惚けた遊び! 

タタタッ

はじめての哲学

以下のキ-ワ-ドをコピペして右サイドのこのブログ内で検索でお楽しみください。 → 情緒 演繹 帰納 内臓感覚 遊行寺 戦争 参考文献 高野聖 力業 ギリシャ 暗号 ソクラテス 香取飛行場 j・ロック 身体 墓 禅 401k 井筒 気分 講演 説話 小説 旅行 野球 哲学 空海 イスラ-ム かもしかみち 長安 干潟 民俗学 混沌 画像 大乗起信論 定家 神話 フェルマー 遊行 国家 気分の哲学  書評 飯島宗享 

抜粋 安保 通『自分ですぐできる免役革命』 大和書房 2007

2018年12月26日 | 生物学

 ところが、検査でガンが見つかると、すぐに手術、放射線、抗ガン剤という三点セットの濃厚治療をやります。


 顆粒球もリンパ球もマクロファージから進化してできたものですが、顆粒球はマクロファージの異物を飲み込む力(貪食能)をさらに強くしたものであり、リンパ球はマクロファージが持っていた接着分子を使って、異物を凝固させて処理するというように、その機能が分かれてきたのです。


 異物との闘いが終わったリンパ球はふたたび休眠状態に入りますが、この時に一部のリンパ球が抗原(異物)を記憶します。それによって、次に同じ抗原が侵入してきたときに、素早く細胞分裂を起こして、病気が悪化する前に処理することが出来るようになります。これがいわゆる免疫と言われるものです。


 だからこそ、抗ガン剤や放射線治療など、リンパ球を減らす治療はやってはいけないと、私は強調しているのです。


 ガンが再発したとき、抗ガン剤も放射線も効かないと言われるのは、実際はリンパ球が少なく、ガンと闘えない状態になってしまっているからなのです。


 肺ガンが増えているのは、基本的にはタバコよりも大気汚染が大きい要因だと考えられます。


 タバコの喫煙率はドンドン減っているのに、肺ガンは増えているという事実があります。発ガンの原因をタバコに転嫁すると、その謎は解けません。


 しかし、玄米はそもそも血流をよくし、リンパ球を増やし、排泄作用を高め、便秘を解消するなど、悪いものを排泄する力が非常に強いものです。確かに玄米は農薬を抱えこみやすい点もありますが、それ以上に体から老廃物を排出して、血流を良くする作用が強いと言えます。


 消化管を動かすことは副交感神経を刺激し続けることになります。そのために便秘などは治り、老廃物を排出させ、胆管にリンパ球が増えてくるという作用をもたらします。それが、キノコが免疫力を高める理由です。


 空海など昔の宗教者が、自分の死期を悟ると絶食をはじめたのは、それによって死の苦しみを和らげるということが体験的にわかっていたこともあるでしょう。


 食事をよく噛んで味わってゆっくりと食べれば、消化管が活動して副交感神経が優位になり、リンパ球も多くなります。


 むしろ、タバコに含まれるニコチンには免疫力を高める働きがあります。ニコチンという物質は、副交感神経を刺激するアセチルコリン受容体にくっついて刺激するので、免疫力を高めるわけです。


 ニコチンは副交感神経の刺激物質なので、昔からタバコは長寿の秘薬になっていたのです。たしかに沖縄などの長寿者にもタバコを吸っている人がいます。


 つまり、ニコチンは副交感神経を刺激し、リンパ球を増やす作用をしますが、タールなどは逆に顆粒球をふやすという反対の作用をするわけです。いい作用と悪い作用の境目は一日十本程度までで、それ以上吸うと悪影響の方がどんどん大きくなると考えられます。


 笑いは副交感神経に支配されていますから、笑うことは免疫力を高めることになるわけです。


 絶対に使ってはいけない薬は何か
  消炎鎮痛剤(長期使用) 睡眠薬(常用は危険) 解熱剤 抗生物質


 ただ、キノコ類の健康食品の方が、抗ガン剤や放射線の治療を受けるのに比べれば数段上と言えます。……。それに対して、キノコ類から作られたサプリメントには、キノコ自体の持っている消化管を刺激してリンパ球を増やす働きがあるからです。


