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はじめての哲学

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抜粋 井筒俊彦 東洋哲学覚書『意識の形而上学―大乗起信論の哲学』岩波書店 再読

2016年07月30日 | 哲学

第一部 存在論的視座


 『大乗起信論』 馬鳴菩薩? 六世紀 原文四十七ぺージ(岩波文庫)


 東洋哲学全体に通底する共時論的構造の把握

『起信論』二つの特徴
 一 思想の空間的構造化
 二 思惟が、至る所で双面的・背反的、二岐分離的、に展開

 思考展開の筋道は、至るところ、二岐に分かれ、ふたつの意味指向性の極のあいだを、思惟は微妙な振幅を描きながら進んでいく。

 右に揺れ左に揺れ戻りつつ展開する思惟の流れに、人はしばしば路を見うしなう。要するに、一見単純な論理的構成にもかかわらず、『起信論』の思惟形態は、直線的ではないのだ。だから、このような思考展開の行き方を、もし我々が一方向的な直線に引き伸ばして読むとすれば、『起信論』の思想は自己の思想、ということにもなりかねないだろう。

*グレゴリー・J・ミルマン『ヴァンダルの王冠―国際金融帝国の敗退』、フェンテス『アウラ』

 「真如」は二岐分離しつつ、別れた両側面は根元的平等無差別性に帰一するのである。

 ……思惟展開のこの強力な二岐分離的傾向は、『起信論』に使われている多くの(というより、ほとんどすべての)基本的術語、キーターム、の意味構造の双面性、背反性となつて結実する。

 要するに、「真如」は二岐分離しつつ、別れた両側面は根元的平等無差別性に帰一するのである。

 二つの相反する意味志向性の対立が、「真如」をめぐる思惟をして、逆方向に向かう二つの力の葛藤のダイナミックな磁場たらしめずにはおかないのだ。

 意味志向性のこの二重構造に目隠しされることなく、それを超出して、事の真相を、存在論的、かつ価値符号的双面の「非同そのまま非異」性において、無矛盾的に、同時に見通すことのできる人、そういう超越的綜観的覚識をもつ人こそ、『起信論』の理想とする完璧な知の達人(いわゆる「悟達の人」)なのである。

            限りない妄象現出の源泉(存在分節否定の立場)
「アラヤ識」和合識〈
            「真如」の限りない自己顕現の始点(存在分節肯定の立場)

 一に非ず異に非ず

 一般に東洋哲学の伝統においては、形而上学は「コトバ以前」に窮極する。すなわち形而上学的思惟は、その極所に至って、実在性の、言語を超えた窮玄の境地に到達し、言語は本来の意味指示機能を喪失する。

 いかに言語が無効であるとわかっていても、それをなんとか使って「コトバ以前」を言語的に定立し、この言詮不及の極限から翻って、言語の支配する全領域(=全存在世界)を射程に入れ、いわば頂点からどん底まで検索し、その全体を構造的に捉えなおすこと―そこにこそ形而上学の本旨が存する。

東洋哲学の諸伝統→形而上学的極所
 「絶対」、「真(実在)」、「道」、「空」、「無」等々→『起信論』「仮名」(けみょう)→「真如」

 プロティノスの「一者」という名もまた然り。(「仮名」)

*私の「惚けた遊び」もまた然り。

プロティノス
「どんな言葉を使ってみても、我々はいわばその外側を、むなしく駆け廻っているだけのことだ」

馬鳴菩薩
「言説の極、言に依りて言を遣るを謂うのみ」
「当に知るべし、一切の法は説く可からず、念ず可からず。故に「真如」となすなり」
「言真如亦無有相」

命名は意味分節行為である。

 存在現出のこの根元的事態を、私は「意味分節・即・存在分節」という命題の形に要約する。

 むしろそれは実在の決定的な次元転換を意味する。(次元転落という方が荘子の真意に近いか)

老荘の道
ウパニシャッドの名色論
イヴン・アラビーの存在一性論

 無名無相、それは一切の「……である」という述語づけを受けつけない。

 「名づけ」がものを、正式に、存在の場に呼び出すのだ。

 私見(井筒)によれば、言語意味分節論は東洋哲学の精髄であって、いったんこれについて語りだせば止めどなくなってしまう恐れがある。

真如 離言真如と依言真如



第二部 存在論から意識論へ


 与えられたテクストの言述の表層を解体し、その底に伏在している思想の深層構造を読み解くための、読みの方法論的テク二ークとして、『起信論』哲学を、そういう道筋(存在論から意識論へ、思想的中心軸を移すこと)で、組み立てなおしてみようとするだけのことなのである。

忽然念起、いつ、どこからともなく、これという理由もなしに、突如として吹き起る風のように、こころの深層にかすかな揺らぎが起り、「念」すなわちコトバの意味分節機能、が生起してくる、という。

 「念」が起こる、間髪を入れず「しのぶのみだれかぎりしられ」ぬ意識の分節が起こる、間髪を入れず千々に乱れ散る存在の分節が起り、現象世界が繚乱と花ひらく。意識分節と存在分節との二重生起。

 (『起信論』の)存在論は、どことなく人間的であり、主体的.・実存的であり、情意的ですらある。

 心=意識→意味のズレを意図的に利用して、東洋哲学の世界における間文化的意味論の実験を試みる。

 『起信論』本文に出てくる「心(しん)」の一語を、自由に「意識」と訳しながら……。

 「意識」の超個的性格、超個人的・形而上学的意識一般、純粋叡智的覚体。

 プロティノス的流出論体系の「ヌース」、アンリ・コルバンの創造的想像力、ユング心理学の集団的無意識等と同様に考える。

 このような超個的、全一的、全包容的、な意識フィールドの拡がりこそ、『起信論』は術語的に「衆生心」と呼ぶ。

 むしろこのホンヤク操作によって、「心」の意味領域を「意識」の意味領域に接触させ、両者のあいだに薫重関係を醸成しようとするのだ。

 「薫重」は『起信論』でも重要な働きをする大乗仏教の基本的術語の一つ。要するに、「移り香」。

 だがいつの日か、同様な試みが、もし巨大な規模で、自覚的・方法論的に行われることになれば、我々の言語アラヤ識は実に注目すべき汎文化性を帯びるに至るであろう。
中国→仏教典籍の漢訳
イスラーム→ギリシャ哲学の基本的典籍のアラビア語に翻訳


 「三界(=全存在世界)は虚偽にして、唯心の所作なるのみ。」

 「心、心を見ざれば、相として得べきなし」

 「乃至、総じて説く、一切の衆生は分別するによって、皆相応せず。故に説いて空となすのみ。もし妄心を離るれば、実には空ずべき〔空も〕無し」

 もし我々が分節意識の、存在単位切り出し作業を完全に止めてしまうならば、空ずべき何ものも、いや、「空」そのものすら、始めからそこには無いのだ。本来的には、空ずべき何ものも無い、いや、「空」そのものも無いという、まさにそのことが、ほかならぬ「空」なのである。

 そもそも、「形而上的なるもの」の窮極処を「空」とか「無」とかいうような、現象的「有」の実在性を絶対的に否定する表現で把握するのが、東洋哲学一般に通ずる特徴的アブローチなのであるが……

 「心真如」の中に、元型的あるいは形相的に潜在していたものが、現勢化する、それが「心真如」の自己分節にほかならない。

 「空」「不空」という相対立し、相矛盾する二側面が、結局、本来的には、ただ一つの「心真如」自身の、自己矛盾的真相=深層にほかならないということ

 「心真如」と「心生滅」とのこの特異な結合、両者のこの本然的相互転換、の場所を『起信論』は思想構造的に措定して、それを「アラヤ識」と呼ぶ。

 唯識の立場では「アラヤ識」は千態万様の「心生滅」のみに関わるのに反し、『起信論』的「アラヤ識」は、「心真如」と「心生滅」との両方に跨ること。すなわち、唯識哲学においては、生々流転(「心生滅」)の在り方だけが問題なのであって、不生不滅(「心真如」)の実在性は問題とされない。

