武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

219. 犬と猫と観葉植物、そして蟹と鼠も Cães, gatos, plantas domésticas e até caranguejos e ratos.

2025-03-01 | 独言(ひとりごと)

武本比登志の油彩F30(画像と文章は関係がありません)

 ポルトガルに居ても、日本で個展をするために、毎年2~3か月は帰国をしていたし、国内外の旅行も多かったので、とても犬や猫を飼うことが出来ると言う環境ではなかった。いや、犬や猫だけではなく観葉植物などでさえ育てることは出来なかった。

 ポルトガルでの34年間はそういったものから無縁の生活であったのだ。

 MUZなどは、ポルトガルで他人が犬の散歩をさせているのを見ながら「いいな~。羨ましいな~」などといつも言っていた。

 住んでいたマンションのお向かいのローマンさんの家では2頭の小型犬を飼っていたし、わが家の二つ下のジョアキムさんの家でも猫を飼っていた。その猫は時折廊下で自由にさせていたものだから、隙あらば我が家に入り込もうとしたりしていた。猫が好む匂いがしていたのかも知れない。

 海外に住んでいても最初のスウェーデンの終盤では我が家でも猫を飼っていた。

 スウェーデン人の友人の友人宅で猫が生まれたのでいらないか?と言われたとのことでMUZが貰って来て、飼ってみたのだが、猫を飼ったのはその時の1度だけだ。

 グレーの雉猫で未だ子猫だったが『次郎吉』と名付けた。我々は2人とも外で仕事をしていたものだから殆どは次郎吉1匹が家で留守番だ。仕事から家に帰って鍵を開けようとすると、遠くの部屋から、たたた、たたたっと玄関に走って来る可愛い足音が聞こえる。余程寂しかったに違いない。

 それでも散歩に連れ出したこともないし、家の中だけで飼っていた。スウェーデンでは猫に猫用のリードを付けて散歩をしている姿をよく見かけたし、ウサギでもその様にしていたのを時折見かけた。

 建物は大きなマンションの学生寮で我が家は確か4階だったと記憶している。学生寮と言っても、日本では考えられない夫婦や子供の居る家族用で、階下には住民なら自由に使える、卓球場や共同ランドリーやサウナもあった。

 次郎吉は4階のベランダの手すりに乗って外を眺めるのが好きだった。猫と言へども落ちたりしたらひとたまりもない。危険だから止めさせようとしたが、次郎吉は聞かなかった。

 そしてある日、案の定転落してしまった。見当たらないので下を見ると植込みのところでうずくまっていた。足の骨を折ってしまったのだ。

 動物病院へ連れて行き治療をして貰った。ギブスを嵌められ頭にはプラスティックのバケツの底を抜いた様なものが被せられた。次郎吉は情けない顔をしていた。何度か病院へ通って完治した。

 スカンジナビア半島の最北端ノードカップまで旅行した。クルマだから次郎吉を連れて行っても良いかなと思ったが、日本人の友人が留守番をしてくれると言うことになったのでお願いをした。次郎吉の餌やりと観葉植物の水遣りである。

 ノードカップから帰って来ると次郎吉は居なかった。再び4階のベランダから遁走したのである。僕たちが出発して間もなくのことであったらしい。友人はあちこち探し回ったとのことであるが、見つからなかった。

 宮崎の我が家のお隣でも猫を飼っている。たいていは自由にさせている様で、わが家の敷地内にも入ってくる様だし、目の前を横切ったりもするが、ある程度の距離をとって、近づこうとはしない。僕に警戒心を持っている顔つきだ。

 ポルトガルに住む前の宮崎では大きな敷地に住んでいて、複数の犬を飼っていた。ポメラニアンの老犬『メリーさん』も居たし、どこからかやって来た雑種犬がたくさんの子犬を生んだ。雄たちは皆引き取られていったのだが、雌1頭が残った。黒白茶色の三毛だから犬なのだけれど『ミケーニャ』と名付けた。紀州犬の雑種も何処からか来て居ついていた。白かったので『ブランコ』と呼んだ。

 徳島の友人宅で血統書付きの柴犬に子犬が産まれて、そのうちの1頭だけ貰い手がなかったそうで僕が貰うことにした。僕がメリーさんを散歩させているのを見て、その友人は「似合わない」と笑って柴犬を勧めた。クルマで大阪からの帰り徳島に寄って陸路とフェリーの長旅をして連れて帰った。長旅でクルマに酔ったらしくて、宮崎に着いても寝てばかりであったので『スリーピー』と名付けた。