 ボケるということは、本人はもう命を閉ざそうとしているわけです。それを無視して栄養を与えて生かし続けようとするから、惨めな状態が長く続くことになります。


 つまり、手術、放射線、抗ガン剤という今の三大治療法は、ガンだけを取り除こうとするあまり、ヒトの身体の基本である免疫力(生きる力)をも奪ってしまうということが大きな問題なのです。


 これまでは、リンパ球でガンと闘えるとは多くの医師が思ってもいなかったのです。


 病気とは、私たちが間違った生活をしていることを気付かせるための反応なのです。


 外部からホルモンを入れたり、薬でホルモンが出ないようにするのは、体が間違っているから、それを人為的に修正してやろうという行為です。それは、体が失敗したから病気になったという考えなのです。


 いろいろな作用があるのに一つだけを取り出して、良い悪いを論じて早急に結論を出すのが現代医学の悪い面で、もっとトータルに見ないといけません。


 医者が余命を本人に言うのは、犯罪に匹敵するような行為で絶対にやってはいけないことだと思います。


 自分の免疫力を把握するためには、採血して顆粒球とリンパ球の比率を調べてもらえば、すぐにわかります。


 顆粒球の基準値は五〇から六五%、リンパ球の基準値は三五~四一%です。


 病気は、そういう意味で私たちの生き方の間違いを知らせてくれているものです。それを薬や手術だけで治そうとするのは、本末転倒です。





*二〇一八年十二月二十六日抜粋終了。
*現代医学の無知・傲慢さをよくよく考えないといけない。
*タバコ、日に十本とはよくぞ言ってくれました。長いこと、これで抵抗してきたので。

抜粋 福岡伸一『動的平衡』生命はなぜそこに宿るのか  木楽舎 2012

2018年12月19日 | 生物学

 
 プロローグ――生命現象とは何か

 (米国では)九〇年代になって、科学研究のあり方や友人の流れなどが確実に変化しています。学位を取った若い頭脳は、これまでならポスドグ(博士研究員)という修行時代を経て、大学に職を求めましたが、最近のポスドグの多くはベンチャー企業に流れています。


 それは、端的に言えば、バイオつまり生命現象が、本来的にテクノロジーの対象となり難いものだからである。工学的な操作、産業上の規格、効率よい再現性。そのようなものになじまないものとして生命があるからだ。、


 第1章 脳にかけられた「バイアス」――人はなぜ「錯誤」するか

 シェーンハイマーは食べ物に含まれる分子が瞬く間に身体の構成成分となり、また次の瞬間にはそれは身体の外へ抜け出していくことを見出し、そのような分子の流れこそが生きていることだと明らかにしていたのだ。


 つまり、ビデオテープの存在を担保するような分子レベルの物質的基盤は、脳のどこを探してもない。あるのは絶え間なく動いている状態の、ある一瞬を見れば全体として緩い秩序をもつ分子の「淀み」である。
 そこには因果関係があるのではなく、平衡状態があるにすぎない。私たちが「記憶の想起」と呼んでいるものも、実は一時点での平衡状態がもたらす効果でしかない。


 ここに記憶というものの正体がある。人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、「想起した瞬間に作り出されている何ものか」なのである。


 細胞の中身は、絶え間のない流転にさらされているわけだから、そこに記憶を物質的に保持しておくことは不可能である。


 ここで重要なポイントは、私たちが時間の経過を「感じる」、そのメカニズムである。


 つまりタンパク質の新陳代謝速度が、体内時計の秒針なのである。
 そしてもう一つの厳然たる事実は、私たちの新陳代謝速度が加齢とともに確実に遅くなるということである。つまり体内時計は徐々にゆっくりと回ることになる。


 人間の脳は、ランダムなものの中にも何らかのパターンを見つけ出さずにはいられない。


 幼児期、脳ができはじめるとき、神経細胞は四方八方に触手を伸ばして手当たり次第連結を作り出し、できる限り複雑な回路網を作り出す。もともと準備されるのはここまでである。