『起信論』の「アラヤ識」→「心真如」と「心生滅」の両領域にわたる→和合識→真妄和合
唯識哲学の「アラヤ識」→「妄識」



第三部 実存意識機能の内的メカニズム

 「覚」「不覚」「始覚」「本覚」。これら四つのキータームが、互いに接近し、離反し、対立し、相克し、ついに融和する、力動的な意識の場、それが個的実存意識のメカニズムとして現象する「アラヤ識」の姿なのである。

 理論的、いや、理念的に言えば、人は誰でも「自性清浄心」をもっている。それが、いわゆる現実界の紛々たる乱動のうちに見失われている。いかにすれば、本性の「清浄」性に復帰することができるか。これが『起信論』の宗教倫理思想の中心課題として提起される。

   「根本不覚」(根元的「不覚」)
不覚<
   「枝末不覚」(派生的「不覚」)

 「真如」の真相を、全一的意識野において覚照する能力がないこと、それがすなわち「無明」=「根本不覚」なのである。

 「枝末不覚」は、いま述べた、「真如」についての根本的無知の故に、「真如」の覚知の中に認識論的主・客(自・他)の区別・対立を混入し、そこに生起する現象的事象を心の外に実在する客観的世界と考え、それを心的主体が客体的対象として認識する、という形に構造化して把握する意識のあり方である。

 『起信論』の「三細六麁」→「九相」論

 個的実存の意識を「妄」界に巻きこんでいく「不覚」形成のプロセスを『起信論』は九の段階に分けて記述する。

 「三細」とは三種の微細な、つまり、ほとんど気付かれないようなかすかな形で働く、深層意識的心機能を意味し、
 「六麁」(ろくそ)とは六種の粗大な形を取って現われる表層意識的心機能のことである。

 要するに、「アラヤ識」の「妄念」的機能フィールドは九つの段階的様相を持つということである。

「三細」 ㈠「業相」㈡「見相」㈢「現相」
「六麁」 ㈣「智相」㈤「相続相」㈥「執取相」㈦「計名字相」㈧「起業相」㈨「業繋苦相」

*なんということだ、この細分化は。

 「忽然念起」。いつ、どこからともなく、唐突に、心の深みに何かが動く。「念」の起動。たちまちそこにものが生起する。ただ忽然と、ものが現われるのだ。何かが認識されるのではない。まだ主体も客体もない原初的状境だから、誰かが何かを意識するということはない。ただ何かが生起するだけ。主客未分、認識以前、前認識論的状態である。→業識

「五蘊集合」的物象化

「三界は虚僞」

「心、心を見ざれば、相として得べきなし」

 未だどこににも、これといって特別の「名」が現われていない実存意識の茫漠たる情的・情緒的空間に、様々な名称を妄計して、それを様々に区劃し、そのひとつ一つを独立の情的単位に仕立て上げていく言語機能に支配される「アラヤ識」のあり方を「計名字相」という。

それを「妄念」と見るところの「不覚」論の立場では、ものに「名」をつける人間の言語行為は、「妄念」強化の要因でしかあり得ないのである。

 「名」としてのコトバは膠着性、あるいは染着性、を一般的特徴とする。いったん「名」がつくと、現象的存在は本来の生々とした浮動性を失って、「名」としての語の意味形象の示唆する枠に膠着してしまう。いままで生気溢れる可塑性をもって自由に浮動していた存在の無限定性が奪い去られ、万物が動きのとれない意味枠に固着して、あたかも実在するものの如くに我々の意識を支配し始める。

 「計名字相」は、命名についてのこのネガティブな見解を、特に実存的意識の情的、情緒的側面に、限定的に適用しようとするのである。

 「名」与えられることによって言語的凝固体になる前の無記名的浮動性にあるかぎり、一般に情念はただ漠然とした気分のようなものであって、それにはそれほど恐るべき力はない(というのが『起信論』の見方である)。ところが「名」によって固定されて、特殊化され個別化され、言語的凝固体群となるとともに、情念は我々の実存意識に対して強烈な呪縛力を行使し始めるのだ、と考えるのである。情念のこのような言語的凝固体を、伝統的仏教の用語では「煩悩」という。

 『起信論』によれば、我々普通人の実存様相は、たいていの場合「不覚」である。情念的生の渦に巻き込まれ、数限りない「煩悩」に取り押さえられて金縛りになっている人間が、実存的に「不覚」の状態にあることは、むしろ当然でなければならない。

 「妄念」の所産に過ぎぬ妄象的存在界を純客観的に実存するものと思い込んでそれに執着し、そのために人が自己の本性を晦冥され、自己本然のあり方から逸脱して生きている――しかも、それに気づかずに――ということ。

 忽然と「不覚」の自覚が生じて来ることがある。(「本覚」からの促しによって)

 『起信論』によれば、「本覚」としての資格で機能する「覚」は、「不覚」の状態にある人々に向かって、絶えず呼びかけの信号を送り出し続けているからなのであって、もしたまたま、発信されたこの実存的信号が、心の琴線に触れることがあれば、自分の実存が「不覚」の状態に陥ちこんでいること、すなわち己が自己本然の姿を忘れて生きていること、に気づき、慄然として、自己のあるべき姿(=「覚」の状態)に戻ろうとする。それが、すなわち「始覚」なのである。

 修行の全プロセスが「始覚」

「風に騒ぐ海」

 「薫重の義とは、世間の衣服は実には香無きも、若し人、香を以って薫重すれば、即ち香気有るがごとく、此れもまた是くの如し。真如の淨法は、実には染なきも、但だ無明を以って薫重するが故に、即ち染相有り。無明の染法は、実には淨業無きも、但だ真如を以って薫重するが故に、即ち浄用有り。」(『大乗起信論』)

「染法薫重」・「浄法薫重」

「染法薫重」(下り)
 第一段 「無明薫重」(己れを生み出す源となった「無明」に反作用して第二段に移っていく)
 第二段 「妄心薫重」(「妄心」が反作用を起こして「無明」に「逆薫重」し、「無明」勢力増長させ、そのエネルギーが「妄境界」を生み出す)
 第三段 「妄境界薫重」(「妄境界」の反作用で能生の「妄心」に「逆薫重」してそのエネルギーを増長させ、人間的主体を限りない「煩悩」の渦巻きの中に曳きずりこみ……)

「浄法薫重」(上り)
 ㈠ 「本薫」(実存主体、「妄心」は、己れが現に生きている生死流転の苦に気づき、それを厭い、一切の実存的苦を超脱した清浄な境地を求め始める)
 ㈡ 「新薫」(強烈な厭求心となつた「妄心」が、「真如」に「逆薫重」して、人をますます修行に駆り立て、ついに「無明」が完全に消滅するに至る)

 「心源を覚するを以っての故に究竟覚と名づく」

 悟りはただ一回だけの事件ではないのだ。

「究竟覚」という宗教的・倫理的理念に目覚めた個的実存は、こうして「不覚」と「覚」との不断の交代が作り出す実存意識フィールドの円環運動に巻き込まれていく。


 この実存的円環運動こそ、いわゆる「輪廻転生」ということの、哲学的意味の深層なのではなかろうか、と思う。


あとがきに代えて(井筒豊子)

それができたとき、彼の実存意識の意味的網目組織磁場も円環閉止的に完成し内的に完了していたのではないだろうか。







抜 粋 集 Excerpt Collection  心臓に響く、フレーズのくさぐさ

2016年07月14日 | 電子書籍
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内容紹介
 最近、編者が2012.8~2016.7月に読んだ本からの抜粋です。43冊の本からA4・165枚を抜粋しました。
 長いこと、30年ほど年金関係の本ばかり読んでいましたので、年金以外の分野を学生時代以来の興奮で読み進めております。
 それにしても、70歳過ぎて知らない世界の多さにびっくりしております。日本古代史、中世文学、世界の宗教、明治政府の功罪等々、膨大な歴史の集積に圧倒されつつ読書に没頭しています。