 『アギラ』と呼んでいた猟犬も居たこともある。メリーさん以外は全てMUZが名付け親であった

 『アギラ』はある日、繋いでいた鎖から居なくなっていた。元の飼い主が連れて行ったのかも知れない。『メリーさん』と『スリーピー』は寿命を全うし、僕の手で埋葬をした。『ブランコ』はポルトガル移住を決めてから、鶏舎の番犬にと友人が引き取ってくれた。『ミケーニャ』は僕たちがポルトガルへ移住するのを察知してか、その寸前に姿を消した。不思議なことが多い犬であった。どれも家族の一員で思い出は深い。

 34年間のポルトガル暮しを終え、もう宮崎に定住なのだから、猫でも犬でも飼おうと思えば飼うことはできる。

 でも何だか他人が犬の散歩をしているのを見ても、羨ましいとも思わないし、MUZも飼いたいとは今のところ言わない。

 猫や犬どころか、観葉植物を育てたいとも言わないし、大淀川の河川敷を散歩の途中、蟹の姿を見つけては、それだけで満足している様にも思う。

 お隣の猫が一定の距離をとり目の前を横切って、僕に対して警戒心露わに睨みつけて過ぎ去っていくのを、僕は心の中で「ネズミを獲れよ~」などと言いながら、楽しんで睨み返している。VIT

 

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218. 年号 nome da época 

2025-02-01 | 独言(ひとりごと)

 年号が令和となって7年目だそうだ。早過ぎる。歳をとる筈だ。

 『令和』と年号が改められた時、7年前は一時帰国中であった。

 「本日、12:00より菅官房長官が新しい年号を発表します」とニュースが伝えていた。2019年4月1日だったと思う。コロナ禍(COVID19)より前だ。

「武本比登志油彩」画像と本文は関係ありません。

 一時帰国中の楽しみとしての温泉。その温泉行きのバス、宮交シティ12:35発に乗るために自宅は11:35頃に出発したので、菅官房長官の発表は見ることが出来なかった。

 青島自然休養村センター『このはなの湯』に着いて先ず食堂に入り、豚ロースの生姜焼き定食を2つ注文した。食堂には大画面のテレビがある。生姜焼き定食を注文しながら食堂の小母さんに「年号は何となりましたか?」と尋ねた。小母さんは「レイワ」と応えられた。「どんな字ですか」とも聞いた。「ゼロの令に昭和の和です」とのことだった。ほんの先日のことのように思うが、あれから7年である。

 平成31年(2019)5月1日から元号が令和となり、平成という一つの時代に終止符が打たれた。天皇ご自身のご希望での生前退位で天皇は上皇となられ、美智子さまは上皇后となられた。

 その頃にはもうポルトガルに戻っていた。

 平成は31年までであるから、平成の殆どをポルトガルで暮らしたことになる。

 海外に居る時には西暦は判るのだが、和暦がなかなか判らなくて、ネットなどでわざわざ調べたりもしていた。

 一時帰国中に何かに書き込む時、和暦で書かなければならないことが多くある。いちいち尋ねなければならなかった。

 海外に住み始めてからは、丁度、年末年始頃に日本に居なければカレンダーがなかなか手に入らなくて不便をしていた。ポルトガルでは露店市などでも売られてはいるが、お粗末なものが殆どでわざわざ買う気もしなかった。

 高校美術部の同級生が人気のイラストレーターをやっていて、繊維企業、電力会社、銀行などのカレンダーに毎年のように使われていて本人からポルトガルまで送ってくれたことも何度かある。

 でもそんなカレンダーには勿体なくてメモなどを書き込むことが出来ない。同級生の作品なのだから。

 ポルトガルには無料で頂けるカレンダーなどは日本の様には作られていないような気がする。いや、年末頃に中華レストランにでも行けば、もらえることも何回かあった。でも見難い物が多かったし、メモなど書き込むことも出来ない変に凝った物もあった。

 それで毎年、手書きのカレンダーを作って使っていた。

 昨年、後半に作ったカレンダーは何だか変なのだが暫くは自分でも気が付かなかった。予定を書き込むのに辻褄があわないのだ。よくよく見てみると1週間が6日になっていたのだ。余程慌てて作ったのだ。