 第2章 汝とは「汝の食べた物」である――「消化」とは情報の解体

 私たちは、たとえ進化の歴史が何億年経過しようとも、中空の管でしかないのだから。


 なぜなら、合成と分解との動的な平衡状態が「生きている」ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ「効果」であるからだ。


 サスティナブル(持続可能性)とは、常に動的な状態のことである。


 ならば、コラーゲンを食べ物として外部からたくさん摂取すれば、衰えがちな肌の張りを取り戻すことができるだろうか。答えは端的に否である。


 そして、その背景には、生命をミクロな部品が組み合わさった機械仕掛けと捉える発想が抜き差しがたく私たちの生命観を支配していることが見て取れる。


 神経の新しい回路が形成されるというのは、具体的に言えば、神経と神経が触手を伸ばし合って接点ができ、そこに繰り返し電流が流れるという刺激が強化されることによって、その接点がより確実なものになることを言う。節点のことをシナプスと呼ぶ。


 必須アミノ酸とは、動物が自分の体内で製造できないもの、非・必須アミノ酸は体内で製造できるものである。コラーゲンは非・必須アミノ酸なので、ヒトは体内で製造できる。


 したがつて、私たちにとって「身体にいい」食べ物とは、必須アミノ酸をバランスよく含んでいる食材ということになる。身近な所では鶏卵がその代表と言える。


 「ペニー・ガム」的な、インとアウトを付き合わせただけの線形思考からは、生命のリアリティは何も見えてこない。
 これは何も消化管内だけのことではない。世界のあらゆる場所に、容易には見えないプロセスがあり、そこではグジャグジャの、つまり一見、混沌に見えて、その実、複雑な動的平衡が成り立つリアリティが生じているはずなのだ。


 第3章 ダイエットの科学――分子生物学が示す「太らない食べ方」

 心臓と肺を動かし、体温を維持し、基本的な代謝を円滑に動かすための熱量で、これを基礎代謝量と呼ぶ。成人で一日当たりおよそ二〇〇〇キロカロリー。この範囲の熱量ならばどれほど食べても燃やされてエネルギーとして消費されるので、体重は増えない。


 生命現象を含む自然界の仕組みの多くは、比例関係=線形性を保っていない。非線形性を取っている。自然界のインプットとアウトプットの関係は多くの場合、Sの字を左右に引き伸ばしたような、シグモイド・カーブという非線形性を取るのである。


 ランゲルハンス島


 食べ物をドカ食いすると一挙に血糖値が上昇し、インシュリンが大量に放出される。それが命令となつて脂肪細胞はしっかりエネルギーを溜め込む。
 逆に、できるだけインシュリンが出ないように「だましだまし」たべることができれば、その分、脂肪細胞が受け取る命令は少なくなる。つまり太りにくくなる。


 私たちの祖先は常にお腹を空かせ、朝起きれば、今日はどのように食糧を手に入れるべきかにばかり頭を悩ませていた。生存が唯一最大の生きる目的だったのである。


 サプリメントを欠かさず飲んで、不足がちな栄養素を補うという行為は、栄養障害でもなんでもなく、むしろ強迫的な神経症状に近いと言える。


 タンパク質は貯蔵できない。なぜならタンパク質(正確に言えばその構成要素であるアミノ酸)の流れ、すなわち動的平衡こそが「生きている」ということと同義語だからである。


 トリプトファンというアミノ酸ひとつとっても、過ぎたるは及ばざるが如し。これは分子レベルでも有効な諺なのだ。普通の食事をしている限り、トリプトファンが不足することなどあり得ないのだから。


 第4章 その食品を食べますか? ――部分しか見えない者たちの危険

 食品を数日間腐りにくくすることと、とりあえずの安全性だけを求めた食品添加物の使用は、生命活動を機械論的に捉える人間の部分的思考に基づくものに他ならない。しかも、こうした添加物の使用が始まって、そう長い時間が経っているわけではない。私たちは壮大な人体実験を受けているようなものなのだ。


