プロローグ――生命現象とは何か
(米国では)九〇年代になって、科学研究のあり方や友人の流れなどが確実に変化しています。学位を取った若い頭脳は、これまでならポスドグ(博士研究員)という修行時代を経て、大学に職を求めましたが、最近のポスドグの多くはベンチャー企業に流れています。
それは、端的に言えば、バイオつまり生命現象が、本来的にテクノロジーの対象となり難いものだからである。工学的な操作、産業上の規格、効率よい再現性。そのようなものになじまないものとして生命があるからだ。、
第1章 脳にかけられた「バイアス」――人はなぜ「錯誤」するか
シェーンハイマーは食べ物に含まれる分子が瞬く間に身体の構成成分となり、また次の瞬間にはそれは身体の外へ抜け出していくことを見出し、そのような分子の流れこそが生きていることだと明らかにしていたのだ。
つまり、ビデオテープの存在を担保するような分子レベルの物質的基盤は、脳のどこを探してもない。あるのは絶え間なく動いている状態の、ある一瞬を見れば全体として緩い秩序をもつ分子の「淀み」である。
そこには因果関係があるのではなく、平衡状態があるにすぎない。私たちが「記憶の想起」と呼んでいるものも、実は一時点での平衡状態がもたらす効果でしかない。
ここに記憶というものの正体がある。人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、「想起した瞬間に作り出されている何ものか」なのである。
細胞の中身は、絶え間のない流転にさらされているわけだから、そこに記憶を物質的に保持しておくことは不可能である。
ここで重要なポイントは、私たちが時間の経過を「感じる」、そのメカニズムである。
つまりタンパク質の新陳代謝速度が、体内時計の秒針なのである。
そしてもう一つの厳然たる事実は、私たちの新陳代謝速度が加齢とともに確実に遅くなるということである。つまり体内時計は徐々にゆっくりと回ることになる。
人間の脳は、ランダムなものの中にも何らかのパターンを見つけ出さずにはいられない。
幼児期、脳ができはじめるとき、神経細胞は四方八方に触手を伸ばして手当たり次第連結を作り出し、できる限り複雑な回路網を作り出す。もともと準備されるのはここまでである。
第2章 汝とは「汝の食べた物」である――「消化」とは情報の解体
私たちは、たとえ進化の歴史が何億年経過しようとも、中空の管でしかないのだから。
なぜなら、合成と分解との動的な平衡状態が「生きている」ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ「効果」であるからだ。
サスティナブル(持続可能性)とは、常に動的な状態のことである。
ならば、コラーゲンを食べ物として外部からたくさん摂取すれば、衰えがちな肌の張りを取り戻すことができるだろうか。答えは端的に否である。
そして、その背景には、生命をミクロな部品が組み合わさった機械仕掛けと捉える発想が抜き差しがたく私たちの生命観を支配していることが見て取れる。
神経の新しい回路が形成されるというのは、具体的に言えば、神経と神経が触手を伸ばし合って接点ができ、そこに繰り返し電流が流れるという刺激が強化されることによって、その接点がより確実なものになることを言う。節点のことをシナプスと呼ぶ。
必須アミノ酸とは、動物が自分の体内で製造できないもの、非・必須アミノ酸は体内で製造できるものである。コラーゲンは非・必須アミノ酸なので、ヒトは体内で製造できる。
したがつて、私たちにとって「身体にいい」食べ物とは、必須アミノ酸をバランスよく含んでいる食材ということになる。身近な所では鶏卵がその代表と言える。
「ペニー・ガム」的な、インとアウトを付き合わせただけの線形思考からは、生命のリアリティは何も見えてこない。
これは何も消化管内だけのことではない。世界のあらゆる場所に、容易には見えないプロセスがあり、そこではグジャグジャの、つまり一見、混沌に見えて、その実、複雑な動的平衡が成り立つリアリティが生じているはずなのだ。
第3章 ダイエットの科学――分子生物学が示す「太らない食べ方」
心臓と肺を動かし、体温を維持し、基本的な代謝を円滑に動かすための熱量で、これを基礎代謝量と呼ぶ。成人で一日当たりおよそ二〇〇〇キロカロリー。この範囲の熱量ならばどれほど食べても燃やされてエネルギーとして消費されるので、体重は増えない。
生命現象を含む自然界の仕組みの多くは、比例関係=線形性を保っていない。非線形性を取っている。自然界のインプットとアウトプットの関係は多くの場合、Sの字を左右に引き伸ばしたような、シグモイド・カーブという非線形性を取るのである。
ランゲルハンス島