 そういえば、もう50年以上も昔の話になってしまうが、西岡たかしさんのお宅にたびたびお邪魔していた。西岡たかしさんの仕事場には水彩で描かれた、西岡さんお手製のカレンダーが壁に貼られていて「いいな」と感心していた。今でもその色彩、温かみのある筆使いなどを鮮明に憶えている。

 50年以上も経ってそれを真似たわけではないが、僕の場合は仕方なく手書きしたのだ。

 昨秋、34年間暮らしたポルトガルから2024年の9月に引き揚げ帰国を果たした。

 久しぶりに過ごす日本での年末年始だ。

 今年のカレンダーは100均でも買っていたのだが、その他にもたっぷりと手に入った。

 寝室にも、パソコンルームにも、食堂にもアトリエにも廊下にも玄関ドアにも貼っている。

 今時のカレンダーには親切に西暦と和暦が併記されている。2025年と令和7年の他に昭和100年と平成37年などと併記されているカレンダーも複数あった。

 和暦年号は『大化』から『平成』までで247個。『令和』は248個目だそうである。

 始まった頃には1~2年。或いは4~5年で目まぐるしく年号が替わっている。江戸時代までは生前退位が普通に行われていたらしい。

 何しろ248個であるから、殆どの年号は知らない。

 最初は飛鳥時代の『大化』(645~650)。

 日本で初めて貨幣が作られた、和銅開珎の『和同』(708~715)。

 天正遣欧少年使節団がポルトガル経由でローマ法王謁見に出発したのが天正10年で、『天正』は(1573~1593)。戻って来たのは天正18年であった。

 関ヶ原の戦いがあった、『慶長』(1596~1615)。

 島原の乱の、『寛永』(1624~1645)。

 そして『元禄』(1688~1704)『享保』(1716~1736)『文久』(1861~1864)『元治』(1864~1865)『慶応』(1865~1868)などと続き。

 『明治』(1868~1912)、『大正』(1912~1926)。

 『昭和』(1926年12月25日~1989年1月7日)。『平成』(1989年1月8日~2019年4月30日)。そして『令和』となる。

 日本の元号のうち最長は62年間使われた『昭和』。次いで40年以上続いた『明治』。室町時代に30年以上続いた『応永』、そして『平成』は4番目の長さだそうだ。

 僕が未だ小学生の低学年の頃、昭和30年頃の話だが、クラスメートが言っていた言葉を思い出している。

 「昭和の次は何となるか知ってるか?『平和』やど。」とそのクラスメートは得意げに話していた。僕たちは「そんな直接的な年号にはならへんやろ」と返していた。

 それから70年程の年月が経過したことになる。

 実際には昭和の次は『平成』となり、その次は『令和』となった。

 やはり『平和』とはならなかったが、平成と令和の一文字ずつを取ると『平和』となるではないか。

 小学生低学年の頃、そのクラスメートが言っていたのは当たらずとも遠からず。であるかな?。

 

 

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217. お散歩途中の収穫物 Colheita durante a caminhada. 

2025-01-01 | 独言(ひとりごと)

 明けましておめでとうございます。

 ポルトガルでは運動不足解消のため毎週日曜日に開かれる露店市歩きを楽しんでいた。

『武本比登志油彩作品F30』本文とは関係ありません。

 絨毯通り。工具通り。靴屋通り。衣類通り。家具通り。生地屋。帽子屋。バッグ屋。アクセサリー屋。荒物屋。それにチーズ屋。バカラウ屋。八百屋。パン屋。飴屋。アーモンドやクルミなどのナッツ屋。カセット屋。カナリアやインコなど観賞用の鳥。鶏、アヒル、七面鳥など食用の鳥。それらの鳥の雛。ペットとしてのウサギ。食用のウサギ。観葉植物や花の苗。野菜の苗などなど。珍しいのはワインを仕込む道具屋。アグアデンテ(蒸留酒)を仕込む道具屋。蜂蜜の道具屋。それに馬具屋と何でも揃う。何も買う当てもないのだが、見て歩くだけでも2~3時間は歩くことになり、知らず知らずに運動になる。

 第1日曜日はアゼイタオン。第2はピニャル・ノヴォ。第3はコイナ。そして第4はモイタで全てセトゥーバル半島内。数えたことも聞いたこともないが、300店舗程はあるだろうか。出店している人はほぼ同じだが、少しずつは変化もあり飽きることはなかった。

