽しんで居られる雰囲気もあり温和な先生であった。

 中島先生もご高齢の国語の先生だが大阪府下の田舎の町で町会議員もしておられたという噂もあった。いや、噂だけではなくいつも背広の胸には町会議員の金バッチが光っていた。

 その僕たちの時代には中島先生がおちょくる対象になった。

 「中島先生、ニッポンとニホンはどちらが正しいのですか?」などと通常の授業に飽き飽きした生徒が質問をする。中島先生は得意になって「そりゃあ、ニッポンと言わなきゃあかん。ジャパンは蔑んだ言い方だ。」などと答える。ニッポンとニホンという質問の筈なのに、ニホンはどこかに飛んでしまってジャパンに置き換わっているのだ。それを延々と1時間でも得意になって話し続ける。それが面白くて次の授業でも同じ質問をするのだ。又、得意になってニッポンとジャパンの話を延々と話し続ける。その話は他のクラスにも伝播する。

 それが何回か続くと「えっ、その話はこのクラスでは前にしなかったか?」などと、町会議員がにやっと笑われようやく気が付かれる。その先生の綽名は『ウイッシュボン』であった。

 その頃、テレビでやっていた『ローハイド』のウイッシュボンに感じが似ていたからだ。ウイッシュボンは西部劇ローハイドの炊事係でカウボーイたちから慕われる叔父さんだが若いカウボーイたちからおちょくられる対象になっていた。

 ウイッシュボン先生が言われていた「ジャパンは蔑んだ言い方。」と言うのは正しくないのだと思う。

 ジャパンを検索してみると、中国語のjih pun(日本)(読みは「ジープン」)に由来し、文字通り「日の出」「日出ずる国」を意味し、日本語のNippon(日本)と同義なのだ。 この中国語は、jih(日)(「日」の意味)とpun(本)(「起源」の意味)が合わさった言葉で、もともと中国の南方の人は「ニッポン」に近い発音をしていた。

 そこから、シナの商人たちがポルトガルの船乗りに言い移しで伝えたのが、ポルトガル語のJapão(ジャパン)となり、スペイン語のJapon(ハポン)になる。 そして、フランス語のJapon(ジャポン)や英語のJapan(ジャパン)につながったという説。 ジープン或いはニッポンという発音が、違う言語の間で訛っていき、ジャパンにたどり着いたということなのだ。

 マルコ・ポーロが東方見聞録の中で日本のことをZipangu=ジパングと言い表している。彼は日本を訪れたことがないため、ジパングは全て想像と伝聞によって作られた。 彼に日本の話を伝えた人物は中国の商人だった。 かつて日本は中国との交易で、支払いに砂金を使っていたという説もある。現在はイタリア語で日本はGiappone(ジャポーネ)となる。(Wikipediaより)

 未だ日本国内で国の名前が確立されていない時代に、中国からはジープン(日出ずる国)と呼ばれていたと言うことになる。今では日本(リーベン)だが、ジャパンは決して蔑んだ国名ではないと言うことになる。

 太平洋戦争時代を描いたアメリカ映画にはよく「Jap=ジャップ」という文言が出てくるが、それは少々蔑んだ言い方なのかもしれない。「日本人野郎」と訳せるのだろうと思う。

 一方、ニッポンとニホンであるが、結果から言うとどちらでもよいのだろう。「にほん」という呼び方はせっかちな江戸っ子たちの早口によって生まれたとされ、「にっぽん」が「にほん」と簡略化されたという見方もある。

 只、単独でいう場合は「ニッポン」で、熟語で使う場合は「ニホン」が使いやすい様な気がする。「ニホンゴ=日本語」「ニホンジン=日本人」「ニホンショク=日本食」「ニホンガミ=日本髪」「ニホントウ=日本刀」「ニホンアルプス=日本アルプス」「ニホンカイ=日本海」「ニホンシュ=日本酒」「ニホンガ=日本画」「ニホンエイガ=日本映画」「ニホンケンチク=日本建築」「ニホンジカン=日本時間」「ニホンタイシカン=日本大使館」「ニホンシャ=日本車」等だが、勿論、「ニッポンシャ」といっても「ニッポンゴ」といっても差し支えないのだと思う。「日本晴れ」の場合は、「ニッポンバレ」の方が「ニホンバレ」よりいっそう晴れ渡っている感じがしないでもない。それに「ニッポンギンコウ=日本銀行」もニッポンギンコウだろうか、いや、どちらでもよい。僕には縁がない。

