「ものには去るということも無く、来るということも無く、移り変わるものなど何もない」『放光般若経』
理解力のより劣っている人は、手を叩いて一笑に付し、真理そのものに対して無関心なのである。
だから如来は衆生の心のとらわれている状態にしたがって、それに応じた言葉にもとづきながら、その惑いをのぞき、ただ一つの(対立を超えた)真心のはたらきのままに、さまざまなすぐれた教えを説くのである。
だから、如来の(衆生を利益する)功(はたらき)は多くの世を歴(へ)て常に変わらないのであり、
そもそも至虚無生(一切は空にして実体がない)ということは、思うに、これは般若という玄妙な鏡に映し出された物の本質的なあり方であって、ありとあらゆるものの窮極のすがたである。
(聖人は)万物の根源となる力を明らかにして、ものの変化を観察するのであるから、いかなることに出遭っても順応し適合するのである。
であるから、万物と自己とは根源が同じなので是と非も源は一つなのである。この真理は奥深く玄妙であり、多くの人びとにとって理解しがたいものである。
名称というのは、物に与えられてはいても、それがそのまま真実をいっているのではない。だから、真理は概念の世界をまったく離れているのである。どうして文字や言葉によって言い表わすことができようか。
「あらゆるものは特質があるのでもなく、またとくしつがないのでもない」『大智度論』
「あらゆるものは存在するのでもなく、存在しないのでもない」『中論』
「物質は本質的に空であって、物質が消滅してはじめて空になるのではない」『維摩経』
「最高の真理にあっては完成される何ものもなく、獲得される何物もない。世俗の真理にあってこそ完成があり、獲得がある」『放光般若経』
「心は有るのでもなければ無いのでもない」『道行般若経』
「あらゆるものは、さまざまな依存関係によって存在しているともいえるし、あらゆるものはさまざまな依存関係によって存在していないともいえる。」『大智度論』
「あらゆるものは仮りに名づけられたものであって実体はないのである」『放光般若経』
「彼れ此れの区別はない」『中論』
しかし、この道理を理解できないものは、必ず一方に決めようとするのである。
「強いて名づける」『成具教』
「世尊よ。実にすばらしいことである。究極の真理が、そのままあらゆる存在を成り立たせている」『放光般若経』
この道理を体得すれば、そのまま聖人の境地である。
「般若はいかなる特徴もなく、生じたり滅したりする特徴も無い」『放光般若経』
「般若は何ものも知覚することがなく、何ものも見ることがない」『道行般若経』
「聖人の心は知られる何ものもなく、知られない何ものもない」『思益梵天所間教』
智慧は(固有の対象を)知覚することがないから、はるかに事象を超越して洞察することができるのである。
「(仏は)心や意識のはたらきをなくして、しかも、現にはたらいている」『維摩経』宝積長者
維摩経
『維摩経』 (ゆいまきょう、梵: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ[1])は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。
サンスクリット原典[2]と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。
日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。
概要
維摩経は初期大乗仏典で、全編戯曲的な構成の展開で旧来の仏教の固定性を批判し在家者の立場から大乗仏教の軸たる「空思想」を高揚する。
内容は中インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。
維摩が病気[3]になったので、釈迦が舎利弗・目連・迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。
維摩経は明らかに般若経典群の流れを引いているが、大きく違う点もある。
• 一般に般若経典は呪術的な面が強く、経自体を受持し読誦することの功徳を説くが、維摩経ではそういう面が希薄である。
• 般若経典では一般に「空」思想が繰り返し説かれるが、維摩経では「空」のような観念的なものではなく現実的な人生の機微から入って道を窮めることを軸としている。(ウィキペディア)
「まことの般若は虚空のように清浄であり、知ることもなく、見ることもなく、はたらきもなく、対象もない」『大品般若経』
「物を対象として知識が生ずるのではない。これを物を見ないというのである」『放光般若経』
「物は依存関係によって存在するのであるから、真実のものではない。依存関係によって存在するのではないから、真実のものであるる」『中論』
「いかなるものも条件によらないで生ずることはありえない」『般若経』
答えていう、作用はすなわち本質であり、本質はすなわち作用である。作用と本質はもともと一つのものである。
「為すことなくして為すにまさる」『成具教』
「思うこともなく知ることもないが、知覚しないのではない」宝積童子
これこそが精神を窮め智慧を尽くし、言外の意味を極めた論議である。この経の明文によって
聖人の心を理解することができるのである。
そもそも、名称を与えることができないから、いかなるものにも名称を与えることができるということは、最高の名称の与え方といえましょう。
聖人の道がいかなる比較をも絶しているのであるから、心のはたらきを窮め、物事の筋道を極めることができるのです。
だから、経に「聖人の智は、知ることがなくして、しかも知らないことはなく、為すことがなくして、しかも為さないことはない」(『思益梵天所間経』)といっています。これこそ言葉もなければ形もない、寂滅の道なのです。
執着することがないから、名称にはもとづくところがありません。名称にもとづくところがないのであれば、聖人は知ることが有るとはいえません。物がいみじくも存在し、それが真実であるならば聖人は知ることが無いとはいえません。だから、『般若経』に「般若の智慧はあらゆるものに対して執着することもなく捨てることもなく、知ることもなく知らないこともない」といっています。したがつて、般若はいわゆる認識として対象をとるものではなく、いわゆる心の領域に属するものでもありません。それを有るとか無いとかという言葉の上だけで問い詰めようとするのは、実に迂遠な議論というほかありません。
*平成二十八年九月六日抜粋終了
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