1
第一章 形而上学の除去
これ等の少数の例だけで、大部分の形而上学的発言がおこなわれるようになるしかたについての十分な指示を与えている。それ等は、字義上の意味を有しない文章を書き、しかもその無意味さに気がつかないでいることが如何にやさしいかを示す。
詩人の作る文章は、大多数、字義上の意味を持っている。言語を科学的に使用するものと、情緒的に使用するものとのちがいは、前者が情緒をよびおこすことが不可能な文章をつくり、後者が無意味な文章をつくることにあるのではなく、前者が何よりも先ず真な命題を表現することに関心を持ち、後者が芸術作品の制作にかかわっていることにあるのである。
第二章 哲学の機能
そして実際、帰納的に一般化されたものをその前提としてえらぶことが、哲学における体系建設者たちの習慣となることは、決してなかった。正しくも、そのように一般化されたものはただ確からしいものであるにすぎないとみなすから、彼等はそれを、彼等が論理的に確実であると信じた原則に従属させるのである。
このことはデカルトの体系においてもっとも明らかに示されている。
直接に与えられたものを記述する命題の上に演繹体系を基礎づけようとする試みは、それが如何なるものであろうとも、失敗に終わらざるを得ないことになる。
ア・ブリオリな真理は、同語反復なのである。
このような想像をする人は、思弁的知識の対象でありえてしかも経験科学の範囲の外にある事物がこの世の中にあるという信仰をかたくいだいている。しかしこの信仰はまやかしものである。
これで我々は、思弁哲学を完全に打倒した。
帰納の問題とは、大ざっばにいって、過去の経験から導き出された、ある経験的な一般化が将来においてもまた有効でありつづけること、を証明する方法を発見する問題である。
かくして、普通そう思われている通り、帰納の問題を解決する方法はありえないことが明らかになる。このことは、帰納の問題がつくりものの問題であることを意味する。というのは、ほんものの問題はすべて、少なくとも理論上からは、解決されなくてはならないからである。
そうして、哲学者の中には、依然としてこの問題に悩まされているものもあるという事実によって、自然科学の信用は、きづつけられはしない。実際、自己整合性という必要条件を満足している科学的な手続きの形式が受けなければならない唯一のテストは、その形式が実践において成功するかどうかというテストである、ということを、我々は間もなくみるであろう。
何故なら、この言葉(哲学)を我々が定義する時に当っての全ての心づかいを以ってしても、人々をして、我々が哲学的と呼ぶ活動と、彼等が哲学者と見なすように教えられてきた連中の形而上学的な活動とを混同することを、まぬがれさせはしないからである。だから、知識の一特殊部門の名前としての「哲学」という言葉はまつたくすててしまって、我々が哲学的活動と呼びたい活動に対しても、何か新しい言い表し方を考え出す方が、確かに賢明なことであろう。
しかし実際のところ、分析的方法の有効性は、事物の本質についての如何なる経験的な仮定にも、況んや如何なる形而上学的な仮定にも依存するものではない。何故なら、分析家としての哲学者は、直接事物の物理的な特性に関心を持ちはしないからである。彼はただ、我々がそれ等について語る語り方にのみ関心を持つのである。
哲学の命題は、その性質上、事実的(factual)ではなく、言語学的である。すなわちそれ等は、物理的対象のあるいは精神的対象さえもの動き方(behaviour)を記述はせず、定義乃至定義の形式的な結果をいいあらわすのである。
第三章 哲学的分析の本質
我々が一つの記号に対しこれと同義な記号乃至記号的表現を提出する時、我々はこの記号を釈義的に定義しているのである。
というのは、我々がすでにいったように、哲学者は主として、釈義的な定義の供給ではなく、用法的な定義の供給にたずさわるものだからである。
我々が記号を用法的に定義するのは、それが他の記号と同義であるということによってではなく、その記号が有意味に表れている文章が如何にして、被定義項それ自身も、またそのどんな同義語もその中に含まれていないような、等値文章に翻訳されうるかを示すことによってである。この手続きのよい例解が、バートランド・ラッセルのいわゆる確定記述の理論によって与えられている。
彼等が形而上学に陥るのは、確定的な記述句は指示的な記号であるとする素朴な思い込みの結果だからである。