 そこで、モンサント社は「ラウンドアップ」に耐性を持つ遺伝子を大豆に組み込んだ。


 動物にしろ植物にしろ、仮にその生命が機械論的構造を有しているとしても、それは昨日今日作られた機械ではない。三八億年をかけて改良を積み重ねた生命の歴史の完成形として存在しているのである。つまり、三八億年の最適化の結果なのだ。


 第5章 生命は時計仕掛けか? ――ES細胞の不思議

 まして細胞全体を見渡し、どの細胞が何になるべきか、鳥瞰的な視座から指揮を下している者がいるわけでもない。


 ノンストップで細胞分裂を繰り返している初期胚を立ち止まらせる何かいい方法はないか。多くの研究者がさまざまな試行錯誤を繰り返した。


 胚の内部で、細胞はお互いにコミニュケーションしながら、将来、身体のどの部分を担当するのか役割分担を決めていく。これを分化と言うが、細胞塊をばらされてしまうと、当然のことながら細胞間のコミニュケーションはその瞬間、失われてしまう。一つづつ離れ離れにされてしまった細胞はまわりの「空気が読めなくなる」のであるる


 つまり、生命とは機械ではない。そこには、機械とは全く違うダイナミズムがある。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つ機能――それを、私は「動的平衡」と呼びたいのである。


 私は、このような生命操作技術は、あくまで生命のメカニズムを探るための基礎研究の手段に限られるべきだと考えており、商業的に利用されたり、性急な医療目的に使用されたりすることには反対である。


 第6章 ヒトと病原体の戦い――イタチゴッコは終わらない

 大量のニワトリを一ヵ所で閉鎖的に飼うような近代畜産のあり方は、インフルエンザ・ウィルスに、進化のための格好の実験場を提供しているようなものである。


 第7章 ミトコンドリア・ミステリー ――母系だけで継承されるエネルギー産出の源
 

 人体は約六〇兆個の細胞からなっているから、私たちの身体には京という単位の、恐ろしく膨大な数のミトコンドリアが棲息していることになる。


 卵子と精子が出合って合体するとき、精子からはそのDNAだけが卵子の中に入る。精子のミトコンドリアは卵子に入り込まない。だから新たにできた受精卵の内部のミトコンドリアはすべて卵子由来、つまり母親のものである。


 私たちの細胞の中で生き続けているミトコンドリアは、全人類共通の太母が十六万年くらい前にアフリカにいたのだと教えている。


 第8章 生命は分子の「淀み」――シェーンㇵイマーは何を示唆したか

 これ等の営みの背景にデカルト的な、生命への機械論的な理解がある。


 生命が、「可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである」という古くて新しい視点


 生命が分子レベルにおいても(と言うよりもミクロなレベルではなおさら)循環的でサスティナブルなシステムであることを、最初に「見た」のはルドルフ・シェーンハイマーだつた。


 標識アミノ酸は、ちょうどインクを川に垂らしたように、「流れ」の存在とその速さを目に見えるものにしてくれたのである。つまり、私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツ゚ではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にあるという画期的な大発見がこの時なされたのであった。


 個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかし、ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかないのである。


 生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常につくり変えられ、更新され続けているのである。


 ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。
 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありようをダイナミック・ステイト(動的な状態)と呼んだ。私はこの概念をさらに拡張し、生命の均衡の重要性をより強調するため「動的平衡」と訳したい。


 ここで私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることが出来る。「生命とは動的平衡にあるシステムである」という回答である。


 そして、ここにはもう一つの重要な啓示がある。それは可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。


 サスティナブルは流れながらも環境との間に一定の動的平衡状態を保っている。……このように考えると、サスティナブルであることとは、何かを物質的・制度的に保存したり、死守したりすることではないのがおのずと知れる。


 動的平衡にあるネットワークの一部分を切り取って他の部分と入れ替えたり、局所的な加速を行うことは、一見、効率を高めているかのように見えて、結局は動的平衡に負荷をあたえ、流れを乱すことに帰結する。


 実質的に同等に見える部分部分は、それぞれが置かれている動的平衡の中でのみ、その意味と機能をもち、機能単位と見える部分にもその実、境界線はない。


 こうした数々の事例は、バイオテクノロジーの過渡期性を意味しているのではなく、動的平衡としての生命を機械論的に操作するという営為の不可能性を証明しているように、私には思えてならない。


