われわれの本源的条件とは、本質的に、絶えず自らを生み出しているような何かである。
言い換えれば、詩はいかに書かれるか……。
われわれが詩的創造の性質を正しく理解できない理由の根底には、こうしたインスピレーションの神秘の心理的問題への変化があるのだ。
当初から外的世界の実在の問題を提起していたヒンズー教の思想と異なって、西欧の思想は長い間、安閑として世界のリアリティを受け入れ、われわれが目にするものに対して疑問を抱かなかった。
ギリシャの物活論は後になってキリスト教の超越に変わる。
外的現実が疑問に付されるどころか、そこから観念や典型が湧き出る泉であるような社会(西欧)ではインスピレーションの正体をつきとめることは困難ではない。〈他の声〉や〈奇妙な意思〉とは、〈他者〉つまり神、あるいは神々や悪魔の棲んでいる自然なのである。インスピレーションは、神の力の表明であるがゆえに、啓示である。
デカルト以来、外的現実に対するわれわれ(西欧)の考え方は根本的に変わった。近代の主観主義は、ただ意識を介して見た外的世界の実在のみを主張する。
そして、観念論が外的現実を破壊していないところ――たとえば、科学の分野――では、それを対象に、つまり〈経験の場〉に変え、かくして、外的現実から以前の属性を剥奪してしまった。
それゆえ、外的現実に以前の聖なる力を戻そうとするような、おどろおどろしい概念を葬らんのとする、あるいは弱めようとする試みが、十九世紀を通して繰り返されたのも不思議ではない。
シュールレアリズムの最大の功績のひとつは、この商人的(ブルジョワ)美学の倫理的核心を摘発したことである。
近代詩の歴史は、近代の世界観と、時として耐え難いインスピレーションの存在との間で引き裂かれた、詩人の絶えざる分裂の歴史である。
ノヴァーリスが、「矛盾律を破壊することは、おそらく高等論理の最も高度な仕事であろう」と公言する時、彼は近代人を引き裂いている主体と客体の二重性を抹消し、かくして、一挙にインスピレーションの問題を解決する必要性を、その最も一般的なやり方でほのめかしているのではなかろうか?
「夢を見ながら同時に夢を見ないこと――天才の営為」。そして同時に、詩人のこの受容的な受動性は、この受動性が依拠するところの能動性を要求する。ノヴァーリスはこの逆説を印象的なことばで表現している――「能動性とは受容する能力である」。
詩の本質は継続的創造にあり、かくして、われわれをわれわれ自身の外に投げ出し、追い立てるように、われわれの極限的可能性にまで導いてゆくところにある。
インスピレーションを放棄することは、詩そのものを、つまり、この世における彼らの存在を正当化する唯一のものを放棄することであった。
ポーの『詩作の哲理』
そこ、意識の内奥に、つまり、崩壊することのない唯一の岩であり、世界の柱石である自我の中に、不意に、奇妙な要素、意識のアイデンティティを破壊するような要素が現われるのである。インスピレーションの問題が十全な形で提起されるためには、われわれの世界観が揺さぶられることが、つまり、近代が危機に陥ることが必要だったのだ。詩の歴史においてその瞬間はシュールレアリスムと呼ばれている。
シュールレアリスムの冒険は、主体と客体の葛藤を解消せんとするものであるがゆえに、近代世界に対する攻撃である。
シュールレアリスムのインスピレーションに対する考え方は、われわれの世界観の破壊として現われる。なぜならそれは、この世界観を形成している二つの名辞つまり主体と客体を、単なる幻想として摘発しているからである。
シュールレアリスムの真の独創性は、単にインスピレーションを思想に変えたというだけではなく、より徹底的に、〈世界観〉にまでしたところに存するのである。
もし芭蕉が十七世紀の日本に生きたのではなかったら、彼の作品は書かれることはなかったであろう。しかし彼の俳句が表現する静かな花に心を奪われるのに、禅宗の悟りを信ずる必要はない。
ポエジーは感じられるものではない。それは言われるのである。
それと同時に、その同じことばでもって、詩人は別のことを言う――人間を啓示するのである。この啓示こそあらゆる詩の究極的な意味であり、それが歴然と述べられることはまずないが、あらゆる詩的発話の基盤となっているのである。