一般に哲学的な定義の目的は、我々の言語におけるあるかたの文章に対して我々が不完全な理解をしていることから生ずる混乱を、消去するにあると言ってよいであろう。
それ故我々は、任意の特殊な哲学的「理論」、ラッセルの「確定記述の理論」のようなものを、与えられた言語の構造の一部分の開示とみなしてよい。
「物質的事物の本質は何であるか」という問題は、定義を求めるものなのだから、このかたちの任意の問題と同様、言語学的な問題である。そしてその答えとして提出される命題は、たとえ事実に関するものと見えるように表現されるかもしれないにせよ言語学的な命題である。それは、記号間の関係に関する命題であって、記号の指し示す事物の特質についての命題ではない。
第四章 ア・プリオリなもの
我々がとってきた哲学上の見地は、経験論の一形態であると言って構わないと思う。何故なら、すべて事実的な命題は感覚―経験を志向するものでなくてはならないという理由により形而上学を避けるのが、経験論者の特徴だからである。
言葉を変えていえば、論理学と数学との真理は分析的命題即ち同語反覆なのである。これは非常に議論の余地のある陳述であると思われるであろう。
分析的命題は「述語によって主語に何ものをも付け加えず、ただそれを構成概念にわけるにすぎず、この構成概念は混乱した形においてではあるが、すでにその主語の中で考えられていたものなのである」と彼(カント)は説明する。総合的判断はこれに反し「主語に、その中で全く考えられていず、これを分析しても出て来ないような述語を付け加えるのである。」
カント
分析判断の例→「すべての物体は延長されている」
総合的判断の例→「すべての物体は重量がある」
すなわち彼(カント)はこれ等の例の中第一のものには心理的な基準を用い、第二のものには論理的な基準を用い、しかもそれらの等値を当然のこととしているのである。
すなわち、命題はその有効性がその含む記号の定義にのみ基づいている時、分析的であり、その有効性が経験の事実によって決定される時、総合的である。
こうして我々はカントの先験的感性論を、それが普通含んでいるといわれている認識論的な難点を受け継ぐことなしに、しりぞけることが出来る。何故ならばカントの学説を支持する唯一の論拠は、その学説のみがある種の「事実」を説明しているということだったからである。というのは我々が必然的な命題のア・ブリオリな知識を持っているというのは本当ではあるが、カントが想像したようにこれ等の必然的命題の中には総合的な命題があるということは本当ではないからである。必然的命題は例外なしに分析的命題、いいかえれば同語反覆である。
ヴィトゲンシュタインがいっているように、世界が論理の法則にしたがわないということは考えられないということが正しいのは、単に我々が非論理的な世界が如何に見えるであろうかをいいあらわすことが出来ないからに外ならない。
ポアンカレがいっているように「数学が述べている確言がすべて次々に形式論理によって演繹されうるならば、数学は莫大な数の同語反覆以外の何ものでもない。論理的な推論は本質的に新しいことは何も教えない。
全知の存在は論理と数学を要しない。(ハンス ハーン)
経験論の主張
〈現実に関してはア・ブリオリな知識は有り得ない>
ある命題がア・ブリオリに真理であるということは、それが同語反復(トートロジー)であるということである。同語反覆は我々の知識を経験的に求める際我々を導くのに役立つかもしれないが、それ自身では事実に関する如何なる情報も含まないのである。
第五章 真理と確からしさ
ア・ブリオリな命題の有効性
経験的命題の有効性を決定する方法
そこで我々は、普通考えられているような真理の問題は存在しないと結論する。「実在的な性質」または「実在的な関係」としての真理の伝統的な概念は、哲学上の誤りの大部分と同様、文章を正確に分析することが出来なかったため生じたのである。
絶対的に確実な経験的仮説が存在しないことは今や明らかであろう。確実であるのは同語反覆のみである。
第六章 倫理学と神学との批判
普通の倫理学体系の四つの主な集合
❶倫理的な術語の定義を表現する命題、あるいはある定義の妥当性乃至可能性に関する判断。
➋道徳的な経験の現象とその原因とを記述する命題。
❸道徳的な徳行への奨励。
❹本当の倫理的な判断。
❶のみが倫理哲学を構成するものである。➋は心理学乃至社会学に割り当てられるべきものであり❸は命題ではなく、哲学や科学の如何なる部門にも属さないものであり❹については倫理哲学に属さないのであるから、いまだ未決定である。