 現今、読書中に、狭心症を患った心臓に響いたフレーズを抜粋してワ-ドに記録しておりますので、その一部をご紹介いたします。
 これらのフレーズが、読者に何らかの閃き、きっかけ、問答の開始などを提供できれば幸いです。
 まずはお楽しみください。



登録情報
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はじめに

 最近、編者が2012.8~2016.7月に読んだ本からの抜粋です。
長いこと、30年ほど年金関係の本ばかり読んでいましたので、年金以外の分野を学生時代以来の興奮で読み進めております。
 それにしても、70歳過ぎて知らない世界の多さにびっくりしております。日本古代史、中世文学、世界の宗教、明治政府の功罪等々、膨大な歴史の集積に圧倒されつつ読書に没頭しています。

そういえば、昔、拙著『情緒の力業』に対する書評で、「本書の成立を支えたのは膨大なる読書量である。それは巻末に「文献一覧」として示されている。著者によると「三百冊ほどの本全てが一冊一冊有機的な繋がりを持ち、読み進む度に新たな可能性が現われれれ細部が強固になる異常な精神の興奮の渦中で、意図せずに、自然に、幾多の啓示を受けたかのように、帰納的にあるヴィジョンが塊となった」というものである。しかも、読了した一冊一冊について、著者の心を深く捉えたと思われる箇所を引用し、列挙している。一読書人の読書記録としても壮観である。」と、書いてくださった方(針生清人氏)もおられました。

 言うところの「あるヴィジョンが塊」となるか否かは、現今の当方が感受性の柔軟性を保ち得ているか、あるいはまた、経験を積み上げた結果の固定概念のしがらみをいかに脱せるか等の点にかかっているのでしょう。

閑話休題。現今、読書中に、狭心症を患った心臓に響いたフレーズを抜粋してワ-ドに記録しておりますので、その一部をご紹介いたします。
 これらのフレーズが、読者に何らかの閃き、きっかけ、問答の開始などを提供できれば幸いです。
 まずはお楽しみください。

平成28年7月10日
編集者 高野 義博



目 次

はじめに
1. 抜粋 レイナルド・アレナス『めくるめく世界』鼓直/杉山晃訳 国書刊行会
2. 抜粋 松岡正剛『日本流』 ちくま文庫
3. 抜粋 紀貫之『土佐日記』菊池靖彦校訂・訳 小学館 日本の古典をよむ⑦
4. 抜粋 勅撰和歌集醍醐天皇『古今和歌集』小沢正夫・松田成穂校訂訳 小学館 日本の古典を読む⑤
5. 抜粋 堀田善衛『方丈記私記』ちくま文庫 1971
6. 抜粋 松岡正剛『日本数寄』ちくま学芸文庫 2011
7. 抜粋 安田登『あわいの力』 ミシマ社 2014/02
8. 抜粋 中沢新一『精霊の王』 講談社 2006 第七刷
9. 抜粋 藤巻一保 『真言立川流』 学研
10. 抜粋 『神道―日本の民俗宗教』薗田稔編 弘文堂 昭和六十三年
11 抜粋 G・マレー『ギリシア宗教発展の五段階』藤田健治訳 岩波文庫
12. 抜粋 五来重『遊行と巡礼』 角川選書
13. 抜粋 五来重『空海の足跡』 角川選書
14. 抜粋 聖戒編『一遍聖絵』岩波文庫
15 抜粋 五来重『高野聖』増補版 角川文庫
16. 抜粋 島薗進『国家神道と日本人』岩波新書
17. 抜粋 阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』 ちくま新書
18. 抜粋 藤森栄一『かもしかみち』 学生社 昭和四十二年
19. 抜粋 義江彰夫『神仏習合』 岩波新書
20. 抜粋 井上光貞『日本国家の起源』岩波新書
21. 抜粋 司馬遼太郎・山折哲雄『日本とは何かということ』 NHKライブラリー
22. 抜粋 司馬遼太郎『空海の風景』上下 中公文庫
23. 抜粋 J・キャンベル『時を超える神話』飛田重雄訳 角川書店
24. 抜粋 森本達雄『ヒンドゥー教』―インドの聖と俗 中公新書
25. 抜粋 山口昌男『アフリカの神話的世界』 岩波新書
26. 抜粋 『日本のシャマニズムとその周辺』―日本文化の原像を求めて 加藤九祚編 日本放送協会
27. 抜粋 張承志著『回教から見た中国』 中公新書
28. 抜粋 丸山眞男『超国家主義の論理と心理』 岩波文庫
29. 抜粋 ノーマン『日本における近代国家の成立』大窪訳 岩波現代叢書
30. 抜粋 バジョット『イギリス憲正論』小松春雄訳 中央公論社
31. 抜粋 東野治之『遣唐使』岩波新書
32. 抜粋 李進煕・姜在彦『日朝交流史』 有斐閣選書
33. 抜粋 上田正昭『帰化人』 中公新書
34. 抜粋 溝口睦子『アマテラスの誕生』 岩波新書
35. 抜粋 フェンテス『フェンテス短編集 アウラ・純な魂』木村栄一訳 岩波文庫
36. 抜粋 黒田壽郎『イスラームの心』 中公新書
37. 抜粋 J・キャンベル『千の顔をもつ英雄』上下 平田/浅輪訳 人文書院
38. 抜粋 鎌田東二『神道とは何か』 PHP新書
39. 抜粋 M・タルデュー『マニ教』大貫・中野訳 白水社
40. 抜粋 M・ボイス『ゾロアスター教』三千五百年の歴史 山本由美子訳 講談社学術文庫
41. 抜粋 J・キャンベル&B・モイヤーズ『神話の力』飛田茂雄訳 早川書房
42. 抜粋 井筒俊彦 『イスラーム文化―その根柢にあるもの』岩波書店 1981 再読
43. 抜粋 井筒俊彦 『イスラーム哲学の原像』岩波新書 1980 再読









1. 抜粋 レイナルド・アレナス『めくるめく世界』鼓直/杉山晃訳 国書刊行会

 悪は快楽に浸ろうとした一瞬にではなく、その一瞬のあとに訪れる快楽への隷属、永続的な霊獣の中にこそ潜んでいることを、あなたはよく心得ているのだ。

とくに素晴らしい考えは、しょせん、紙に書き留めることはできないはずだ、書いたとたんに、それらの考えは想像されたものの持つ魔術的な力を失ってしまうのだから、また、それらが巣喰うっている脳の襞はやたら引っ掻き回されることを好まないのだから、また、そこから引きずり出されたとたんに、それらは変質し、変化し、変形してしまうのだから。

 己を形作っているものを、なぜ無理に変えようとする?

星宿の完璧さに、その恒久不変の調和に達すること

記憶ではなく無人の現在のみが存在する時間の中に居を求めようとしていた。

アレナス『夜明け前のセレスティーノ』

一人称、二人称、三人称という三つの文法的人称の混用



2. 抜粋 松岡正剛『日本流』 ちくま文庫

真名と仮名

アイヌ・東国・西国・琉球という分割

ないまぜ

日本の仕組みは全体と部分を切り分けない。全体と部分とはどこかでつながっている。さらには全体を構成している要素と部分を構成している要素が互いに寄り添い、あるいは連れ立って、しだいに中間的なモジュウールをつくっていくという特徴があります。

これは合理的な「目標を定める」とか「目的を求める」というとはちがっていて、ともかく当のものに近づけようとするところに意図があるのです。当のものは必ずしも目標や目的ではないのです。

西洋流の思考構造とは違う別の思考スタイル

すべからく「大事」か「無事」にしたいだけ、ただそれだけなのです。これが日本の職人の秘密です。

レトリックとは、一言で言えば「意味に弾みをつける」(佐藤信夫)

メタファ(隠喩) 見立て
メトニミー(換喩)
シネクドキ(提喩)

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電灯の
ひとつの青い照明です
                宮沢賢治『春と修羅』