 動物たちは思考や意識を持たない機械ではない。そんなことはずっと昔からわかっていたはずなのに、今、私たちはそのことを深く考えようとはしていない。ワトソンは言う、「問題は動物には意識というものがないと、私たちが何時の頃からか思い込んでいることだ」と。


 ワトソン『エレファントム』『思考する豚』


 自然界は歌声で満ちている。象たちは低周波で語り合っている。


 ペインが低周波録音を思い付いたのも、象舎の中に「空気の震え」あるいは「無音の轟き」のようなものを感じたからだと言う。


 生命はそのことをあらかじめ織り込み、ひとつの準備をした。エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという自転車操業的なあり方、つまりそれが「動的平衡」である。


 したがって「生きている」とは「動的平衡」によつて「エントロピー増大の法則」と折り合いをつけているということである。換言すれば、時間の流れにいたずらに抗するのではなく、それを受け入れながら、共存する方法を採用している。


 生命は、こうして、不可避的に身体の内部に蓄積される乱雑さを外部に捨てている。この精妙な仕組みこそが、生命の歴史が三八億年をかけて組み上げた、時間との共存方法なのである。


 サスティナビリティを阻害するような人為的な因子やストレスをできるだけ避けることである。つまり「普通」でいるということが一番であり、私たちは自らの身体を自らの動的平衡にゆだねるしかない。


 私たちの身体がその「流れの淀み」であるなら


 「ロハス」とは、健康と地球環境の持続性とに配慮した生活様式という意味で……


 ここには文字通りロハスの思考がある。私はそう思った。ロハスの考え方は、何かを禁止したり、命令するものではない。むしろ、私たちの考え方にパラダイム・シフトをもたらすものだ。そのシフトとは、端的に言えば、線形性から非線形性へ、機械論から動的平衡へということである。


 あとがき


 しかし何かがはじまるとき、そこに具体的な形の輪郭はない。形はあらかじめ与えられるのではなく、他律的にだんだんと進み、それは常に動きながら、あやうい動的平衡の上に成り立つ。


 間絶なく流れながら、精妙なバランスを保つもの。絶え間なく壊すこと以外に、そして常に作り直すこと以外に、損なわれないようにする方法はない。





*二〇一八年十二月十八日抜粋終了。

抜粋 森山徹『ダンゴムシに心はあるのか』新しい心の科学  PHPサイエンス・ワールド新書 2011

2018年12月12日 | 生物学

 「心寂しい(うらさびしい)」「心悲しい(うらがなしい)」という使い方が現在でも見られます。この「うら」は、何とはわからず、自ずから、といった意味です。これはまさに、私たちの心の概念である「内なるわたくし」が「もう一人の私」であることと合致します。


 このとき、私の意識は、「この寂しさはどこから湧いてきたのだろう」と思うしかありません。それは、隠れた活動部位、「内なるわたくし」から湧いて出るのです。


 観察者は、観察対象を未知の状況に遭遇させ、予想外の行動を観察することで、その心の存在を確かめることが出来ます。


 観察者によっては、心は石やジェラルミンの板にも備わっていて、見出すことが出来るのです。ただし、観察対象の心を見出すには、ある前提が必要です。観察者が、さまざまな状況に応じた観察対象の特定行動を見出せるよう、対象ととことん付き合うということが、まず必要なのです。


 さて、過去の研究を調べてみると、このジグザグ歩行は「交替性転向(Turn Alternation)」という行動の連続で生じることがわかりました。交替性転向とは、「ある時点の転向方向が、その直前の転向方向の反対になる」という行動です。


 そして、気が付いたのが、このように観察者である私に「おかしいな」と思わせる、「意味不明な」出現の仕方をする変則転向、それはまさしく、心によって発現させられた「予想外の行動」なのではないだろうか、ということでした。すなわち、この変則転向は、ダンゴムシの心が未知の状況を察知し、自発的に発現させたのではないだろうか、と思ったのです。地味な結果ではあるけれど、きっとダンゴムシの心の現われの一端を掴んだに違いない、そう思いました。