 食堂も沢山が出ていて、フランゴ(鶏)の炭火焼きかエントレメアーダ(豚の三枚肉)のサンドイッチ。たまにはショコフリット(大モンゴイカの唐揚げ)そして具沢山のソッパ(スープ)。露店市の昼食も楽しみのひとつだった。馴染みの店のジョアンはいろいろと親切にしてくれた。

 日本に帰って来て、残念ながら露店市歩きはない。

 運動不足解消には歩くことが一番だと思っている。近くのスーパーまで歩いて行っても距離は知れているのであまり運動にはならない。

 我が家から大淀川の河川敷迄3分の距離だ。3分の距離だがその河川敷が広い。そこを歩けば運動にはなる。河川敷には6面ほどのソフトボール場。やはり6面ほどのサッカー場。それにゲートボール場などもある広い河川敷だ。

河川敷サッカー場と『赤江大橋』の橋桁

 夕方には少年野球チームや少年少女サッカーチームたちが本格的なユニフォームを着て練習をする。指導者もいる。友だち同士で自転車を漕いで来る少年少女も居るが、駐車場もあり父兄たちが送り迎えもする。ずいぶん遠くからもやってくる様だ。練習だけではなく試合が行われることもある。

 野球やサッカーだけではなく、勿論、1人でもくもくとジョギングをやっている人も居るし、しっかり手を振って大股で歩くことをしている人。犬の散歩の人も居る。本格的な格好ではなくてもボール蹴り楽しんでいる親子。凧揚げを楽しんでいる家族。水際では釣りを楽しんでいる人も居る。思い思いに河川敷を利用しているようだが、ゴルフとスケボー、そしてバーベキューは禁止だそうだ。

 川にはたぶんボラだろうと思うが大小沢山の魚影が見える。蟹の姿もある。MUZは捕まえたそうにしている。味噌が詰まっていそうだ。

 今の時期はカイツブリや様々な鴨、そしてバン。カモメも居るし鵜も居る。

鵜が群れて杭に並んでいる。

 ベンチもあり日向ぼっこでも気持ちが良いが、そこを我々も歩くことにした。ゆっくりだ。こんな寒い時期でも花が咲いていたりする。名前は知らない。季節外れのスミレも咲いている。

無残にも踏まれた浜大根の葉

 野生の大根、浜大根が葉を広げている。歩道沿いのは無残にも踏まれていたりするが、それでも枯れたりはしない。春には大きく成長して、淡い桃色から白色の花を可憐に咲かせているのを毎年見ていた。

これは2011年3月大淀川河川敷で撮影の浜大根の群生

浜大根の花

 今の時期には花はないが少しばかり芽を出しているといった状態だ。散歩の途中、抜いてみた。土が柔らかいので簡単に抜くことが出来る。小さな大根が付いている。せっかく抜いたのだから持ち帰った。

 持ち帰ってきれいに洗って一晩干し、糠漬けにしてみた。

 帰国して1か月程した頃から糠漬けを作りだした。近くの『まえだストア』で糠が売られていたからだ。

 僕は若い頃から糠漬けは作っていた。いや、切らしたことがない。

 東京で18歳時の浪人中一人暮らしで自炊をしていた。共同の台所で糠漬けも作った。種糠は大阪から母が持たせてくれた。

 結婚後、ストックホルムに暮らした時にも糠漬けを作った。尤も糠は手に入らなかったので、パンの耳などで代用した。上手く出来た。

 海外に住んでいると、日本では決してやらないことまでもやりたくなるものだ。

 例えば『豆腐造り』『味噌作り』『納豆作り』『魚醤油作り』、イカのげそとワタ(内臓)で『塩辛』を作ったり、魚を磨り潰して『はんぺんてんぷら』に挑戦したりもしたし、梅の代わりにプラムを使っての『梅干し』を作った。プランターで紫蘇も育てた。