何かが何かに見える → 見立て

寄物陳思

この江戸的フェアネスのことを、江戸社会では「義」といいます。

片山蟠桃もその「義」というフェアネスに「利」を発見する。

日本人が主語を省いて話をするということがあるけど、
      ↓
ここには「環境や状態や事態に自分をまぜている」ということがおこっていると見ればいいと思います。語り手の自分という主語が突出することで何かの説明を完結するのではなく、そこに自分が混じっている状態の特徴を説明しようとする。そこでついつい主語を省略してしまうのです。

*状況にない交ぜになっている状態 主客未分明 白いワイシャツ 志学以前 述語は永遠に……

日本人は「主語的なるもの」よりも「述語的なるもの」を重視した言語文化の中にいるということであります。

このような述語性に富んでいるところが、日本に「見立て」を生みやすくしているのです。

自分を含んだ状態が気になる言語文化

「趣き」は主体が対象から受けた印象のようなものを言う。どちらにせよ、「おもむき」には、「主が向く」「面が向く」という共通の方向感覚があって、それゆえ主体がどちらかの方向へ向かっているという感覚をあらはしているはずです。

「おもむき」も「おもかげ」もたんに主語性や主体性の帰属を省略したり、曖昧にしたりしているだけなのではなく、それらが主語や主体のもとを離れて積極的に動きうるのだということがわかります。

移動性と写意性

最初から死んでもらっておくか、人々の記憶の中でいつでも再生するように活けるんですね
                            中川幸夫

「ふる」というのは魂や力がゆさぶられることです。

狩野亨吉 → 目利き

偶然性の研究というのは、存在というものが自己のうちに存分な根拠をもっていないという独特の判断にもとづいて、自己を支えようとする絶対的同一性をあえて震撼とせしめることを訴えたもので、九鬼周造の面目躍如たる議論です。

松茸の季節は来たかと思ふと過ぎてしまふ。その崩落性がまた良いのである。(中略)人間は偶然に地球の表面の何処か一点へ投げ出されたものである。如何にして投げ出されたか、何故に投げ出されたかは知る由も無い。ただ生まれ出でて死んでいくのである。人生の味も美しさもそこにある。
                                   九鬼周造


ふるさとも妻も子もなしわが骨は 犬のくはへて行くにまかせん
                               九鬼周造

荒事と和事

*惚けた遊び 『情緒の力業』第七章 一惚けた遊び

 見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮
                           藤原定家

有心体という描法
   実際の景色の奥に心の中の「負の景色」を動的にはたらかせることができる描法
   寂びた心を言葉にする遊びの方法

すべては体験の中にありすべてはその行為のシステムの中にあるのだから、それをやってみるしかないようになっているのです。

そんなものは自分で盗むんだといいます。

明治の修養派世代と大正の教養派世代 (明治の行と大正の知)


歌を忘れた金糸雀は
象牙の船に銀の櫂
月夜の海に浮かべれば
忘れた歌をおもいだす
               西条八十「かなりや」四番



3. 抜粋 紀貫之『土佐日記』菊池靖彦校訂・訳 小学館 日本の古典をよむ⑦

承平四年(九三四)高名な歌人の旅日記 権威からの逸脱

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。
紀貫之

「おとこもす」「男文字(漢字)」  
「をむななもし」「女文字(女手=平仮名)→ 九世紀末から十世紀初頭に成立

女手は、欧文の綴り字のごとく、文字の連続を可能にした筆記体の仮名であり、連綿と連続こそが女手の本姓である。
石川九楊

心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言い出せるなり
『古今和歌集』仮名序

紀貫之仮名序 冒頭
やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり

忘れがたく、口惜しきこと多かれど、え尽くさず。とまれかうまれ、とく破りてむ。
紀貫之


(以下Amazonでごらんください)


抜粋 井筒俊彦 『イスラーム哲学の原像』 岩波新書 一九八〇年 再読

2016年07月09日 | 読書


 イスラーム的思惟の動向を今日にいたるまで規定し色づけてきた一つの根源的思惟形態をイブン・アラビー系の「存在一性論」のうちに認めて、それの理論的構造を分析記述するとともに、さらにその表層的構造の下に伏在する深層的実在体験の働きを明るみに出してみようとすることにある。

存在一性論
 観想によって開けてくる意識の形而上学的次元において、存在を究極的一者として捉えた上で、
経験的世界のあらゆる存在者を一者の自己限定として確立する立場である。

 東洋哲学全体の新しい構造化、解釈学的再構成への準備となるような叙述

イスラーム哲学の三つの時期
 ⑴イスラーム生誕十二世紀末葉まで。
 ⑵十二世紀後半から十七世紀の半ばまで。
 ⑶十八世紀前半から現代まで。


第一部 イスラーム哲学の原点―神秘主義的主体性のコギト―

神秘主義的な実在体験と、哲学的思惟の根源的な結びつき

西暦十二世紀、とくに十三世紀以降、つまりモンゴル人のイスラーム世界制覇を転機としまして、それ以来、近代・現代に至るイスラーム哲学の形成には神秘主義と哲学の融合ということが、たしかに一つのきわめて重要な原点として働いており、しかもそれがイスラーム哲学の主流を決定しているとさえいえるのではないかと私は思います。

スーフィー→スーフ(羊毛)
羊の毛の着物を着た人、つまり粗い羊の毛をそのままざっくり織って作った粗末な着物を一枚、肌にじかに着ている人、そういう着物を着て苦行の道に携わっている人

イルファーン=神秘主義的哲学=超越的認識=ヒクマットの哲学=般若の知恵


イルファーン、あるいはヒクマットの哲学というのは存在の神秘主義的体験、ないしは神秘主義的ヴィジョンにもとづく哲学、スーフィー的主体のコギト「われ思う」から出てくる哲学なのでありまして、それがとくにイランにおいては哲学の主流として今日まで連綿とつながって続いてきております。

神秘道の修行者が長い修行のあとでスーフィー的主体、すなわち日常的「われ」とはまったくちがったスーフィー的「われ」を自覚したうえで、その「われ」が哲学的にものを考え出す、その「われ思う」は、同じコギトであってもデカルト的コギトとはまったくちがった次元における、まったく違った性質のコギトでなければなりません。

 十二世紀から十三世紀に神秘主義と哲学の接点が成立(イラン哲学者スフラワルディとアラビア哲学者イブン・アラビー)

スフラワルディ→最大の師(イラン的シーア派のイスラーム哲学の主流)
イブン・アラビー→照明学の師

 スーフィズム→禁欲苦行の道→隠遁者の実践道→新プラトン主義やグノーシスの影響で思想化→主体的体験的なもの

 思想というよりはむしろ情緒、冷たい知性の働きではなくて、燃え上がる情念、思想としても合理的思想ではなくて、情的思想でありました。

 ファルサファ(哲学)=ギリシア哲学をイスラーム的コンテクストにおいて一神教的な教義、あるいは一神教的信仰に適合したような形で展開したものであります。

私は神秘主義の顕著な、そして決定的に重要な特徴の一つとしていわゆる現実、あるいはリアリティーの多層的構造ということを考えてみたいと思います。

 そしてこの全体、明るい白昼の光に照らし出された表層からいちばん下の底知れぬ暗黒の領域までを含めてその全体を現実、リアリティ-と考えるのです。それが神秘主義の最も初歩的な、そして最も顕現的な現実ヴィジョンであります。

 この心の生来の傾向(感覚・知覚・理性による認識形態)を変えるためには、無理にもそれを強力に捻じ曲げなければならない。そこで特別な修行とか、修道とかいうことが必要になってくるのであります。

 方法的組織的な修行によって意識のあり方を変える、これが神秘主義の第三の大きな特徴であります。


意識の深層開闢の修行方法
 ・禅宗の座禅
 ・ヒンドゥー教のヨーガ
 ・宋代儒者の静座
 ・『荘子』の坐忘

 四方八方に散乱しようとする心の働きを抑えて、老子が言っていますように肉体の窓や戸口を全部閉ざして、つまり外に向かい、外界の対象を追いかける心の働きを抑えて、意識の全エネルギーを一点に集約し、経験的次元で働く認識機能、つまり感覚・知覚・理性などとはまったく異質の認識機能の発動を促そうとする。