 未知の状況では、それが状況の打破につながるか否か定かでなくとも、新たな行動を迅速に発現させ、「あがいてみる」ことこそ得策です。


 多様な場所で生きる仲間を持ち、その中で特に陸上生活を選んだアリとダンゴムシには、泳ぎという、進化の過程で潜在させられた、眠っている行動を呼び起こす力があるようです。


 一般に、進化における自然選択とは、適応的でない行動の「切り捨て」と考えられています。しかし、それだけではなく、適応的でない行動の温存、捨てずに「潜在させておく」という柔らかい側面もあるのでしょう。現在に生きる生物の心は、このように、温存され、潜在させられた行動を呼び出す力を持っているのです。


 以上のように、水境界群は、通常抑制されている乗り上がり行動を、未知の状況を察知することで発現させたと考えられます。


 おのおののダンゴムシが球形化解除の頃合いを自ら、そのつど決定したのです。このように、自らの判断に基づいて行動を発現できるダンゴムシに、「自律性」を認めないわけにはいかないでしょう。


 これ等の行動に接したとき、私は、ダンゴムシにおいてその行動を自立的に選択する何者か、「内なるそれ」を実感しました。この「内なるそれ」が、「ダンゴムシの心」なのです。


 行動を動機づけるための欲求の発現には、余計な欲求の発現を自律的に抑制する心の働きが不可欠です。その働きは、未知の状況における予想外の行動を発現させる原動力として、実験を通して確認されます。すなわち、それは「心の科学」です。


 「ある行動を発現させるとき、余計な行動の発現を自律的に抑制=潜在させる、隠れた活動部位」


 心の科学とは、この心の働きを実験的に確認する実践的学問です。


 研究者が「待って、相手の出方を促す」、すなわち「相手の自由な出方を認める」ことを否定し、人間関係を世知辛くすることによって、自由に振る舞える社会を自滅させるのは、恥ずかしいことではないでしょうか。
 相手に働きかけ、待ってみる。そのような当たり前の態度は、相手の不可解な行動も、そして音信不通も、心の働きだと思わせてくれます。





*二〇一八年十二月十二日抜粋終了。

抜粋 中村桂子『生命誌とは何か』 講談社学術文庫 2014

2018年07月19日 | 生物学


 〈科学〉から〈誌〉への移行にどんな意味があるのか、生命誌から生きものやヒトについてどんなことがわかるのかについてまず考えます。


 すべてはわかる、あらゆるものには答えがある、とくに科学はすべてをわからせるものだという誤解です。


 生物ももちろん止まっていません。常に動いている。そのダイナミズムたるやみごとなものです。ただ。それが一方向へ向かって進んでいくことはありません。さまざまな試みをして多様化していくのです。そのあり様を「展開」または「発展」と呼ぶことにします。


どうも進化というと進歩とまぎらわしく、一定方向に進んでいくというイメージを与えるのではないかと思い、展開と訳してくれたらよかったのにと思います。


 くどいようですが、DNAは物質です。


 ですから、基本はDNAの変化に置き、当面ゲノムに残った歴史を追い、形態や化石とも関連を付けて進化の後を追おう、というのが生命誌の方法です。


 ゲノムを単位にすると科学ではなく、〈誌〉になるのは、このような無性生殖では事柄を記述すると数字や専門用語では語り切れず、歴史物語になるからです。


 生物を語るときに最も重要とされている進化と遺伝は、「細胞内にあるゲノムのはたらきで個体を作っていく、つまり発生する」という現象の中に組み込まれているのです。生きものの基本は個体であり、個体を作るからこそ遺伝も進化もあるというわけです。ここでもう一つ大事なことは、個体の出発点となる細胞、つまり受精卵の中にゲノムは、いつも必ず新しい生殖細胞二つの組み合わせで生み出されるものであり、これまでそれと同じものがこの世に存在したことは決してないということです。


 これるまでの生物研究では、眼に見える生物に注目することが多かったので単細胞しかいない、三十八億年前から十五億年前までの二十億年以上という長い期間を無視してきました。