 糠漬けはニューヨークでも作った。調理師の専門家から「旨く出来ている」と褒めてもらったこともある。

 勿論、ポルトガルではずっと作っていた。パンの耳での糠漬けだ。

 帰国して本当に久しぶり、何十年ぶり、本物の糠を使っての糠漬けである。ようやく塩が馴染みはじめたところだ。

 それに大淀川の河川敷で引っこ抜いて来た野生の大根苗を漬けてみた。

浜大根の古漬け

 浅漬けではなく、古漬け気味迄漬け込んでみた。

 葉っぱも根っこも小さく刻んで、玄米ご飯に混ぜて食べた。旨い。

玄米ご飯に浜大根の菜飯

 玄米ご飯に納豆を掛け、生卵を落とし、小さく刻んだ古漬け浜大根菜を混ぜた。これも旨い。

玄米ご飯に納豆卵掛け菜飯

 このところ野菜が値上がりして糠漬け用までは回らない。どうしても未だポルトガルの値段と比較してしまうが野菜、果物の高いのに驚く。いや、野菜、果物だけではなく、肉、魚、米、タマゴ、牛乳、電気、ガス、水道など全ての物価が高い。

 散歩の途中、無料の浜大根を毎日1本ずつ引っこ抜いてくることに嵌ってしまいそうだ。VIT

 

ハマダイコン(浜大根、学名: Raphanus sativus var. hortensis f. raphanistroides)アブラナ科ダイコン属の越年草。別名、ホソダイコン、ノダイコン、イソダイコンともよばれる。中国名は藍花子。野菜のダイコンよりも葉や根は硬く、強い辛味と香りを有し、同様に食用にすることができる。ビタミンCや食物繊維が豊富に含まれ、カリウムやカルシウムのミネラルも豊富に含まれていて、消化作用があり、胸やけに薬効があると言われている。(Wikipediaより)

 

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216. 宮崎で始動 Começou em Miyazaki.

2024-12-01 | 独言(ひとりごと)

 11月26日にようやくインターネットが繋がりました。ポルトガルを引き上げたのが9月24日。それからの2か月間は何となくボケっと過ごしていた様な、忙しく過ごしていた様な、地に足が着いていなかった様な、訳の分からない夢の様な時期を過ごしていた様な、でも夢ではなく現実。その間、帰国後1か月が過ぎたところではたと思いつき、友人知人たちに帰国報告のハガキをお送りしました。宛名不明で戻って来たのも10通ほどがありました。ここにその文面を書いてみたいと思います。

 『ご無沙汰しております。お元気ですか。当方は二人ともなんとかやっています。実はこの2024年9月24日に帰国しました。1990年9月16日から暮らしたポルトガルから引き揚げ完全帰国を果たしました。もうポルトガルには戻りません。

 ポルトガルに移住した1990年当初には5年も住めれば良いかなと思っていましたが、5年が10年、10年が20年、気が付けば34年です。

 10年ほど住んだ頃から70歳くらいになれば帰国しようかなとは漠然と思い始めていましたが、その帰国をするべき頃からコロナ禍でした。でもコロナ禍で自宅に閉じ籠りの生活に実は快適さを感じていましたし、私たちが老人と言われる世代の仲間入りをしたのと同時にコロナ禍でのセトゥーバルの人々の思いがけぬ親切にも多々触れることにもなり帰国は遠のいた感は否めません。ますますセトゥーバルでの生活が気に入ってしまったのです。

 でも今の年齢を考えると、健康に自分の足で歩けるうちに帰国するのなら今しかないとも考え、一念発起して、急遽帰国の道を選びました。この歳になっての帰国(引っ越し)は想像以上に大変なものでした。そしてそれでも何とか帰って来ました。

 心残りなのはポルトガルでの油彩は完成には至っていませんし、淡彩スケッチのブログも3403景で中断したままです。

 セトゥーバルでの生活と宮崎の生活のあまりにもの違いに戸惑いも感じていますが何とか始動しています。油彩100号も描き始めました。

 34年間のセトゥーバルでの生活で溜りに溜まったゴミは殆どを捨てましたが、それでもどうしても捨てきれないゴミは段ボール箱20個分にもなり、仕方なく船便で送りました。それが1月頃には到着する予定です。狭い宮崎の自宅にどのように収納するのかが今からの課題です。

 今は時差ボケがそのまま慢性化した如く気分ですが、一刻も早く宮崎の気候、気圧に慣れていきたいと思っています。今後とも変わりませぬよう、お付き合いの程をお願い申し上げます。』

 このはがきを郵送してからさらに1か月が過ぎました。宛先不明で戻って来たハガキもありますが、お返事を下さった方もありますし、電話を下さった方も、都城から会いに来てくださった方、そして大阪からわざわざ飛行機に乗って会いに来て下さった方も居て、それぞれ恐縮しています。