観想・瞑想・コンテンプラチオ・三昧の境地(自我意識の消滅による)

 自我意識の消滅、これこそコンテンプラチオ実現の第一条件であります。自我の意識、経験的実存の中心点としての自分という主体の意識、それがきれいさっぱり拭い去られなければコンテンプラチオという状態は絶対に実現しません。

 禅の修行方法である坐禅、只管打坐、公案を抱え込んで坐る公案禅のような修行、そういうものとぜんぜん違った方法的な手順を積んで意識の訓練が行われます。

 スーフィズムはとくにその実践面においてまったく本来、秘教的性格、エソテリツクな性格のものでありまして、かつての古代ギリシアの密儀宗教に典型的な形で現われておりますように、その真相はよそ者には一切明かさないようにできている。あらゆる意味で非公開的なもの、閉ざされたもの、見せることはもちろん、話すことももちろん本来許されない秘事であります。

 ナジュム・クブラーは西暦十二世紀から十三世紀にかけてイランに現われたスーフィズムの巨匠のひとりでありまして、彼の教えはのちに「クブラー流」として知られるスーフィズムの強力な一派を形成するのでありまして、要するにクブラー派の始祖であります。

クブラー著書表題『馥郁たる美の香り、粛然たる威光の現われ』

 スーフィー自身の秘境的世界は限りなく湧出し奔騰するイマージュの世界であります。

 人間の意識がある特別の次元で―ユングならそれを集団的無意識というでしょうが―働き初め、ある特別の形で緊張しますと、それは根源的なイマージュを生み始めます。いわゆる象徴、シンボルとか、アーキタイプ(元型、範型)とか、そしてまた物語り的に展開した場合には神話とかがそこに顕現してきます。

プラトンの「ミュトポイオス」→シャーマニズム(外へ向かう)とスーフィズム(内にこもる)での根源的イマージュ形成機能

 スーフィーにとっては、シャーマニズムの場合のように甘美な形象の魅惑、あるいは恐怖の戦慄に満ちたイマージュの棲息する幽庵の国に旅して、魂がそこにさまよいこんで行くというようなことではないのであります。

 むしろスーフィーにとっていちばん大事なことは、自分の魂の内面により深く入っていって、魂の暗い領域の秘密を探り、通常の条件の下では全く働いていない心の機能を発動させようとすること、つまり意識の深層の探求です。

スーフィー=意識深層のイマージュ化→観想状態における階層的深化

 ……ひとつひとつのイマージュ、あるいはイマージュ群は、スーフィーにとって自分がいま観想修行の道程のどの段階にいるかを知るための最も確実な手がかりであります。

意識の構造的モデル構築
 スーフィー(意識を多層的な一種の立体系の実体として考える)
 ユング(集団的無意識という深層心理学)
 唯識論者(阿頼耶識による深層意識論)

魂の見方
スコラ哲学(イスラームの哲学)→魂は人間的自我(エゴ)の座
スーフィズム→魂は神の座

 (イスラームの哲学)における魂は、人間の実存を「われ」として自覚させるものであるに反しまして、スーフィズムにおける魂は人間の実存を神の自己顕現の場、神が自己をあらわす場所として自覚させるものであります。

アヴィセンナの「空中浮遊人間説」
 アヴィセンナは、「空中浮遊人間」説をもって、存在というものを説いた。(この比喩は中世ヨーロッパにおいて論議を呼んだ)すなわち、真空中に浮遊している完全な一人の人間がいる。ただ、完全に盲目であり、外を見ることができない。真空中なので、空気の触感ですら感じられない。彼は、そのような状況で何を感じることができるとすれば、自身の存在である。つまり、「我在り」という自身の存在は確実に肯定するというのである。これに、存在は他と違って本質的に直観知というべきものであり、近世デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」の命題の先駆的業績を掲げているといえる。この存在の立場から、アヴィセンナは、自然科学や数学のような絶対的な存在のあり方を捉えない学問と形而上学の独自性を主張する。(ウィキペディア)

 イスラーム思想(アヴィセンナに代表されるスコラ哲学)のほとんど全体にわたって魂とは自我意識(われあり)の場なのであります。

 スーフィーは「われあり」というのは魂の深層を知らないからであるとする。

 スーフィズムの修行とは、要するに自我意識を基礎とする外的認識器官の働きをとめて、それの支配を脱却して、内的認識器官をできるだけ純粋な形で働かせ、それによってしだいに意識の深みにひそむ神的「われ」の自覚に到達するための意識変成の道であります。

 スーフィズムは意識を五段階的な構造とします。

 ハッラージ(西暦十世紀の偉大な神秘家)→アナルハック→われこそは神

唯識学派の表層から深層に及ぶ意識構造モデル
 前五識・第六識・第七末那識(自我意識)・阿頼耶識(潜在意識)
 唯識のモデルは、煩悩の働きそのものの構造化であります。

スーフィズムの場合、意識の構造モデルは、自我意識の消滅の過程として立てられております。

 スーフィズムの立てる意識のモデルでは、煩悩は表層意識特有の事象でありまして、意識の深層に行けばその働きはおのずからにして停止し、最深層に至れば、煩悩の源である自我意識そのものが完全無欠に消滅してしまう。意識と存在が同時に無化されてしまって、この人間意識の絶対無がただちに神の意識、……ハッラージの「アナルハック」に現われているような神的意識の顕現である、とだいたいこのようにつくられています。

 そしてスーフィズムと哲学との融合の結果、そこに成立した一種独特の哲学をイルファーン(神秘主義的哲学)と呼ぶということ……

 スーフィーの修業は、人間の自我の意識から神的意識、神の意識まで、純人間的なものから純神的なものへ、闇から光へ、この両極の間に広がる異常な精神的緊張のうちにスーフィーの魂はしだいに変貌し、変質していきます。そしてこの魂の変貌、変質、メタモルフォシスそのものがスーフィズムなのであります。

 ……この魂のメタモルフォシス、変質を実現させる特殊な方法がズィクルと呼ばれる観想のテクニックであります。

 ズィクルというのはアラビア語ですが、言葉の意味としては、なにかをありありと心に思い浮かべること、とくにそのものの名を口に唱えることによってそのものの形象を心に呼び起こし、それを心から離さずに長いあいだ保持することであります。

 浄土教で申します西方浄土の阿弥陀仏を心に思い、口に御名を唱える、いわゆる唱名、念仏と形式的に共通するところのある修行方法であります。

 また、名を唱える、唱名と同時に、その文句の呪術的エネルギーを身体のいろいろな特定の部分に定位させまして、それをつぎつぎに動かしていく一種の内的な身体動作を伴う点で、真言密教の修行にも似ております。

ズィクル修行の文句
 「ラー・イラーハ・イッラー・アッラー、ラーイラーハイッラッラー」
 「絶対に存在しない・神・アッラーのほかには」

 ……、力をこめて最後のアッラーという言葉をあたかもハンマーで杭でも土に打ち込むような気合いで、自分の心臓の真っただなかに打ち込むのです。こうして心臓のなかに衝撃的な力で打ち込まれたアッラーという言葉は、魂をその自然の眠りから呼び覚まし、自分自身のなかにひそんでいる深み、つまり意識の深層を自覚させると想定されております。→次にカルプ(超感覚的認識の器官)の発動

 ズィクルの文句の内蔵する本当の精神的エネルギーとその実践的効果は、スーフィーが実際に心身を挙げて、この文句を唱える独特な形式を見なければわかりません。これはスーフィズムの完全に秘教的な側面ですが、それがわからないとこの文句の修行的、修道的意味もそれに伴う哲学的な意味も分かりませんので、ズィクルが実際どんな風にして行われるのかということを簡単にこれからご説明いたします。

*スンニー派(イスラーム法)とシーアー派(スーフィズム)