神学が教会官僚の独占ではない社会
ギリシャ演劇の唯一のテーマは〈冒瀆〉、言い換えれば、自由とその限界、その処罰である。
宇宙の正義と人間の意志との戦い、両者の究極的和合、そして主人公たちの魂を引き裂く葛藤に対するギリシャ的概念は、存在を、ひいては、人間そのものを啓示している。それは、近代哲学がわれわれ(西欧)にもたらした人間観に見られる、地球への見知らぬ客人といった、宇宙の部外者としての人間でもないし、また、自然の力や神々の意志の単なる反映たる、盲目的構成要素のひとつとなって宇宙に埋没した人間でもない。
ギリシャ人ほど大胆に、かつ壮大に、人間の条件を解明しようとした民族は他にない。
ブルクハルトは、ギリシャの宗教の独創性はそれが詩人の自由な創作であって、聖職者の思弁ではないところにあると指摘している。
アナクシマンドロスの格言――すべての事物は自らの行き過ぎを償う――はすでに、ヘラクレイトスのポレミックな存在論――宇宙は弓や竪琴の弦のような、緊張状態にある――の萌芽を孕んでいた。世界は、「変動しつつ静止する」のである。
ポレミック(英:polemic)は特定の立場を支援するために反対の意見に敵対した意見を述べる議論のことを言う。また、論争好きな人、論客についてもいう。ポレミックはほとんどの場合、物議を醸すような話題の場合に議論され、より強い論争の場合に用いられる。英語のpolemicはギリシャ語であるπολεμικός (好戦的、敵対的)を語源とし、これはπόλεμος (戦争)という語から派生した。(ウィキペディア )
悲劇が説くのは無意識的な諦観ではなく、自発的な〈運命〉の受諾である。
〈運命〉を自覚することがわれわれを〈運命〉の重圧から解放し、われわれに宇宙の調和をかいま見させる唯一の方法である。〈自由〉と〈運命〉は正反対の、それでいて相互補完的な名辞である。その神秘は、まさに事物の本質に属している。ギリシャのペシミズムはキリスト教のそれとは次元を異にするのだ。
ギリシャ悲劇とは、まさに〈存在〉の基盤に対する疑問である――〈運命〉は神聖なのか? 人間は罪深いのか? 正義ということばの意味は何なのか?
詩人たち(ギリシャの)が、英雄神話と共に至高の自由をわがものにすることができたのは、まず第一に、教会の教義もなければ伝統的な真理の番人たる聖職者もいないという条件があり、第二に、アテネの民主主義的風土があったからである。しかし、自由に、勇敢な精神と大胆な視点が伴わなければ十分ではない。ギリシャ悲劇は人間の悲観的ヴィジョンを提示するが、同時に神々に対する批判でもある。
人間は創造物の番人であり、その使命は混沌の再来を防ぐことにある。ヘルダーリン
メネンデス・イ・ペラーヨは、当時のスペインは「神学者の国」であり、「修道院民主主義」の国であったと指摘しているけど、〈国家〉と〈教会〉が創造的思考に対してはめていた枷はかなり厳しいものだった。
ギリシャやイギリスの詩人の場合と違って、スペインの詩劇作家たちは、人間のあらゆる状況に適応しうる、出来合いの解答のストックを持っていた。われわれの詩人たちが自問することのなかった、あるいは、それに対してカトリックの教義があらかじめ解答を用意していたある種の問題――端的に言えば、人間と、宇宙に占める人間の位置に関わるもの――があるのだ。
*問いを奪ってしまう仕掛け→想定問答集
スペインの主人公たちの自由は、人間の本性に「ノー」を言うことによって成立している。ところが、ギリシャ悲劇においては、〈運命〉の肯定がまた、人間の悲劇的存在の肯定でもあるのだ。
スペインの演劇が人間の虚無性を唱えるのに対し、ギリシャ演劇は、人間の英雄的条件を称揚する。
これほど生き生きとした形而上的光輝を放つ演劇は――ギリシャ演劇と日本の能をのぞけば――他のどこにもない。
ラシーヌはわれに人間の透明なイメージを提示した、しかし、まさにその透明性が、曖昧な暗い部分、そこを通して、われわれがあらゆる人間の彼岸をかいま見ることのできる闇の真の入口を塞いでいるのだ。
ラシーヌの主人公たちは、動物的世界にも、また超自然的世界にもふれることのない抽象的な空間で、宙づりになって生きている。
