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はじめての哲学

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「黄金の玉座」由来

2017年06月26日 | 旅行
2011年10月18日
インタビュー:尾崎 昌英
編集:高野 義博



1.故宮博物院(紫禁城)所蔵品の分散
 1924 薄儀、紫禁城宮殿から退去
 1925 故宮博物院(北京)、美術品などを一般公開(所蔵品総数117万件超)
 1933 蒋介石の国民政府は、故宮博物院の所蔵品を戦火や日本軍から守るべく、1万3,472箱と64包を上海経由で南京に移送
 1937 日本軍南進に伴い、南京の所蔵品は再び運び出されて四川省(巴県・峨嵋山・楽山の3カ所)に避難
 1945 第二次世界大戦の混乱のため、危惧された所蔵品は重慶を経て南京・北京に戻された
 1948 国共内戦激化に伴い、中華民国政府の形勢不利になり、中華民国政府は故宮博物院から2,972箱の厳選所蔵品を台北へ移送
 故宮博物院の所蔵品は北京と台北に分散したが、一部は、国共内戦後の中華人民共和国建国後の混乱のため北京に戻すことができず、現在も南京博物院の管轄の下南京に保管されている
(出所:Wikipedia)

* 故宮博物院所蔵品は24年間に4回の移動があり、3カ所(北京・台北・南京)に分散した。
* 当時の物資輸送は戦時混乱期特有の管理不十分のまま緊急のうちに行われたので、積み残し、紛失、盗難、払い下げ等、何らかの理由で市中にこぼれた故宮博物院所蔵品は数知れずであったと推察される。
* 1970年前後、オーナーは中国国内の倉庫には由来の不明な梱包されたままの工芸品が数多く眠っていたと申しています。







2.五爪(ゴソウ)の竜


北京北海公園(旧皇帝御園)の九龍壁にある皇帝の象徴の五爪の竜


竜を描く場合、最高位である五爪の竜は中国の皇帝しか使うことが出来なかったという説がある。この説によると、これは中華思想が元にあり、皇帝の威厳を保つ役割もあったとされる[2]。もっとも、この説には反証として例外も多く確認されている。例えば、京都の天龍寺にある天井画の龍は5本爪である。ただし、日本は早くに中華の冊封体制から抜け出していたので、規制を守る必要はなかったという再反論もある。現在はそのような取り決めはなく、自由に描くことができる。 なお、4本爪は貴族、3本爪は士族、2本爪は臣民、1本爪は卑民を守護するとされている。
(出所:Wikipedia)



3.中国倉庫で発見の顛末
オーナー(尾崎)は、日中国交回復(昭和47年・1972年)前後、50回ほど広州等に入り、日本人が目にしたことない螺鈿象嵌等の工芸品を多数日本に持ち帰りました。
当時は、中国建国(1949年)まもない混乱期で、清朝末期の崇高な工芸品が市中に溢れていました。
そんな折、河北コンスの倉庫で、分解されてむき出しで埃を被ったまま分散していた宝座らしきものを発見。早速、買い付け、日本へ持ち帰り、組み立ててみました。
以下が、その復元された玉座です。






4.金沢で金箔作業
平成8年、金沢にて金箔を貼らせました。その折り、作業に当たった金箔職人が洗浄の際、下地に金箔の滓が付着していたとの報告がありました。ここから、推察するに、元々は金箔が貼ってあったものと推察されます。このため世情混乱期に金箔は剥がされたのかもしれません。



5.金箔された玉座




6.黄金の玉座デビュ-



湯島聖堂・大成殿にてデビュー(平成21年)





*連絡先:携帯 090-1060-3332 (尾崎)

童女のようにはしゃいだギリシャ旅行記 Greece travel journal and bubbly as Girl .

2016年04月13日 | 旅行


1997.10.
高野 義博




 1 成田発

・我が家の次男に大船駅まで車で送ってもらって、慌ただしく朝七時七分の成田エキスプレスに乗り込んで成田へ。旅立ちの始まり。

・ヴァージンアトランティック航空VS901便(一〇時五〇分発)で、ツンドラ経由ロンドンへ十三時間の飛行。(トランクの中の百円ライター、X線照射で引っかかる)