 観想状態が深くなり意識がある深みまできますと、必ずそれに伴って自ずからある種のイメージが湧き上がってくるのでありまして、弟子を指導する師匠は、それによって弟子がいまどの段階にいるかがわかる。これが禅宗の座禅などでしたら、このような沸き起こってくるイマージュは妄想としてたちまち排除されることになるでありましょうが、スーフィズムでは逆に沸き起こってくるイマージュを全部、一〇〇パーセント利用いたします。

クプラーの色彩シンボリズムとズィクルの進行度合いにより湧出するイマージュ

「そのとき、一種の純粋な精神的清澄さが大気のようにきみの身体全体を包んで、きみは自分の面前にまぶしいばかりの光を噴出する光の人が立っているのに気がつく。それと同時に、きみもまた光を吹き出していることをきみは自分で意識する。」(クプラー)

 こうして、ズィクル修行の最終段階において日常的な「われ」の意識、誤って本当の「われ」であるかのごとく措定されていた自我は、今はじめて現われた第二の「われ」、真我のなかに消滅してしまいます。

 この第二の「われ」をスーフィズムでは「神顕的われ」、つまり神がそこで自らを現わす、顕現する「われ」と呼びます。

 「神顕的なわれ」→水平的な神と人間のダイアローグ
 絶対超越一神教(キリスト教)→垂直的な人間の神への祈り

 神と人とが同資格で水平面に対面し、言葉を交わすということは、一神教以外の宗教では絶対に考えられないことであるばかりでなく、一神教においてもふつうではとうてい想像できない異常な状況でありまして、史上、多くのスーフィーたちがその大胆な表現の故に、神を冒涜したという罪で死刑に処せられたのも、ある意味では当然であります。

ああ、なんという不思議なものか、われと汝のこの結びつき。
  汝の汝は、われのわれをわれから消し去って
  あまりにも汝に近く引きよせられたわれ故に
  汝のわれか、われのわれかと戸惑うばかり。
                   神秘家ハッラージ

  われらのあいだから汝とわれは消え去って
  われはわれでなく、汝、汝ではなく、さりとて
  汝、すなわちわれでもない
  われはわれでありながらしかも汝
  汝は汝でありながらしかもわれ
                   詩人ルーミー

  仏道をならうというは自己をならうなり。自己をならうとは自己を忘れるなり
                   道元禅師

スーフィズムの術語シャタハート(酔言)
 ハッラージ「アナルハック」(われこそは神)
 バスターミー「スブハーニー」(われに栄光あれ)

 このように絶対的無を経たのちでの有の究極的充実として新たに成立する「われ」の自覚を、私は神秘主義的主体と呼ぶことにしております。

スーフィー的神秘主義的主体の境地から
 1 哲学的思索の道→イルファーン(イヴン・アラビーとスフラワルディー)
 2 酔言
 3 詩的言語で表現(ペルシア文学)

 神秘家とは、哲学的に申しますと、まず第一に、このような言語習慣からくる限定を取り払って、存在のなまの姿にじかにぶつかりたい、また、そういう形而上的実在体験が実際に可能であると信じている人たちであります。

 ズィクルの修行において、心が観想状態、三昧に入って次第に深まっていくにしたがって、感覚、知覚、理性とはまったくちがった異質の認識能力が発動し始める。

 神秘家スーフィーの感じ方にもっと忠実にいいますと、意識の深い層が開かれて、そこに存在の深みが現われてくると表現したほうがいいと思います。

 要するに、神秘家たちの哲学的立場は、ヤスペルスの表現を使えば一つの「哲学的信仰」であります。

 われわれ自身ものであり、無数のものに取り巻かれ、ものと関わって生きている。つまりわれわれはものの夢をみているということです。そのものの夢をわれわれはふつう現実と呼んでおります。

 ところが、三昧に入りますと、いままで堅く固まっていたこの物の世界が流動的になってくる。もののいわゆる本質がまぼろしのようにはかないものとなり、それらの本質の形成するものの輪郭がぼけてきます。……。こうしてすべてが透明になり、いわば互いにしみ透り、混じり合って渾然たる一体になってしまう。
 そして意識の深化がもう一歩進みますと、それらすべてのものが錯綜し混じりあってできた全体が、ついにまったく内的に何もない完全な一になってしまう。

 そこではもはや、見るものも見られるものもありません。主体も客体もなく、意識も世界も完全に消えて、無を無として意識する意識もありません。このことをスーフィズムではファナー・アル・ファナー、「消滅の消滅」、つまり自我消滅の自我消滅と申します。

 主体的意識が観想状態の究極において完全に消滅して無となる、この意識のゼロ・ポイントに忽然として現われてくる実在のゼロ・ポイント、これを絶対無と見ることは、存在論的に申しますと、それを実在の絶対無分節の状態、内的にまったく分節されていない、区別されていない、まつたく限定されていない状態として見ることであります。

東洋の実在のゼロ・ポイント
 老荘の「道」
 易の「太極」
 大乗仏教の「真如」「空」
 禅の「無」
 スーフィズムの「ハック」→スフラワルディ「光の光」・アラビー「存在」「ガイブ」

 つまり事の真相を叙述するためには、ふつうの日常的言語のほかに、あるいはその上に、一種の哲学的なメタ言語、高次言語というものをつくる必要が出てくるのであります。


 この哲学的メタ言語では、あらゆる場合に存在が、そして存在だけが主語になるべきであります。他のあらゆるものはすべて述語です。

*「私」は述語なんだ!

 絶対無限定な存在そのものを頂点において、その自己限定、自己分節の形として存在者の世界が展開する。イブン・アラビーの哲学的世界像を最大限に単純化して考えますと、だいたいこのような形になると思います。

 日常的経験的意識から出発して、ついに意識のゼロ・ポイントに達し、そこからまた目覚めてしだいに経験的意識に戻ってくる。
  覚から不覚 向上門・却来問 掃蕩門・建立門 往相・環相 

 スフラワルディの照明学的象徴体系では、闇は物質性、感覚性を意味します。光と闇の相克、完全な古代のゾロアスター的二元論のイスラーム化であります。

 イヴン・アラビーは……絶対不可視状態における存在を置きます。ということは、三角形の全体を生命的エネルギーとしての「存在」の自己展開の有機的体系とみることであります。

 絶対の無(イヴン・アラビー)ではあるが、そこからいっさいの存在者が出てくる究極の源としては絶対の有であります。ちょうど大乗仏教で申します真空が妙有に切りかわるところ、あるいは中国の宋代の易学で周濂渓が立てました無極―太極の区別の朱子的な解釈において無極即太極とされたところなどに該当すると考えてよろしいかと思います。

 このアハド=絶対一者を頂点としてそこに広がる形而上的領域を存在のアハディーヤの領域、つまり絶対一者性の領域と呼びます。……。ヴェーダーンタ哲学的に言いますと、まさしくこれは「無相の梵」にあたるものでありまして、文字どおり絶対的一者の世界、「廓然無聖」の領域です。何の区別もない。一物の影もない、また、もの(・・)に対してもの(・・)を向う側に見る自分もない世界であります。

「私は隠れた宝物であった。突然私のなかにそういう自分を知られたいという欲求が起こった。知られんがために私は世界を創造した。」
 これが神秘家たちの好んで引用する有名な「ハディース」です。つまり自分の姿をそこに映して眺めるために、神が鏡として世界を創ったということであります。

仏教的に申すならば、忽然として真如のうちに無明の風が吹き起る、といったところです。またヴェーダーンタならば、絶対無差別、不変不動の真実在ブラフマンが、まぼろしのような現象界、生々流転の存在世界として現われてくる、その原因となる盲目的・宇宙的力=マーヤが働き出すということであります。