 日本食は和食ともいうが、日本の服、着物はニホンフクとは言わないで和服と言うし、日本の紙は和紙と言う。辞典も和英、英和などと言って英日、日英とは言わない。

 東京は「日本橋=ニホンバシ」だが大阪では「日本橋=ニッポンバシ」という。

 僕にとって大阪の日本橋は橋のイメージは全くなく、日本を代表する街というイメージも全くなくて、ただ単に猥雑な電気屋街と言うイメージだ。昔は小さな多くの電気部品専門店に混ざって古道具屋も多くあった。西岡たかしさんはそこで古い壊れたヨーロッパ製のオートハープを買われた。それをご自身で修理をされ使っておられたが、「遠い世界に」のレコーディングにも使われている。僕も古いフラットマンドリンを買ったが、使わないまま今も埃をかぶって眠っている。その古道具屋でSPレコードも買った。アインシュタインのバッハのハープシコード演奏で絹貼りの10枚組アルバムだ。たぶん、今では貴重なものだと思う。

2024年夏至の頃のセトゥーバルの日の出(我が家のベランダから6:10撮影)

 今年はオリンピックの年だそうだが、何か盛り上がりに欠ける。

 オリンピックの応援で「ニッポン、チャチャチャ。ニッポン、チャチャチャ。」は勢いがつくが「ニホン、チャチャチャ」では何とも締まらない。VIT

 

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212. せんぬき先生 Abridor de garrafa

2024-06-01 | 独言(ひとりごと)

 最近のアメリカ映画などを見ていても瓶のビールは捩じって開けている様で、センヌキはもはや使ってはいない。日本でもポルトガルでも瓶のビールには昔ながらのセンヌキは今でも使う。尤も日本では瓶ビールより缶ビールが主流で、瓶ビールはお店などでは使われているが家庭ではやはり手軽な缶ビールなのだろう。アルミ缶ならリサイクル箱に捨てるだけで済むがビールの瓶を返すには手間がかかる。

 ポルトガルのスーパーで売られている1リッターのビール瓶はワインの瓶と同様、ガラスのリサイクル容器に捨てるようになっていて、蓋も捩じり式で繰り返し栓が出来る様になっている。だからその様なものが主流になり、時代と共にセンヌキなるものの存在はなくなってしまうのかもしれない。

 僕は昔、1965年、東京オリンピックの翌年だったと思う。東京国分寺駅前のキャバレーでボーイのアルバイトをしていたことがある。お店の名前は『フレンド』。大きなフロアーの真ん中には池と噴水もあった。噴水の上にはミラーボールが回っていて、池の周りはダンスホールになっていた。その周囲に多くのボックス席があり、ホステスさんに取り囲まれるように男性客がいた。

 ボーイは3~4人いたが、間隔を空けて、そのボックス席から少し離れたところで突っ立っている。突っ立っているだけの仕事だ。右手にはセンヌキを持って突っ立っているだけ。何の変哲もないセンヌキだ。時折、ホステスさんから呼ばれる。「ボーイさ~ん」などと呼ばれる。つつつとボックス席に近付く。ホステスさんは「ボーイさん、おビール1本お願い」などと注文をする。ボーイはバーカウンターからビール瓶を持って来て、ボックス席の前で、勢いよくビールの栓を開けるのだ。「シュッパァ~ン」という景気の良い音を鳴らす。それが腕の見せ所でもあった。左手にタオルを持ちよく冷えたビール瓶をそれに包んで胸の高さまで持ち上げる。センヌキを持った右手は腰より下。1メートル程も離れたビールの栓に一直線にヒットさせ景気の良い音をお店中に鳴り響かせなければならないのだ。

 岡山に内山工業という明治半ばに創業の古くからの企業がある。何でも創業当時はビールの王冠製造から始まったらしい。王冠の裏にはコルクが使われていた。僕が子供の頃にも王冠の裏にはコルクが張られていた。そのコルクを剥がし、王冠をシャツなどに貼り付け裏に再びコルクを付けて遊んだりもしたものだ。そのコルクを調達するために内山工業はポルトガル北部の町ヴィアナ・ド・カステロに工場を作ったのだと思う。その工場は今でもある。尤も今では王冠の裏にはコルクは使われていなくて、樹脂製に代わっているが、ヴィアナ・ド・カステロの工場はそのまま操業は続けられていて、企業としての人気は高い。今では王冠だけではなく製品の広がりも多いそうだがその製品の世界シェアは何と3割にもなると言う優良企業だ。