・二回の機内食、若いイギリス人女性のサービス、一人一人のTV画面。

・機上からの眺めは地上の人間の活動を惨めなものにする。全ては放下されてあるだけ。縛ることも、秩序立てることも、喜怒哀楽も不要とする。

・ロンドン着、空港施設内で五時間ほどの待ち合わせ。三〇〇〇円をポンドに両替して私はドイツビール、和子は紅茶、頭痛がする由、元気なし。

・パキスタン人の子供に時間を尋ねられる。

・ヴァージンアトランティック航空VS1000便(九時十五分発)で、アテネへ四時間の飛行。軽食の振る舞い。

・到着後、ホテル:クリスティーナへ直行。ともかく、眠い。午前中、睡眠。




 2 アテネからカランバカへの道

・我々の専用バス(ベンツ)にガイドのマリアさんも乗り込んで、まずは昼食へ。

・アクロポリスの丘の南麓、松林ののぞめるところのタベルナ(食堂・レストラン)でギリシャ料理、ムスカ(薄くきったナスを拡げて並べ、その上にオリーブ油で炒めた挽肉を拡げ、ホワイトソースをかけオーブンで焼いたパイ状のディッシュ)と、ウーゾ(かなりきつい地酒、水を加えると白濁する)。田中老人と清水老人と四人同席。清水老人がウーゾの細身のグラス(ギリシャ衣装の男性ラインダンサー達の絵柄)をウェイターに所望。交渉成立、私もいただいた。

・一路、高速道路(日本風の隔離されたそれと違い、一般道路風)でギリシャ内陸部のカランバカへ向けて出立。辺りは日本の盛夏のよう、ただ湿気はまったくなし、風がビュウビュウ吹きまくっている。一〇〇キロ程度のスピードで三五〇キロ走る。

・奇妙な風景だが、原野のようなところに建て掛けのコンクリートの基礎だけの家が無数に目に留まる。資金手当てがついたら、そのうち、次の作業に入る由。完成は何時のことだか、不明とのこと。

・ギリシャはエーゲ海の観光と、内陸部に入るとまったくの農業国。人口の六〇%がアテネに集中。目路の限り見渡せるフラットな畑にはまったく人影が見えない。

・丈の低い綿花畑かオリーブ畑(シルバー色の柳の葉のような樹齢二、三〇〇年がザラという高さ三メーターほどのごつごつした樹)が辺りの風景。やがて、山岳地帯に入り、樹木が絶え、草木が絶え、むき出しの岩山が辺りを領す。

・見渡す限りの荒れ山、目路の限りの荒地の「アッティカの平原」をバスは何ものかから逃げるようにひたすら走り続ける。

・夜半、ホテル:アントニアディス到着。メテオラの奇岩の下、満月、急な冷え込み。

・明け方、方々から「アッティカの雄鶏」の鳴き声で目を覚ます。

・子供たち三人に絵葉書を書き、ホテルに投函を依頼。一〇月一五日に出したのが、帰国後の一〇月二十三日に着信。八日後のことだった。

・世界遺産メテオラをぞろぞろと見学。観光化されて使用できなくなった修道院跡、世俗化と精神の孤高ほど相容れないものはないだろう。民主主義は全てを凡俗に化す。

・和子は出店で何やら購入。店のおばさん(千葉は九十九里海岸の日焼けした漁師のおばさんという感じの人)と抱き合って記念写真!  このころより、和子のテンション高まりつつ……

・我々、二人の大学の専攻は曲がりなりにも「西洋哲学」。各々の二十代の選択の根の国ギリシャに来て思うことは、あれから三〇年の時が経過して、子供を三人育て上げ(内、上の二人が哲学専攻、三番目が我が家の希望の星で経済専攻)、民間会社でまったく哲学離れした生活を送ってきて、何の因縁か、ギリシャ旅行!

・何でギリシャ?  と、人に聞かれて、単なる観光旅行ではないと言ってもらちもない。人に伝えるべきことでもないのだから、黙っておくにこしたことはない。

・私にすれば、テーマを絞りきるのに四〇代を丸々使った仕事が『情緒の力業』に結集し、平成七年に出版できたことで一区切りついたこともあって〈アディオス・フィロソフィ! 〉の総仕上げの旅行でもあった。

・バッテン、日本での垢に塗れた概念となってしまっている〈哲学〉にこそアディオスだが、本来の生まれたての原始〈哲学〉にこそまみえたいということか。




 3 デルフィの丘目指して

・綿工場へ立ち寄り、和子、マットが安いからと荷物になるのに買い込む。織機はブラザーとか大和(大阪のメーカー)あり、さすがに豊田織機はなし。

・メテオラで一番(添乗の小野さん)というタベルナ:KIPOSで食事。大倉さん、杉田夫妻と同席。妻に袖を引かれつつもウーゾとなり、少々酩酊。コスタスさんと三人で記念写真。

・デルフィの丘目指して山岳地帯を二三〇キロ、バスツアー。マリアさんの古代ギリシャ史、又はギリシャ神話の話が大学の講義を聞いているような錯覚に陥る。

・山岳地帯からペロポネソス半島の見渡せる海岸線に出てきて、喫茶店で休憩。燦々と降り注ぐ太陽の白光のなか、見事な濃いピンクのブーゲンビリアの横伸びの大樹。

・バスは山腹を何回となくS字状道路をターンして巨鳥が舞い降りるかのようにデルフィの丘へ到達。

・デルフィの丘からの前方の眺めは、かなたにペロポネス半島との海峡、コリントス湾へ続く峡谷を見下ろすことになる。そして、背後に重量感溢れる巨大な荒々しい岩山がせまり、そこには時間と歴史を堰き止められたままの異様な静寂が貼り付いているかのようであった。