しかしすべて普通人が倫理的な判断をするといわれるような場合には、関係してくる倫理的な言葉の機能は純粋に「情緒的」なのである。それはある対象についての感情を表現するのに用いられるが、その対象についての確言をなすために用いられてはいないのである。
我々はすでに《倫理的判断の有効性はその判断を下す者の感情によっては決定されない》というのが、普通の主観主義理論に対する主な反駁であることを述べておいた。
倫理判断は単に感情の表現に過ぎぬ故如何なる倫理体系の有効性を決定する方法もあり得ず、そのような体系が真であるか否かを問うことには実際意味がないことになるからである。
論理的に確実なのはただア・ブリオリな命題のみであるけれども、我々はア・ブリオリな命題から神の存在を演繹することはできない。何故ならば我々はア・プリオリな命題が確実であるのは、それが同語反覆である故であることを知っているからである。そして同語反覆の一組から有効に演繹されるものはまたしても同語反覆のみである。そこで神の存在を論証する可能性はないということになる。
我々が確立したいと思う点は、宗教の超越的な真理というようなものは有り得ないということである。何故ならば有神論者がそのような「真理」を表現するのに用いる文章は字義上の意味を持たないからである。
神が見えると確言する人がある特別な種類の感覚―内容を経験していることを確言するに止まるならば、我々は彼の確言が真でありうることはいつ何時と言えども否定はしないと答えよう。しかし普通には《神が見える》という人は、ただ単に《自分は宗教的情緒を経験している》と言っているばかりではなく、《この情緒の対象である超越的なものが存在する》ということをも又いっているのである。
何故ならば、「ここには黄色の色をした物質的な事物がある」という文章は経験的に検証されうる本物の総合的命題を表現しているのに反し、「超越的な神が存在する」という文章は、我々が見てきたように、字義上の意味を持たないからである。
有神論者も道徳学者と同様彼の経験は認識的な経験であると信ずるかもしれない。しかし彼が彼の「知識」を経験的に検証可能な命題の形で述べることが出来るのでなければ我々は、彼は自らを欺いているのである、と確言してよい。
第七章 自己と共通世界
この問題に関して我々が主張しているのはただ、《すべて感覚―経験の内容の記述は経験的な仮説であって、その有効性に対しては保証があり得ない》と言うことだけである。
我々の経験主義はヒュームやマッハが採用したような原子論的な心理学には論理的に何の関係もなく、それは、実際に我々の感覚領域の特徴をなすものに関する如何なる理論とも両立するものである。何故ならば、我々が組している経験主義的学説は、分析的命題と総合的命題及び形而上学的な言葉使いの間の区別に関する論理的な学説であって、その限り事実に関する如何なる心理学的な問題とも関係がないからである。
我々は我々の感覚を主観、作用、客観の概念によって分析する実在論的なやり方をうけいれないことを明らかにしておかなくなくてはならない。
それ故我々は感覚―内容を客観としてではなく感覚―経験の一部分として定義するのである。
したがつて感覚―内容や感覚―経験については、その「存在」についてよりもむしろその「生起」について語り、かくして感覚―内容をあたかも物質的事物であるかのように取り扱う危険を避けることが常に懸命なことと思われる。
認識や行為における心と物質との間の「深淵」に橋を架け渡す可能性に関して哲学者達が過去において自らを悩ませてきた問題はすべて、心と物質または心と物質的な事物とについての無意味な形而上学的な概念、たとえば「実体」というような概念から生じてきた作り物の問題である。
何故ならば「死後の生涯」を期待する人々によって生き残ると考えられるのは、経験的な自己ではなく形而上学的な本体――魂であり、この形而上学的な本体については何ら本物の仮説を述べることはできず、それは自己とは如何なる論理的なつながりも持たないものだからである。
我々が主張するのは《自己は感覚―経験に還元しうる》ということであるがこれは《自己について何事かを言うことは常に感覚―経験について何事を言うことである》という意味である。そうして我々の人格の同一性の定義は如何にしてこの還元が可能となるかを示すようにもくろまれている。
第八章 哲学上の主要な論争の解決