 暑すぎる秋を過ごし、急に冬がやって来ました。宮崎にずっとお住いの方も戸惑っておられるようですが、我々にとっては尚更です。インターネットも繋がり、昨日は新車が我が家にやって来ました。でもいまだに、どこからどう手を付けて良いのやら、何だか宇宙遊泳をしているが如く、地に足が着いていません。 武本比登志

 

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215. 完全帰国 Retorno completo ao Japão

2024-09-01 | 独言(ひとりごと)

 そうなんです。完全帰国です。

 今月、2024年9月23日、月曜日、早朝6:15リスボン発ミュンヘン経由羽田行きの便で完全帰国です。そして帰国先は宮崎市内城ケ崎です。

武本比登志油彩「エルヴァスの家並」F20-油彩画像と文章は関係ありません。

 34年前の1990年9月19日、水曜日、モスクワ経由リスボン着。「快晴、安宿からの夕陽と赤瓦の屋根が美しく早く絵を描きたいと思ったものだ。」と書き記しています。その3日後からセトゥーバルに住み始めて34年もの歳月が過ぎてしまいました。

 34年もの歳月ですから、当時、私たちも若かったのです。40歳代の前半でした。

 これ程長く住むとは思いもしなかったのですが、トランク一つでやってきました。

 その前々年にバリ島で買った水牛皮のトランクです。

 最初は1~2年も住めれば良いかな。と思っていました。

 それが、5年が10年、10年が20年。そして34年です。

 絵が描きたくなって、その目的のためにやって来ました。そして猛烈に絵は描きました。

 枚数だけは誰にも引けをとらないと思っています。

 絵を描くことが目的ですから、他には何も考えませんでした。

 ポルトガル語を勉強して世間に溶け込もうなどとは一切思いませんでした。

 それは最初に住んだスウェーデンの教訓からです。

 1971年、未だ20歳代の前半にストックホルムで4年余りを暮しました。

 語学学校に通い、ストックホルム大学でも語学を学びました。予習復習を怠りなく、一生懸命にスウェーデン語を勉強しました。その4年余りは全くのスウェーデン語浸けでした。

 でもストックホルムから一歩離れるとスウェーデン語は殆ど忘れてしまいました。語学の才能が全くないのを身に染みて感じました。でもそれはそれでとても充実した4年半で、私たちの人生において重要な位置を占めていることに違いはありません。

 絵を描きたいと思ってやってきたポルトガルでは最初からポルトガル語を学ぶということは敬遠していました。

 絵を描くことに時間を費やしたいと思ってやって来たのです。ポルトガルにとっては失礼な話ですが、絵だけ描くことが出来ればそれでよいと思っていました。

 そしてその通りにやって来ました。モティーフを求めてポルトガル全国を歩きました。エスキースを描き、それを油彩にしてきました。膨大な数に上りました。

 34年間には、日本全国で数えきれない程の個展を催して頂きました。パリの公募展にもポルトガルをモティーフにした絵を出品してきました。

 34年より以前、ストックホルムからニューヨークに暮らし、ポルトガルに住み始める前は宮崎県の山の中で13年を過ごしました。

 山の中と言っても国道10号線が走っているその沿道でしたが、四季折々、山の美しさを感じることが出来る場所でした。水源林としての照葉樹に覆われた山で、照葉樹の間には野性の山桜、藤、藪椿、そして香り高い白花沈丁花。エビネランの名産地でもありました。

 国道10号線沿いですので長距離トラックも走りますし、宮崎市と都城市の丁度中間でしたのでクルマは多く走っていました。

 でも一旦、クルマが途切れると、猪は庭を横切りますし、山猿の群れが飼い犬にちょっかいを出しに来ます。遠くで鹿の声も耳にしました。アカショウビンは我が家のガラス窓に激突し気絶する姿も2度ほどありましたし、庭を取り巻くせせらぎではカジカガエルがいい喉を聞かせてくれました。季節には蛍の乱舞もありました。

 それはそれでとても気に入ってはいたのですが、ポルトガルに住むと言う段になって、それとは正反対の場所を望んでいました。

 出来ればリゾート地ではない港町。大きすぎず、小さすぎず、生活臭のある庶民的な町。クルマがなくても何でもできる街なか。と漠然と思っていたのです。第1候補にセトゥーバルを考えていました。