 一者そのものに内在するこの本源的な存在衝迫をイブン・アラビーはナファス・ラフマー二―(神の慈愛の息吹き)と申します。

 つまり有無中道の実在という鋳型を通じて、「存在」と呼ばれる永遠不滅の創造的エネルギーが、われわれの経験的、現象的世界として実現すると考えるのであります。

 タジャリー=神の自己顕現

 始めから終わりまで終始一貫して「存在」と呼ばれる宇宙的エネルギーの自己顕現のシステム、それが「存在一性論」という名称で世に知られるイヴン・アラビーの神秘主義的哲学であります。


第二部 存在顕現の形而上学

 イスラーム哲学―それも西暦十三世紀から十七世紀頃までのイランにおけるそれ―の発展形態という一つの特殊な具体的ケースであります。

 ここで私が取り上げようとしているものは、その中で、スペインのアラブ哲学者イブン・アラビーに淵源する「存在一性論」学派の思想であります。

 サドルッ・ディーン・クーナウィーは自ら偉大な神秘家として、実践的体験的に道の蘊奥を極めた巨匠でありましたが、それと同時に強靭な論理的思考のできる哲学者でもありました。この人の努力によって、イブン・アラビーの秘教的教説は完全に一つの形而上学的構造を与えられ、少なくともその純形而上学的側面においては、およそ哲学的にものを考えることのできるほどの人にとっては、もはや閉ざされた世界ではなくなったのであります。

 この存在一性論は、テクスト解釈上の見解の違いによって、多くの流派に分岐し、そのあるものは互いに対立し敵対しあうまでに至りもするのですが、それらが全部クーナウィーから派出する、その意味で、クーナウィーこそ存在一性論学派の始祖であるともいうことができるのであります。

存在一性論者の問題とする存在とは、われわれ自身とか、我々が自分のまわりに感覚的に見出す個々の事物、つまり具体的な存在者(・・・)ではなくて、それらすべての存在者を存在者足らしめている存在(・・)そのもの(・・・・)であるということです。

 イスラームの存在一性論学派が第一義的に関心を寄せたのは、概念ではなくてリアリティーとしての存在です。そしてこのリアリティーとしての存在なるものを、一切の概念的・理性的把握を峻拒する一種の超越的実在性、宇宙に遍在してあらゆるものを存在者たらしめる永遠不断の創造的エネルギーとして措定し、これは理性的思惟の把握を本来的に超えるものであって、ただ多年にわたる修行の結果、実存の深みに開かれる意識の深層の認識能力によってのみ把握されるものと考えるのであります。

リアリティーとしての存在を、存在命題(「Xが存在する」「Xがある」)の述語の位置に置かないで、主語の位置に据えかえようとする思考法として現われます。

 存在を存在命題の絶対的主語の位置に据えかえなければならないという、存在リアリティーに関わるこの問題提起そのものはイブン・アラビーより約百年ばかり前のアヴィセンナに遡ります。

 存在が本質にどういう形で「生起する」か、つまりどういう形で結びついくるかという問題についてアヴィセンナのとった立場は、「存在の偶有性」のテーゼとして世に有名なもので、……

 要するに存在は本質の偶有、つまり偶成的な―というのは本質そのものの中かに生起してきたものでないという意味ですが―性質であるという、外見上はなぜそんなに大騒ぎされるのかわからないような簡単な主張です。

アヴィセンナの存在偶有説
 ごらんのとおり(「Xがある」「Xが存在する」)ここでは存在が命題の述語の位置にきております。ところで存在がこのように、主語の位置にではなく述語の位置にあるということは、古来の形式論理学の命題構成にたいする理解のしかたからすると、主語Xによって指示されている「もの」にたいして存在が偶有的性質、つまり属性として内属しているということを意味します。これが実体―属性関係の普通の理解のしかたであり、命題の主語―述語関係はそれの論理的ないし言語的反映と考えられるのです。

存在に関するアポリア
 スフラワルディ→照明学派(存在はただ概念だけである)
 イブン・アラビー→存在一性論者たち

 要するに存在概念は認めるが存在リアリティーは認めないというのがスフラワルディの立場であります。

 どんな場合でも「存在」が主語なのであります。

 ここでは存在が形而上的普遍者として措定されており、存在が他のすべてを述語とする絶対的主語でなければならないとされるのです。

たとえば普通の見方ですと、花とか木とか人とか机とか、すべて名詞で表わされているものが文法的に主語になり、それが存在するというふうに、存在が主語に当たるもの(実体)を形容し述語的に限定するわけですが、存在一性論的に申しますと、花とか人とかいうものは実は自立した実体として本当にそこにあるのではなくて、本当にあるのは宇宙に遍在する形而上的実在としての存在だけであり、この形而上的リアリティーが、場合場合で、花として自己限定して現われたり、木として自己限定して現われたりする。つまり花や木は普通の文法では名詞ですけれど、存在一性論者の哲学的文法学では形容詞なのであります。

 すべてが形容詞として述語的に働いて、唯一の主語である存在をさまざまに限定し、さまざまな特殊形態に、いわば歪めて提示するということになるのであります。

存在界のこのような深層風景は普通の人の普通の目には全然見えません。それが見えてくるようになるためには、それを見る人間主体の側で、ある根本的な変貌が起こらなければならない。意識の構造自体が変わり、普通とは違った認識能力が働き出さなければならないのです。あるいは、意識の形而上的深層が拓かれてはじめて、存在世界の形而上的深層が見えてくる、といったらいいかも知れません。

 この時点においてイスラーム哲学は神秘主義に接近し、神秘主義と一体化し、神秘主義的実在体験にもとづいた形而上学に転身します。そしてこの転身をなしとげたのがイブン・アラビーとその同時代のスフラワルディとの二人であります。

 普通の日常的意識―それを深層意識にたいして表層意識と呼ぶことができると思いますが―で起こる認識を第一に特徴づけるものは、主客の分裂と対峙ということです。

 すなわち意識の深層機能が働き始めない限り、事物の深層構造は見えてこないというのであります。

 存在一性論者にとって……一番大切なところは、感覚・知覚をもとにしてそのまわりに拡がる日常的実存の中心点としての自我意識が消滅したところに働き出す特殊な認識作用ということです。

同一律が通用しなくなる地域

 ところが表層意識が深層意識に転換すると、存在命題の主語Xの位置に存在そのものが置かれることになる。すなわち「存在が存在する」という同語反復です。

 「存在が存在する」とは、よほどの達人でないといえないことなのです。

 存在リアリティーをリアリティーとして把握するためには「知るもの(主体)と知られるもの(客体)との同化」によるほかはない、というのがイスラーム哲学の一般に認められた立場です。

 神秘主義的体験を基礎とするイスラーム哲学では、表層意識の主体性の根源を「理性」の識別的判断作用にあるとします。仏教でもvikalpaすなわち「分別」とか「妄分別」とかいって、それが本来何もないところに「もの」の姿を対象として現じ出す心の働きだと考えますが、イスラームもまた人間の表層意識に対象識別の作用を認め、それが本来絶対無分別の形而上的存在を無分別のままに見ることを妨げる心の障礙と考えるのです。

 「人がもし、そのひ弱い理性と脆い思考を通じて存在(のリアリティー)に近づこうとすれば、生来の盲目と混迷とはただ増大するばかりだ」(シーア派哲学者ハイダル・アムリー)

マハムード・シャバスタリー『玄秘の花園』

  棄てよ、理性のさかしらを。
   常に実在に融化してあれ。
  ひ弱なる蝙蝠の目に、燦爛たる
   太陽を見詰める力はないものを。


 一切の有の根源である存在リアリティーは、その絶対的純粋性においては、理性の目にとっては完全な無である。(ラーヒージ―)

 深層意識の目が開けてはじめて存在リアリティーの全貌が、その形而上的根源の絶対無展開の段階から経験的世界での現象的展開の段階まで、あらゆる段階を通じて一望の下に見渡せるようになる。