古代の人びとにとって、世界は確固たる柱に支えられていた。そして、誰一人として外観を疑う者はなかった。なぜなら、誰も現実に対して疑いを抱かなかったからである。近代になるとユーモアが登場し、それが外観を解離して、非現実を現実的に、現実を非現実的にした。
要するに、この上なく粗野な妄心――政治的神話に見られるような――が実証的精神の裏面なのである。
ブルジョワ革命は人権を宣言したが、同時にそれを、私有財産と自由経済という名目のもとに蹂躙した。それは自由を神聖にして侵すべからざるものであるとしながら、金と絡ませてしまった。
哲学者は理性的秩序に従って思想を整理し、歴史家は、同じ厳格さでもって直線的に事実を語る。小説家は論証したり、物語ったりはしない――世界を再創造するのだ。なるほど、彼の仕事は出来事について語ることである――この意味では彼は歴史家に似ている――が、彼の関心は、起ったことを物語ることはなく、ある瞬間、あるいは一連の瞬間を蘇生させること、世界を再創造することにある。
リズムと意識の検討であり、また批判とイメージである小説は、曖昧である。
詩人の使命は、神と教主に「ノー」と言い、人間に「イエス」と言う運動の声となることである。新しい世界の聖書とは、神々からも領主からも解放され、もはや媒介者なしで、生と死に直面するような人間を啓示する、詩人のことばであろう。
*媒介者なしで、生と死に直面するような人間
シェリーにとっては、近代詩人は聖職者によって横領された以前の地位を回復し、ふたたび君主のいない社会の声となるだろう。
ハイネ=詩語に立脚した社会の到来
ノヴァーリス=宗教とは実践的な詩に他ならない。→詩は人類の本源的宗教である。
詩人の使命である本源的なことばを回復することは、とりもなおさず、〈教会〉と〈国家〉の協議以前の本源的宗教を回復することなのである。
詩人の使命は、聖職者と哲学者によってゆがめられた、ことばの原型を回復することである。
神話的歴史――聖なる記述――始原の記述。それは、時間以前の原型的時間の正体を明かす、始原的過去の啓示である。始原の記述にして予言――悠久の昔から今までそうであり、未来永劫にわたってそうであろうところのもの。
ブレイクやノヴァーリスのキリスト教ほど非正統的なものはないし、ボードレールのそれほど胡乱なものもないのである。そして亀裂と拒絶から、その世紀における最も辛辣な哀歌を作ったかの詩人――イシドール・デュカス――はさておくとしても、シェリー、ランボー、あるいはマラルメのヴィジョンほど、公認の宗教からかけ離れたものはない。
まず、詩人の語ることは現実的ではない――それは商品に還元しえないがゆえに、元来、現実的ではない。さらに、詩的創造は報酬を期待できないものである以上、職業でもなければ、仕事でも、あるいは明確な活動でもない。
詩人とポエジー、詩と読者、君とわたしといった二律背反の撤廃を実現するために用いられた手段のうち、最も徹底的なのが自動記述である。自我の殻が破れ、意識の障壁が壊され、そして、湧き出る泉のように、奥底から上がってくるもうひとつの声に支配された人間は意識の誕生によって、そこから引き離されてしまった〈あれ〉に戻るのである。
感知し、透視したという意味において、目の前の現実を地獄のような、円環的な運動形態と見なした最初の詩人はおそらくランボーであった。彼の作品は近代社会に対する断罪であるが、その最後のことば、『地獄の季節』はまた、詩に対する断罪でもある。
しかし、仮にそうでないとしても、そのテキストは現実に、『見者の手紙』や『イリュミナシオン』による認識の、詩的実践に対する検討であり、最後の審判である。
「ぼくは、今、自分の想像と記憶を、埋葬しなければならないのだ」ランボー
「絶対に、近代的でなければならない」ランボー
これ(マルクス主義)は希臘哲学の時代に始まる、西欧の政治的、倫理的思想の遺産であるだけでなく、われわれの歴史的本質の一部をなすものである。それを放棄することは、近代の人間がそうなることを希求した状態の放棄、つまり存在を放棄することになるのである。単に倫理とか政治哲学だけの問題ではない。マルクス主義は理性と歴史を調和させようとする、西欧思想の最後の試みである。