 ところで、一倍体の真核細胞は「接合」して一体化する能力をもっています。(前章で述べたように、生殖細胞である精子と卵は一倍体で、これが接合し受精卵になります)。こうしてできるのが二倍体細胞、つまり、一つの細胞の中にゲノムを二セットもつ細胞です。私たちの体は、二倍体細胞で出来ています。二倍体細胞になると、細胞間に連結構造ができ、お互いに物質や情報のやりとりをするようになり、その間に、それぞれの細胞が少しづつ役割分担をしていくようになっていきました。


 その後二つの細胞が接合してできた二倍体細胞が細胞間の対話をみごとにやってのける存在となり、多細胞化をしたのです。こうして生じた二倍体細胞は、それぞれが個性をもちながら、決して勝手なことを必ず話し合いをします。
 ちなみに、この種の話し合いがうまくできなくなった二倍体細胞としてがん細胞があり、このような細胞は自分の生命を失うのでなく、個体、つまり多細胞として存在する他の細胞たちの集合体を死に到らしめる恐ろしい存在となります。本質的には死がないのに、多細胞が生まれたことによって死という概念が登場するのです。


 本来、生には死は伴っていなかった。性との組み合わせで登場したのが死なのです。逆の言い方をするなら死をもつ二倍体細胞がなんとかして命をつないでいこうとして工夫したのが性だといってもよいのかもしれません。


 私たち人間を含めて、地球上の生物の多くは、二倍体細胞の多細胞生物として存在し、有性生殖をし、その結果、細胞の死だけでなく個体の死を存在させるような生き方をしているという事実です。


 無性生殖では同じ細胞がふえていくだけですから本質的には多様化は望めません。時々変異が起き、しかもそれが環境にうまく適合して新しい性質として残るという稀な現象でしか変化は起こらないので、多様化しようとすれば有性生殖が不可欠です。


 個体が生きるための細胞の積極的な死とでも呼ぶべき興味深い現象があります。アポトーシスと呼ばれるこの現象は、細胞のゲノムに死ぬべき時が予め書き込まれており、それに従って細胞が整然と死ぬという現象です。


 これまで進化というと小さな変異が積み重なって連続的に変化すると考えられてきました。……。しかし、オサムシという小さなムシの全体像を見てみると、そうではないらしいのです。おそらくこれはこのムシに限ったことではなく、生物に見られる進化の基本的な姿だろうと思います。


 不連続の変化→進化は徐々には起こらない


 細胞をくっつけるものはなにか。発見されたいくつかの分子の中でもっともよく知られているのがカドヘリンです。さまざまな生物で、この物質が接着の役割をしており、しかもそれは他人物理的につけるだけでなく、情報伝達の役割もしていることがわかってきました。


 生物が面白いのは、構造とはたらきとが常に関連していることです。接着剤は接着剤、情報伝達は情報伝達となっていない。その結果、細胞が構造の単位でありながら機能の単位であるというみごとさを示すのです。私たちが作る機械はこうなっていません。


 ところで、これを考えるにあたり、ゲノムには必ず変異が起きるということをはっきりさせておきたいのです。この変異が個体を作れないようなものでしたら子どもは生まれることができません。受精卵のうちの五%ほどは生まれてこないとされています。


 発生の時期のホルモン作用の微妙さを示す例(エストロゲン)であり、体の一部の構造やはたらきがわかったからといって、局所的な有効性に惹かれて体内での物質の動きを人為的に変えると、結局全体としてはマイナスになる場合が少なくないことを教えてくれる例です。


 さまざまな生きものの眼の水晶体を調べると、その素材はさまざまです。とにかく結晶化して透明になるタンパク質であればなんでもよいというわけです。


 矛盾に満ちたダイナミズムこそ生きものを生きものらしくしているのです。


 合理性だけを求めて進めてきた人口社会が、生命誌で追ってきた三八億年を越える生きもののつくる世界と合わないことがはっきりしてきたのです。





*平成三〇年七月十九日抜粋終了。
*読み替える、新たに構築する、別の世界の育成が求められているということ。