 われわれは表層意識を通じていわゆる外界に様々な事物を見る。

 経験的世界は文字通り現象界、ブラフマンが自己を現象している世界なのであります。

 ヴェーダーンタのブラフマン=永遠に不易不動
 イスラームの存在一性論の存在リアリティー=ダイナミックな生成的エネルギー→自己顕現

 自我の消滅とはここでは、あらゆるものを対象化して見る、つまりこれこれのものとして分節的に見る表層意識の主体性が消滅すること。そのような、宋学の術語でいえば、「巳発」の心の状態が消えて「未発」の原初的状態に落ち着いたとき、はじめて絶対無分節の存在と(無)意識がぴたりと一致するのでありまして、こういう意味での自我意識の消滅をイスラーム哲学では術語的にファナーと申します。

ファナー体験
 個別的なものとしていろいろに区分けされた存在を区分け以前の姿に引き戻して、無限定、未限定の状態で見るためには、それを見る主体の側でも自我という限定が取り払われなければならない。

 存在体験のこの側面は、イスラームにおいては、神秘主義、いわゆるスーフィズムによって修行「道」として組織化され、歴史的に強力な制度までに発展いたしました。

イラン詩人ジャーミー
 「己の自我を遠ざけよ。他者の姿を心に見せるな」

 イスラームの考える無の体験とは、人間の側の主体的体験としては、自我意識の完全な消失、そして自我が消失するに応じて、知および意の対象としてそれまで自我と本質的に関わり、いわば向う側から自我を自我として支える役を果たしてきた一切の事物が跡も止めずに消え失せてしまうことで、禅で道元禅師のいわゆる「身心脱落」の体験を思わせます。

 意識の無が、無の自覚として甦るとでもいったらいいでしょうか。そういう新しい超越的主体としての無意識が、理論的にファナーの次の段階であるバカーです。

 そのような人は自分自身をも、自分のまわりに見える一切の事物をもことごとく絶対的一者のさまざまに異なる限定形態であることを見透している。

 多でありながら一、一でありながら多、という古来東洋哲学諸伝統を通じて流れている根源的な形而上学のテーマが、ここ(イスラーム哲学)でも鮮明な形をとって成立しております。

 主客を分けないことこそ、イスラームばかりでなく東洋思想一般について、その一つの根本的な特徴なのですが、もともとわれわれの言語は表層意識の働きに照準を合わせてできていますので、そして表層意識にとっては主客を分離対立させることが一番自然なやり方ですので、どうしてもそこから話が展開することになってしまう。

 大乗起信論の「心真如」という術語がよく示唆していますように、深層意識の見処からすれば、意識・即・存在なのであります。

 個別的存在者の顕現する形而上的根源

 形而上的根源としての存在が絶対未発であるからには、全然何ものも現われていない、つまり無であると考えるのですから、まさに「空即是色」、またその逆の「色即是空」であります。空と
色とを分けるのは、まだバカーの境位を知らない人の立場だということになります。

 主体の側で自我という意識の集中度がだんだん薄れていくにつれて、今まで事物の間を隔てていた現象的限定の線がぼやけていき、事物間の「本質」的区別が取り払われて、一つになってしまう。この存在的事態をイスラーム哲学の術語で「集一」と呼ぶのであります。『荘子』の応帝王篇にいわゆる「渾沌」に該当します。

 万物がその本質的差別を失って渾然たる存在=カオス、すなわち統合的一者として現成した状態です。そしてこの「渾沌」がより窮極的には絶対無差別的一者、すなわち「無」に帰入していくように、「集一」はついに根源的無分節にその姿を失う。この形而上的無をイスラームでは「隠没」と名付けております。

 (「隠没」の境位)に成立する無は、消極的に何もないということではなくて、絶対未発、未展開としての積極性をもった無でありまして、無のこの自己展開の開始とともにバカーの領域が始まります。

 存在的には、絶対無の中に有的側面が現われてくる。宋学における「無極」→「太極」のように、です。

 ファナーの境位で「集一」され無に帰した一切の事物が、バカーの初段階で「離散」し、それがさらに高次の形而上的統一性のヴィジョンで「集一」されるという意味です。

 現象的世界の只中にあって現象的事物を見ながら、しかもそこに現象以前の一者を見る。現象以前の一者とともにありながら、しかもそこに現象的多者を見る。こういうことのできる真の形而上学者をイスラームでは「双眼の士」と申します。

 この意味での存在可能性は、ですから、スコラ哲学でのように理性的思惟の産物ではなくて、神秘主義的実在体験の内実の概念化です。

シャバスタリー

  あやめもわかぬ暗き日中に
   明るく照り映えるぬばたまの夜


 存在の太源を「光の光」とし、すべての存在者をそこから溢れ出る、さまざまに色づけられた光として体験するのはいわゆる照明体験でありまして、イスラーム思想史としてはスフラワルディーの系統に属します。

 経験的世界すなわち現象界は、いかなる意味で、またどの程度まで実在的なのであろうか、という問題です。

ハイダール・アムリー『あらゆる玄秘の統合点』
 人間の三段階説
  一「俗人」→理性だけの人(下品)
  ニ「選良」→直感だけの人(中品)
  三「選良中の選良」→理性と直感を合わせた人(上品)

「双眼の士」
 この最高の位置を占めるのは、いうまでもなく、ファナーの境位に達した後、それを突き抜けてバカーの境位にまで進んだ人々、絶対者と相対的事物の世界との関係を一者と多者との一致、つまりcoincidenta oppostrumという力動的な結びつきとして把捉することのできる人々です。

 存在リアリティーの常識的見方からすれば相対立して背きあうはずのこのニ面を、一つに合わせて認識するところに成立する存在感を、ハイダル・アムリーは「存在融」と呼びます。

 「自己顕現」というのは、元来、存在一性論の長い歴史の始点となったイブン・アラビー自身において、その根源的存在ヴィジョンそのものの中心をなした考えでありまして、彼のイルファーン的形而上学全体がそれの思想的展開と申しても決して過言ではないほど、決定的な重要性をもつものであります。

 有に向かう無の側面、を通じて無が有的に展開し、自己顕現するという形で起こります。

シャンカラの不二一元論
 われわれがひとたび己れの意識の妄念的機能(何もないところに何か存在するものの幻影的形象を生み出す働き)から解き放たれるならば、いわゆる客観的世界など影もない。

 あたかも分節されたものであるかのようにわれわれに見せるのは、「無知」すなわち「無明」と呼ばれる幻像創造力でありまして、この力を一名、マーヤーとも申します。

 イヴン・アラビーの場合、本来絶対無分節の純粋存在が、分節されて現われる、そうわれわれに見える、というのではなくて、事実上、もっと積極的に、無分節の純粋存在が、自からに内在する本性的な現象衝動に突き押されて、自らを分節して現われる、と考えるのであるからです。

経験的世界出現の原理
 イヴン・アラビーの内在的衝動→「慈愛の息吹き」→神の形而上的愛 「無知」「無明」ではない。

 この点から、一般に存在一性論では、経験的事物の存在を「転義的存在」とか、「虚構的存在」とか呼び、特にモッラー・サドラーは経験的世界に存在するすべての事物を「関係だけ」と呼びます。


 縦の存在関係を特に「照明的関係」と呼びます。

イブン・アラビー
 「いわゆる経験的世界こそ秘密である。永遠に隠れた何ものかである。反対に絶対的真実在は永遠にあらわなるものであって、決して隠れるということはない。普通の人はこの点で完全に間違っている。」

イブン・アラビーと存在一性論者たち
 「存在」とは、無限に異なる形を通して自らを顕現して止まぬ唯一の創造的リアリティーということになります。

 この存在顕現の段階的過程を構造的に把握したものが存在一性論の形而上学にほかならないのであります。

イブン・アラビーの「有無中道の実在」はそのままの形では感覚界にはまったく実在していないという意味です。

 動と静の同時現成、これが全存在界の無時間的次元での一挙顕現なのです。

 存在一性論的に表現しますと、自己顕現は偶成的に存在に起こってくる動きのようなものではなくて、存在リアリティーそのものの構造に深く根ざした内在的、本源的な力動性なのです。

存在一性論の形而上学は、徹頭徹尾、存在顕現の構造学であり、観想意識の現象学なのであります。




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