世界の中心は退去してしまい、神やイデアや本質は消え去ってしまった。われわれは孤独になった。宇宙の形姿は変わり、人間の自分自身に対する観念も変わった。が、それでも世界は相変わらず世界であり続け、人間も人間であることをやめていない。かつては、あらゆるものがひとつの全体をなしていた。今では、空間は拡大して散乱し、時間は不連続になった。そして世界は、全体は、こなごなに砕けてしまった。人間の分散、これまた散乱した空間を彷徨する、分散した自分自身の中を彷徨する人間の分散。解体し、それ自体から分離した宇宙、欠如としてしか、あるいは異質な断片の集積としてしか認識できなくなってしまった全体の中にあっては、自我もまた解体してしまう。
*右の文章は西欧世界の事どもであることは確かであろう。
科学技術はわれわれと世界の間に割って入り、あらゆる見通しを遮ってしまう。
科学技術にとっては、世界は原型としてではなく、抵抗としてそこに存在するのである。
古代の知の究極の目的は、それが感知しうる存在であれ、観念上の形姿であれ、リアリティの観照であった。一方、科学技術の知は、真のリアリティを機械の世界に変えようとする。過去の道具やからくりは空間の中にあったが、近代の機械がその空間を根本的に変えてしまった。
科学技術の時間は、一方では、古い諸文明の宇宙的リズムの破壊であり、他方では、近代の精密時計による時間の加速、そして遂には、抹殺である。どちらにしてもその時間は、計測はされても、表現されることをまぬがれている、不連続な目くるめく時間である。
要するに、科学技術はイメージとしての世界の否定に基づいている。そして、まさしくその否定によって科学技術は存在するのだ。科学技術が世界のイメージを否定しているのではない。そのイメージの消滅が科学技術を可能にしているのだ。
従って、科学技術は本来的に、世界のヴィジョンに基づいた、永続的な意味の体系たる言語ではない。それは一時的な、しかも不安定な意味を持った記号の集積である――現実の変質に適用された、そして、様々な抵抗に対処するため、様々な方法で組織された、活動の普遍的な語彙。
未来のイメージの喪失は過去の切断を意味する、とオルテガ・イ・ガセットは言った。
われわれの時代は、予見できる、あるいは想像しうる未来としての歴史の終熄の時である。
――われわれはいかなる時代に生きているのだろうか? こうした問いに確信を持って答えられる人がいるとは思わない。歴史的継起の、とりわけ第一次世界大戦以降のその加速化と、地球を同質の空間にしてしまった科学技術の普遍化は、ついに、あらゆる場所であるところのひとつの場所における、狂乱的な静止となって現われる。
われわれは他の場所なのである。
過去の文明は、〈他者性〉のイメージや認識を取り込んで、自らの世界のヴィジョンを構成した。
近代の宗教批判は、神的なるものを、唯一の人格をそなえた創造主たる神という、ユダヤ=キリスト教的概念に帰していることを、繰り返し確認しておくことは無駄ではあるまい。
要するに、宗教の概念自体が、他の文明の信仰にみだりに適用された西欧的なものなのだ。
数々の宗教――サーンキヤ学派・ヒンズー教・道教等――を、西欧的意味合いにおいて宗教と呼ぶことはほとんどできない。
西欧キリスト教社会の真の神は、他者に対する支配と名付けられる。それは世界と人間を、〈わたしの〉所有物、〈わたしの〉ものと考えているのである。
*イスラム教もまたかっさらってしまったのか、媒介者なしで、生と死に直面するような人間を。
「われわれは神を求めるには遅れて来たし、存在のためには早すぎた。」ハイデッガー
いずれにせよ、わたしは存在を、変化する存在を希求し、自我の救済を希求しない。わたしの関心を引くのはあの世の〈もうひとつの生〉ではなく、ここの生である。〈他者性〉の体験が、まさしくここにおける、〈もうひとつの生〉なのである。
ヘラクレイトスによるひとつのイメージがこの本の出発点であった。その終りにあたり、そのイメージがわたしの前に現われて来る――人間を聖化し、かくして彼を宇宙に位置づける竪琴、そして人間を彼自身の外に向けて発射する弓。