食べ物をドカ食いすると一挙に血糖値が上昇し、インシュリンが大量に放出される。それが命令となつて脂肪細胞はしっかりエネルギーを溜め込む。
逆に、できるだけインシュリンが出ないように「だましだまし」たべることができれば、その分、脂肪細胞が受け取る命令は少なくなる。つまり太りにくくなる。
私たちの祖先は常にお腹を空かせ、朝起きれば、今日はどのように食糧を手に入れるべきかにばかり頭を悩ませていた。生存が唯一最大の生きる目的だったのである。
サプリメントを欠かさず飲んで、不足がちな栄養素を補うという行為は、栄養障害でもなんでもなく、むしろ強迫的な神経症状に近いと言える。
タンパク質は貯蔵できない。なぜならタンパク質(正確に言えばその構成要素であるアミノ酸)の流れ、すなわち動的平衡こそが「生きている」ということと同義語だからである。
トリプトファンというアミノ酸ひとつとっても、過ぎたるは及ばざるが如し。これは分子レベルでも有効な諺なのだ。普通の食事をしている限り、トリプトファンが不足することなどあり得ないのだから。
第4章 その食品を食べますか? ――部分しか見えない者たちの危険
食品を数日間腐りにくくすることと、とりあえずの安全性だけを求めた食品添加物の使用は、生命活動を機械論的に捉える人間の部分的思考に基づくものに他ならない。しかも、こうした添加物の使用が始まって、そう長い時間が経っているわけではない。私たちは壮大な人体実験を受けているようなものなのだ。
そこで、モンサント社は「ラウンドアップ」に耐性を持つ遺伝子を大豆に組み込んだ。
動物にしろ植物にしろ、仮にその生命が機械論的構造を有しているとしても、それは昨日今日作られた機械ではない。三八億年をかけて改良を積み重ねた生命の歴史の完成形として存在しているのである。つまり、三八億年の最適化の結果なのだ。
第5章 生命は時計仕掛けか? ――ES細胞の不思議
まして細胞全体を見渡し、どの細胞が何になるべきか、鳥瞰的な視座から指揮を下している者がいるわけでもない。
ノンストップで細胞分裂を繰り返している初期胚を立ち止まらせる何かいい方法はないか。多くの研究者がさまざまな試行錯誤を繰り返した。
胚の内部で、細胞はお互いにコミニュケーションしながら、将来、身体のどの部分を担当するのか役割分担を決めていく。これを分化と言うが、細胞塊をばらされてしまうと、当然のことながら細胞間のコミニュケーションはその瞬間、失われてしまう。一つづつ離れ離れにされてしまった細胞はまわりの「空気が読めなくなる」のであるる
つまり、生命とは機械ではない。そこには、機械とは全く違うダイナミズムがある。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つ機能――それを、私は「動的平衡」と呼びたいのである。
私は、このような生命操作技術は、あくまで生命のメカニズムを探るための基礎研究の手段に限られるべきだと考えており、商業的に利用されたり、性急な医療目的に使用されたりすることには反対である。
第6章 ヒトと病原体の戦い――イタチゴッコは終わらない
大量のニワトリを一ヵ所で閉鎖的に飼うような近代畜産のあり方は、インフルエンザ・ウィルスに、進化のための格好の実験場を提供しているようなものである。
第7章 ミトコンドリア・ミステリー ――母系だけで継承されるエネルギー産出の源
人体は約六〇兆個の細胞からなっているから、私たちの身体には京という単位の、恐ろしく膨大な数のミトコンドリアが棲息していることになる。
卵子と精子が出合って合体するとき、精子からはそのDNAだけが卵子の中に入る。精子のミトコンドリアは卵子に入り込まない。だから新たにできた受精卵の内部のミトコンドリアはすべて卵子由来、つまり母親のものである。
私たちの細胞の中で生き続けているミトコンドリアは、全人類共通の太母が十六万年くらい前にアフリカにいたのだと教えている。
第8章 生命は分子の「淀み」――シェーンㇵイマーは何を示唆したか
これ等の営みの背景にデカルト的な、生命への機械論的な理解がある。
生命が、「可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである」という古くて新しい視点
生命が分子レベルにおいても(と言うよりもミクロなレベルではなおさら)循環的でサスティナブルなシステムであることを、最初に「見た」のはルドルフ・シェーンハイマーだつた。
標識アミノ酸は、ちょうどインクを川に垂らしたように、「流れ」の存在とその速さを目に見えるものにしてくれたのである。つまり、私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツ゚ではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にあるという画期的な大発見がこの時なされたのであった。