 僕が最も尊敬する恩師が『センヌキ』先生と言う渾名だった。外見と内実の両方がうまく合致した渾名で、誰が付けたのかは知らないが実に巧く付けたものだと感心していた。外見は少々出っ歯で、そこからも由来しているのだが、何事にも先ず率先してやってみると言う性格もあって、先ず扉を、栓を開けてくれる、何でも出来る人でもあった。

 美術部では不定期に機関誌『NACK』というのが作られていて、その冒頭部分に『A Cup Opener』というコーナーがあり、気の利いた文体に、レイアウトとイラストがお洒落で、ご自身でもセンヌキという渾名は気に入られていた様だ。『NACK』のロゴマークはアルファベットを組み合わせて横に倒すとピカソの牛の頭蓋骨になる。

 僕たちの美術部の顧問ではあったが、美術部以外にも山岳部とラグビー部も兼務しておられた。兼務と言っても只名前だけの顧問ではなく、生徒と一緒に山にも登られるし、プロテクターにジャージ姿でラグビーボールを抱えて生徒と一緒になって運動場中を走られる。だからと言ってそれ程身体がデカいわけでもなく、どちらかと言えばやせっぽちで華奢なタイプだ。繊細なのにず太いのだ。ず太く見せようと努力されていたのかもしれない。

 生徒の部活動の顧問以外にも先生同士での俳句の同好会にも参加されていて、独自に俳句に木版画をドッキングされて面白い表現をされていて、それが出版社の目に留まり1冊の素晴らしい本にもなっている。俳句・俳句版画集『蛍雪の窓』藤井 水草両 著

 僕はこの恩師と出会うことによって僕自身が知らず知らず随分と変わっていったのだろうと思う。その頃の母の口癖は「藤井先生のお陰や」だった。そのセンヌキ先生の本名は藤井満先生と言われる。

 僕は戦後間もない食糧難の時代にこの世に生を受けた。出産の付き添いに福岡県遠賀郡からわざわざ大阪まで母の姉、僕からすれば叔母さんが手伝いに来て下さった。夜行の蒸気機関車に揺られて。その間には途中、広島の惨状なども目にされてのことだった。

 僕は何とか無事に生まれた。でも叔母さんの第一声は「この子は生きられんよ」だったらしい。鳴き声も弱弱しく、痩せっぽちで目と鼻と口だけが大きくてとても異形であったらしい。

 でも生を受けてからは母の胸にしがみつき母乳をむさぼり飲んだのだと言う。その結果、母も僕もカルシューム不足は慢性的な事態になってしまい、共倒れも懸念された。僕はその頃から『和田カルシューム』という栄養補助剤が手放せなくなっていたし、ビタミンなどのいろいろな栄養剤を常用しなければならないほどであった。僕の子供の頃は酷いアレルギー体質で、身体中に蕁麻疹が出て、いつも四谷怪談の『お岩さん』状態だったし、喘息気味で、おまけに骨折はしょっちゅうで、怪我などをしてもなかなか血が止まらなかった。近くにあった『淀井病院』の常連患者だったが、お医者様は「中学生くらいになれば自然に良くなりますよ。」と言って頂いていたが、中学生になってもお医者様が言われた様にはゆかなかった。それが高校生になって美術部に入って、母に言わせると見違えるような変化が起きた。と言うのだ。「この子は生きられんよ」と言われた子供がまがりなりにでも高校生にまでなったのだから。そして高校美術部の顧問「藤井先生のお陰」という訳である。

 それから今までの実に長い人生でその時からの、センヌキ先生を含めた仲間たちは人生の支えになっていった。

 幾つかのセンヌキが手元に残されているのだが、もはや開けるべきものは何もない。

 何処の家庭でも台所の引き出しには2個や3個のセンヌキが転がっている。でもあと数十年もすれば「はて、この道具は何に使うものなのだろう?」などと言われる日がやってくるのかもしれない。武本比登志

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