 そしてその第1候補地ですぐに部屋が見つかったのです。それも下町の小さな広場に面した、アーチ窓のある、天井の高いレトロな建物で、台所には太ったサンタクロースでも列をなして入って来られそうな大きな煙突が被さっていました。私たちには理想的でした。

 その下町の家で2年間を過ごしました。そして今の丘の上の家に引っ越してきて32年で併せて34年です。住めば都と言いますが、よくぞいいところを選んだものだと思っています。住めば住むほど気に入っていると言っても過言ではありません。

 ポルトガルでの34年を一言では括れません。時代も代わりました。通貨もエスクードからユーロです。スペインとの国境線は1,215キロメートルだそうですが、その検問所は全てなくなりました。趣はなくなった、と思われがちですが、それ以上に便利になりました。

 時代に惑わされず、その時代その時代で最善の選択をして来たつもりです。こうしておけば良かった、などと言う後悔は一切ありません。

 地域に溶け込もうなどとは思っていなかった。ポルトガル語を学ぶことは敬遠していたと言っても地域の人達とのカタコトのポルトガル語での挨拶は怠りませんでした。

 コロナ禍になって、私たちも老人と言われる年齢になって、セトゥーバルの人々の親切を身に染みて感じています。セトゥーバルで良かったなと改めて思います。

 それに天気が良い。高温多湿の日本とは違って、乾燥しているので気温が高くても爽やかなのです。エアコンも要りません。海の見えるところに住みましたので尚更です。

 定年退職後5年間の限定で日本人ご夫妻がリスボン郊外に住んで居られました。5年が来るのを待ち遠しくしておられたのが印象的でしたが、帰国する間際に「天気だけは持って帰りたい」と名言を吐かれました。本当にその通りだと思います。

 我が家は、それに加えて部屋は南向きなので夏は涼しく冬温かい。

 私たちは天気だけではありません。このセトゥーバルの生活を、ここに来て増々気に入っているのです。その一番気に入っている生活を方向転換して完全帰国です。一番いい時に完全帰国です。

 この選択も最善のものになるのだと確信しています。

 あと22日。精々楽しみたいと思っています。

 長い間、本当にありがとうございました。

 と書く前の8月26日未明5:10地震で目が覚めました。震源はセトゥーバル県シネス沖60キロ。シネスのお城の岸壁のところにはヴァスコ・ダ・ガマの立派な銅像が建っています。そして遥か沖合を見晴るかしていますが、その辺りが震源です。マグニチュード5,3。我が家では震度2程度かの横揺れが2秒ほど。恐らくポルトガルに来て初めて?の経験です。幸い物が落ちるなどの被害はありませんでした。

 日本は地震列島。少し前8月8日には日南市で震度6弱の地震。南海トラフとの関連が叫ばれています。ポルトガルの震度2程度などは笑ってしまう。と言う人が居るかもしれませんが、人類史上被害が最も大きかったのは1755年11月1日に起こったリスボン大地震です。津波による死者1万人を含む、5万5,000人から6万2,000人が死亡したと言われています。

 日本列島を襲うのは地震だけではありません。今度は8月28日、台風10号による竜巻と思われる突風が宮崎市の城ケ崎で屋根瓦を飛ばし、多くの家のガラスが割れ、電柱が倒れ電線が垂れ下がり停電の被害をもたらしたと言うニュース。

 宮崎市城ケ崎は私たちの帰国地です。まさにピンポイントのニュースです。

 インタネットのニュースを見ると何やら見覚えのある町並、そして見覚えのある看板。グーグルマップで検索してみると、わが家から直線距離100メートルの赤江大橋南詰め交差点の映像です。

 宮崎の我が家は鉄筋コンクリート2階建てなので風には強いはずですが、窓を広く取っていますのでガラス窓が割れていないかが心配で祈るばかりです。その後、義妹から「窓ガラスは大丈夫でした。外から見える限りでは被害は無かった様だ。」と電話がありました。

 被害は無かったとは言え、そんな災害列島ニッポンにあと22日で完全帰国です。

 それでも宮崎市での今後の生活がどのようなものになるのか、今からが楽しみです。温泉も楽しみなのですが、勿論、絵は描き続けたいと思っています。

武本比登志

 

 実は10年前にも同じような文章を書いています。良かったらご参考までに。

132. 1990 年 9 月 19 日、水曜日から 25 年

 

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