個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかし、ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかないのである。
生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常につくり変えられ、更新され続けているのである。
ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。
つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありようをダイナミック・ステイト(動的な状態)と呼んだ。私はこの概念をさらに拡張し、生命の均衡の重要性をより強調するため「動的平衡」と訳したい。
ここで私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることが出来る。「生命とは動的平衡にあるシステムである」という回答である。
そして、ここにはもう一つの重要な啓示がある。それは可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。
サスティナブルは流れながらも環境との間に一定の動的平衡状態を保っている。……このように考えると、サスティナブルであることとは、何かを物質的・制度的に保存したり、死守したりすることではないのがおのずと知れる。
動的平衡にあるネットワークの一部分を切り取って他の部分と入れ替えたり、局所的な加速を行うことは、一見、効率を高めているかのように見えて、結局は動的平衡に負荷をあたえ、流れを乱すことに帰結する。
実質的に同等に見える部分部分は、それぞれが置かれている動的平衡の中でのみ、その意味と機能をもち、機能単位と見える部分にもその実、境界線はない。
こうした数々の事例は、バイオテクノロジーの過渡期性を意味しているのではなく、動的平衡としての生命を機械論的に操作するという営為の不可能性を証明しているように、私には思えてならない。
動物たちは思考や意識を持たない機械ではない。そんなことはずっと昔からわかっていたはずなのに、今、私たちはそのことを深く考えようとはしていない。ワトソンは言う、「問題は動物には意識というものがないと、私たちが何時の頃からか思い込んでいることだ」と。
ワトソン『エレファントム』『思考する豚』
自然界は歌声で満ちている。象たちは低周波で語り合っている。
ペインが低周波録音を思い付いたのも、象舎の中に「空気の震え」あるいは「無音の轟き」のようなものを感じたからだと言う。
生命はそのことをあらかじめ織り込み、ひとつの準備をした。エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという自転車操業的なあり方、つまりそれが「動的平衡」である。
したがって「生きている」とは「動的平衡」によつて「エントロピー増大の法則」と折り合いをつけているということである。換言すれば、時間の流れにいたずらに抗するのではなく、それを受け入れながら、共存する方法を採用している。
生命は、こうして、不可避的に身体の内部に蓄積される乱雑さを外部に捨てている。この精妙な仕組みこそが、生命の歴史が三八億年をかけて組み上げた、時間との共存方法なのである。
サスティナビリティを阻害するような人為的な因子やストレスをできるだけ避けることである。つまり「普通」でいるということが一番であり、私たちは自らの身体を自らの動的平衡にゆだねるしかない。
私たちの身体がその「流れの淀み」であるなら
「ロハス」とは、健康と地球環境の持続性とに配慮した生活様式という意味で……
ここには文字通りロハスの思考がある。私はそう思った。ロハスの考え方は、何かを禁止したり、命令するものではない。むしろ、私たちの考え方にパラダイム・シフトをもたらすものだ。そのシフトとは、端的に言えば、線形性から非線形性へ、機械論から動的平衡へということである。
あとがき
しかし何かがはじまるとき、そこに具体的な形の輪郭はない。形はあらかじめ与えられるのではなく、他律的にだんだんと進み、それは常に動きながら、あやうい動的平衡の上に成り立つ。
間絶なく流れながら、精妙なバランスを保つもの。絶え間なく壊すこと以外に、そして常に作り直すこと以外に、損なわれないようにする方法はない。
*二〇一八年十二月十八日抜粋終了。
正確に言うと
みずから動的な非平衡を作るという事ですね。
妙に納得してしまいます。
「すうがくでせかいをみるの」
「もろはのつるぎ」