この論文の主な目的の一つは、《哲学の本質の中には相争っている哲学的な党派または「学派」の存在を保障するものは何もない》ことを示すことであった。
さて今考察しようとしている問題は、合理論者と経験論者との論争、実在論者と観念論者との論争、一元論者と多元論者との論争、についての問題である。
合理論と経験論
合理論者によって主張され経験論者によって斥けられるところの形而上学的な教説は、《超―感覚的な世界が存在してこれは純粋に知的な直観の対象であり、これのみがまったき意味で実在的である》というのである。
実在論と観念論
《事物は、それがなお神に知覚されるかぎりにおいては、いかなる人間によっても知覚されない時も存在しうる》(バ-クレイ)と認めたのである。
我々は事物は感覚―内容の集まりとしてではなく、感覚―内容からの論理的構成として定義すべきであることを見てきた。……感覚―内容それ自身が精神的であるとかないとかいうことは意味をなさない。
《感覚―経験において直接与えられるものは必然的に精神的なものでなくてはならない》とする観念論的な見解は、歴史的には、デカルトの誤りから生じてきたものであると私は思う。というのは彼は《自分自身の存在は精神的な本体、思考、の存在から演繹できるし、しかもその際物体的な本体の存在を仮定しないで済ませうる》と信じたものだから《自分の精神は物体的なものからはまったく独立した実体であり、それ故精神はそれ自身に属するもののみを直接経験できるのである》と結論した。
《感覚の対象は精神的なものである》バークレィ
一元論と多元論
これは《真の命題は任意の外の真なる命題から演繹されうる》ということであり、それ故《真の命題を表現する任意の二個の文章は等値である》ということになる。このようにして「真理」及び「実在」という言葉をお互いにチャンポンに使う癖のある一元論者達は《実在は一つである》という形而上学的な確言をするようになったのである。
《記号「A」を主語とし記号「P」を述語として作られる文章は分析的命題を表現する》
序 論
其の他の点に関して私の哲学の概念を説明するには実例を指し示す以上に優れた手段を見つけることは出来ない。そしてそのような実例の一つがこの本に述べられている論証なのである。
訳者あとがき
そもそも論理実証主義とは、一九二〇年代に、ヴィーンにシュリックを中心として起こった科学的哲学のグループ、いわゆるヴィーン学派とその同調者、ならびにナチスの圧迫による同学派の解散以後において、同学派の後継者と目されている人々の、思想傾向に対して与えられた名前である。それは、古来の哲学界における、さまざまな傾向の対立を前にして、次の二点を指摘することから出発した。
❶ 哲学上の論争の大部分は、言語のあいまいな使用にもとづく、無意味な問題設定に由来するものである。
➋ 古来、真の哲学に要求せられてきたこと、そうしてまた、偉大な哲学者の行ってきた仕事の最良の部分は、現実の認識に、客観的な検証に堪えうる明瞭な定式化を与えることを目標として、諸科学の理論や日常の諸信念の言語表現を、論理的に分析することにあった。
……、経験科学の進歩による我々の認識の拡大は認めつつも、「何かの意味で、超越的なものを導入しなくては現実の認識の可能性は十分には説明できない」として、形而上学の建設を志した従来の哲学を否定する結果であると考えられた。そこで初期の論理実証主義者は、この「整合的経験論の立場」から、一切を「感覚―内容」に還元する「現象主義」のみが真の哲学の名に値するものであると説き、伝統的哲学の成果の大部分を、無意味なものとして退けるに至った。
……純哲学畑出身のエイヤーは、英国経験論の本領が、鋭い論理的分析にあることを自覚し、その方向を発展させることによって、ヴィーン学派と同様の結論に達したのである。
論理実証主義は
思想の整理のための方法論の建設
に発展した。
「現象主義」の優越性を強調するあまり、他の世界観に基づいて科学的認識の成果を組織的に記述する可能性を全然顧慮しないあたり、一面的であるともいえる。
*二〇一八年十一月三十日抜粋終了。
*学生時代に読みたいと思っていた本であるが、五十年経過して読むことが出来た。
*「哲学」とは、特にその形而上学は西洋流のおちゃらけ話なのであろう。
*事物について語る語り方。
*西洋流の「宗教」はかっぱらいの体系である。何故なら、芽は早々に宗教家の用意した体系によって摘み取られてしまうのだから。東洋ではその芽は摘み取られずに目の前につきつけられるるということは東洋には「宗教」はないことになる。