補遺
Ⅰ 詩、社会、国家
国家はある世界観を押しつけたり、他の世界観の発生を妨げたり、国家の威光を翳らせるような世界観を抹殺したりすることはできるが、それを創造するような豊かさは持ち合わせていない。
アステカ人の間に見られるように、国家の中に具現される宗教と、ローマ人におけるような、宗教を利用する国家とは同じではない。
国家はかって、真に価値のある芸術の創造者であったことは一度もなかったばかりか、それを自らの目的の道具に変えんとするときには常に、その本質を損ね、堕落させてしまったという事実が、歴史的に確認できるのである。
……マラルメなどは、自らの孤独を肯定し、その時代の大衆を拒絶することにより、創作者が望みうる最高のコミニュケーション、つまり後世とのコミニュケーションを達成する芸術家の例である。
Ⅱ 詩と呼吸
エチアンブルの主張によれば、詩的快感の起源はおそらく生理学的なものであり、より正確に言えば、筋肉および呼吸に関わるものである。
周知のように、日本人は短詩――五音節と七音節を――つくるが、アラビア人やヘブライ人はながい詩行を好む。詩を朗誦することは呼吸運動であるが、この運動はそれだけで終わるものではない。深い、十分な、健やかな呼吸は、健康やスポーツの実践であるばかりではなく、われわれが世界と合体し、宇宙のリズムに合流するための方法でもあるのだ。
リズムとは遊離した音でも、単なる意味でも、筋肉の快感でもない。そうではなくて、分かち難い統一としての、それらの全体である。
Ⅲ アメリカの詩人、ホイットマン
ウォルト・ホイットマンは、世界との不調和を経験することがなかったように思われる、唯一の偉大な近代詩人である。
オクタビオ・パスについて
牛島信明
自分が自分自身でありながら、同時に〈他者〉でもあると知覚するという、アベル・マルティンの〈他者性〉の認識こそ、他者との繋がり合いを確認しようとする、パスの思想でもあるのだ。
パスによれば、「詩的体験は、人間の条件の、つまり、まさにそこに人間の本質的な自由がある、あの絶え間ない自己超越の啓示に他ならない」のである。
パスによれば、表か裏か? 鷲か太陽か? という古来の問いかけに対し、近代の詩人は、鷲は太陽である、と答えるのである。そして、ここに見られる〈対立するもの〉の合一は、人間存在が本来的に内に秘めている〈自己〉と〈他者〉の合一に連なっているのである。
そのイメージはおどろおどろしいものになる、なぜなら矛盾律に挑みかかるからである――重いものは軽いものである。。相反するものの同一性を言明することによって、それはわれわれの思考の基盤を侵犯する。対立するものの合一によってもたらされるイメージとは本質的に逆説的なものであって、西洋を支配してきた合理的思想とは相反する。
キルケゴールは、あの有名な〈飛躍〉によって神の前に立つことができ、自己を回復できると考えたが、パスにあっては、自己回復のための〈飛躍〉は、自分を超えることではない。達すべき〈彼岸〉はすでにわれわれの内にあるのだ。従って、愛の体験も、聖なるものの体験も、われわれを本来のわれわれに戻すための作用以外ではない。
結局のところ、オクタビオ・パスにとって人間とは、孤独でありながら連帯あるいは共生の力を秘めた、そして自己でありながら、同時に〈他者〉でもある、すぐれて弁証法的な存在である。そして、このような人間の本質を照らし出すのが、他ならぬ(イメージを発生させる)詩語による詩的体験であった。
「詩語の二重性は、一時的な相対的な存在でありながら、常に絶対的なものに向けて投げ出されている、人間本来の二重性と異なるものではない」オクタビオ・パス
解説 大いなる一元論
松浦寿輝
オクタビオ・パスとは、いわば、一個の驚くべき「綜合」である。
この朗々たる連禱(パス)の、いっかな弛むことも滞ることもない豊饒な雄弁体に注目しよう。
……ブルトンにならって、パスもまた、性愛の絶頂で身も心も溶け合う稀有な瞬間に、ポエジーの達成の間然するところのない譬喩を見る。いや、譬喩というよりそれは、詩ならざるポエジーが白熱的に現出する瞬間そのものなのだと言ってもよい。
*まるで理趣経!