・陽が落ち夕映えの中、とはいえ八時ごろだったと思う、ホテル:ZEUS着。フロントで振り返ればホテルの前に〈ディオニソス〉というタベルナ発見。ディオニソスと言えば、オリンポス山の主神ゼウスの息子で、酒の神! 和子に、店の前で記念写真を一枚撮らせる。店はガラガラ、一〇時過ぎにならないと人は出てこないとか。

・夕食後、ホテルのカウンターで大倉さん、杉田夫妻と落ち合い、メタクサ(ギリシャの最高級ブランデー?)の七つ星を二杯飲む。

・翌日、デルフィの丘で、考古学博物館見学。BCという時代が日本のどの時代なのか、比較して物事を認識するのが常道とすれば、絶対値としてそのものだけを受容する方法もありえるだろうが、当方に準備が出来ていない場合はかすり傷の様にして過ぎ去っていくだけなのだろう。気がつかずに失われているものは無限だ! 知らぬものの総量は計り知れない。また、それでいいのだろう。

・デルフィの遺跡、アポロンの神殿、円形石柱が丘の斜面に立ち、糸杉が寄り添う。中腹に長方形の競技場あり。一頭立ての馬車に乗った戦士たちが砂ぼこりを立ち上げて走り回り、観客の歓声が宙にそのまま張り付いているかのような二〇〇〇年余の静寂。

・港に出て、フェリーでペロポネソス半島に渡り、海岸線を二五〇キロほどコリントスへ向けてまっしぐら。遅い昼食を〈AGAMEMNON〉でスブラキ! 店を出て、タバコを探し回るも見当たらず、人影の見えない奇妙な静謐さ溢れる街路……

・シュリーマンが掘り出したミケーネ遺跡(遺跡の裏山にかかっていた小さな白い雲!)とアガメムノンの墓を見学。〈ライオンの門〉で記念写真。

・帰路、土産物屋にバスごと連れ込まれ、和子は安い宝石を三点ほど購入。(自分用か、誰かに上げるのか?)

・ナフプリオン(ギリシャの元首都)への途上、マリアさん、突然ヘンリー・ミラー(米国の作家)の『マルシーの巨像』(ミラーのギリシャ旅行記)のことを話し出す。ナフプリオンについて書かれているところも、ミラー特有の誇張があるという理解のようであった。同行者に尋ねられて、新潮社からオレンジ色の装丁の翻訳全集が出ていることを囁いた。(帰国後、我が家のその本を手に取り、驚愕。ミラーは一九三九年(私が生まれたのは一九四一年)ギリシャに居たのだし、この日本語の翻訳全集が出版されたのが一九六六年一〇月、私が読んだのが一九六六年十一月、ということは三十年前に読んでいたのだ。ほとんど忘れていた。)

・ナフプリオンのホテル:ディオスコーリに夜遅く到着。今回の旅の最低ランクのホテル。バスタブがなく、洗面所のコーナーに粗末で不潔なシャワー設備あり。学生の集団がチェック・インしたあとは、湯も出なくなった。泊まりだけだと、一四,〇〇〇ドラクマ(七,〇〇〇円)の由、メッセージが扉裏に貼ってある。

・夕食後、杉田夫妻と散歩に出る。他の人たちも表に出ていて店を冷やかしている。値引きを粘って十三万円のブレスレッドを買いし女人あり。夜半十一時ごろであったが、大理石を敷き詰めた広場(小学校の校庭の半分ぐらいの広さで周りに木々が茂り、レストランのテーブルとイスが出ている)で、子供たちが犬とサッカーに興じていた。と、わざわざ言うのも、その犬がサッカーボウルをくわえて逃げ回るので、そうさせまいと子供たちがボウルを回すわけだ。その喧騒の中を、超小型三輪車(電池式か?)を歩行速度程度のスピードで運転して、超然と走り回る五歳ほどの男の子有り。

・同行の大学生に通訳してもらい、五、六人一緒に広場に出ていた店でグリース・コーヒーを所望。ナフプリオンの夜は真夜中になるのに、人々はゆっくり・のんびり、まるで時間など無きがごとくに。……時間は本来止まっているものなのかもしれない。人が勝手に速度を付与しているだけのことであろう。


(以下略)


   

香取飛行場

2016年04月12日 | 旅行

香取飛行場 太平洋戦争末期(昭和18年秋)千葉県の九十九里平野の東北部、干潟八万石の一角に完成した海軍飛行場、香取航空基地(香取飛行場)。



出所:流れ星氏(X字型滑走路)


管理者は少年時代をこの飛行場の南面に住まいし、掩体壕で遊びました。


たまたま調べ物をしていて、下記のサイトに出会いました。

激動の青春時代


ぜひ一度お出かけになってみてください。


豊畑音頭