存在を刺し貫く「体験」の、またその「瞬間」の聖化が、パスの詩学全体の根幹をなす。他なるものとの融合としての愛の「体験」は、ポエジーの炸裂する「瞬間」の至高の紋章となるのである。
……あらゆる二律背反を敵視し、それを高次の溶融状態に統合してゆこうとする本書全体を貫通してのパスの第一綱領それ自体が、『シュールレアリスム宣言』(ブルトン)の徴の下に置かれていることに注目しなければなるまい。
少なくとも、彼の大いなる一元論から、多分に有益な「健康的」功徳を受け取ることができるということだけは間違いないはずだ。
補論 オクタビオ・パスと文化記号論
山口昌男
イメージを構成するさまざまなレヴェルでの言語表現は、修辞によって分類され、比較・暗喩・直喩・ことば遊び・バロノマシア(異なる言語に属する二語間の語形の類似)・象徴・寓意・神話、等々と呼ばれます。これらのさまざまの表現は一見したところ互いに異なるように見えますが、共通しているのは、語句や語句群の統辞論的統一は破壊しないで語の意味作用における重層性を保存するという共通の働きをします。
つまり、イメージは、極端な場合、反対の意味すら取り込んでしまうということになります。イメージは反対物すらも中和します。
そのようなわけで、イメージは矛盾律に挑戦することによって人を驚かせます。矛盾律は反対物は一致しないという前提の上に成立し、われわれの生活を支配する思考の慣行はこうした矛盾律の上に成り立っています。ところが、イメージは「重いものは軽い」というようなことを平気で人に言わせて我々を驚かせます。反対物の一致を公言することによってイメージは我々の思考の基盤に揺さ振りをかけます。
「断定と否定の彼方にある境域で、一種の活性化された宙吊りの状態」パス
「ドジによる視覚」ケネス・バーク
関係の錯綜した束
パスのメタ・アイロニーについて
メタ・アイロニーは事物を時間(因果性)の重圧から解放し、記号をその意味から解放する。
それは反対物を軌道に乗せる。それはすべての物が反対物に転化する宇宙的な活性化である。
言語の役割は意味を指示し、それをコミュニケートすることにある。しかし我々近代の人間は記号をその意味のレヴェルだけに、コミニュケーションを情報の伝達のレヴェルだけに還元した。我々は記号は自然の事物であり五感に働きかけるものであるということを忘れた。
人間の五感を素材とした新しいコードの探求者
イメージを放出する有機体を構築
多分気というのは仲介者のことなのだ。パス
律動的反復は、始原的時間、もっと正確にいえば始原的時間の再創造を果たす。パス
予期されたもののなかから見慣れないものが立ち現われる愉しみというものを、詩のメトリーと心理的な観点から説明した最初の人である。そもそも予期されたものと見慣れないものは、反対物なしには考えられない存在である。ポー
詩は、見慣れないものへの扉を我々のために開けてくれる。パス
*二〇一八年一〇月二十九日抜粋終了。
*すごい本に出合いました。
*印象的なのは、「媒介者なしで、生と死に直面するような人間」という定義と、更に、イメージの機能についての豊饒な雄弁体でした。