惚けた遊び! 

タタタッ

はじめての哲学

以下のキ-ワ-ドをコピペして右サイドのこのブログ内で検索でお楽しみください。 → 情緒 演繹 帰納 内臓感覚 遊行寺 戦争 参考文献 高野聖 力業 ギリシャ 暗号 ソクラテス 香取飛行場 j・ロック 身体 墓 禅 401k 井筒 気分 講演 説話 小説 旅行 野球 哲学 空海 イスラ-ム かもしかみち 長安 干潟 民俗学 混沌 画像 大乗起信論 定家 神話 フェルマー 遊行 国家 気分の哲学  書評 飯島宗享 

無料配布キャンペーンその3 「暗号について」 About cipher

2016年05月27日 | 電子書籍
本日無料ダウンロードを太平洋標準時 (PST)2016年5月27日~2016年5月31日に行います。

日本時間では、17:00 に開始し、終了日翌日の 16:59 に終了します。



内容紹介
学部卒業論文「暗号について」(昭和42年)です。この論文をきっかけにして起きた事ども、指導教授の著作(『気分の哲学』)に引用されたこと、主題探求の継続としての小説『述語は永遠に……』執筆、更にその展開としての評論『情緒の力業』執筆・出版、すばらしい書評を得たこと等をご覧いただきます。
それもこれも、中学校校庭で級友たちの白いワイシャツが旗のようにバタ付いているのを見てしまったからです。つまり、すべては「志学元年の経験」から始まったのです。



Amazon登録情報
フォーマット: Kindle版
ファイルサイズ: 2201 KB
紙の本の長さ: 98 ページ
販売: Amazon Services International, Inc.
言語: 日本語
ASIN: B00M6H3F3Y


第一章 序に変えて私の状況の非学問的回想

 「そもそも《哲学すること》が始まって以来、いつでも確実性の獲得が試みられてきたのである。」(注1)

 ここに言う《哲学すること》は過去の哲学史の中にもあるし、哲学史に現われでない所の非学的な段階での人間性の持つ本質的な行為でもある。この行為の経験は人様々であって、幼児・少年期にもありえるのである。それは「僕はいつも、僕は他の人と同じ者であるんじゃないだろうかと考えてみるんだが、しかしやはりついに僕は僕なんだ」……(注2)という驚きであり、「初めの前には一体何があったのか」(注3)というような問いであったり、「世界内のある事物が問題なのか、それとも存在と私共の現存在との全体が問題なのか」(注4)というような問いの相違の理解であったり、あるいは又「万物が必滅無常である」(注5)ということに対する驚きと怖れであったりするのである。

 このような《哲学すること》が人間にとって根源的であるという事実は見逃すわけにはいかないことである。

 そしてこの《哲学すること》の根源にある「驚きから問いと認識が生まれ、認識されたものに対する疑いから批判的吟味と明晰な確実性が生まれ、人間が受けた衝撃的動揺と自己喪失の意識から自己自身に対する問いが生まれる」(注6)のである。

 驚愕・恐怖・疑問の中におかれた人間は必然的に《哲学すること》を始め、問いの究極的安心を求めるのである。
 つまり《哲学すること》は《哲学すること》によって《哲学すること》を拒否する行為なのであり、それは「確実性の獲得」をもって成就されるのである。
 このような確実性の獲得の要求が私に如何にして起きてきたか、あるいはそれがどのような色合いの下に、どのようなニュアンスの上に成立してきたか、そのような成立事情を訪ねて、以下に私の過去を概略してみよう。

 ここでは過去そのものの内容を知ることが目的ではなく、(といっても、それは把握出来ぬものではあろうが)過去においてそれらの問題がいかなる状態、いかなる感じを持っていたかが重要なのであり、単なる背景としてのみ必要なのである。このような要請から、この概略は多分に私の主観的なものであり、多分に文学的修辞であり、明晰さは皆無であろう。それらは、ただ私にとってのみ重要な事柄である。


 ある事件が十三才の時、校庭で起きた。
 秋始めのある晴れた日、私は昼食後の満腹感で校庭を歩きはじめた。他の中学生達は既に校庭で遊んでいた。すると急に、風の音と彼らの遊び声が、ボリュームを落とし、あたりが静まり、私は白いワイシャツが風に揺れているさまを見続けていた。
それは風の強い日の旗のように、バタバタと音をたてていた。その衣服の白さとバタバタという音だけに、私の意識は集中した。その時、ひどい孤独と共に私は叫んだ。―ああ! 彼らも人間だ、と。
 その白さ、バタバタという音は、私の意識に、他人としてそこに「ある」という感じを、叩きつけた。



 その色と音とは今も私の中にある。しかし、他人はそこに「ある」のであるが、それがどのように私に関係しているのか、どういう具合にしてそれはあるのか……等という疑問符をつけられたままの形で、存在している。
 その時から、私にとって他人は一つの謎のままである。私に立ち向かってくるもの、対象、私以外のもの、客観存在、それらが問題として誕生したのである。

 しかし、この謎の発生する因となった「白いワイシャツ」の経験は二十二歳頃まで、忘れられていた。偶然目に触れた次の文章が、私に先の経験を想起させたのである。

「彼はあたりを見まわした。すると自分自身の他に何ひとつ見えなかった。そこで彼は始めて叫んだ。―私がいる! と。……それから彼は不安になった。ひとりきりでいると不安になるからだ。」 ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド (注7)


 この新たな経験が私を仏教、それも禅へ目を向かわせたと同時に、実存哲学へ(というのもこれがボヘンスキーの『現代のヨーロッパ哲学』という書物の実存哲学の部の初めに象徴的に引用されていたからである)向かわせた一要素であった。
 この経験による主観・客観の分裂の図式は、私に様々な事をなした。時々刻々の時間の重さであり、あるいは、対象のつまり世界の重さであり、「私が押し潰される」という感じであり、その時には、私はどこへ行っても呼吸困難のような息苦しさを感じ、対象物のあるところに、極度の恐怖と苛立ちを感じた。

 ある時には、それらの苦悩がヒステリックになり、「苦悩こそただ一の高貴」(注8)という感じを持ったりしたのである。

 高校生活も終わって、私は一つの懐疑に取り付かれていた。高校では電気に関する初歩的な知識を学んだわけであるが、それは客観性の要求ということであった。

 万事万象が客観性によって見られ、客観性に乏しいものは、極度の嫌悪を持って退けられた。諸々の権威や伝来の道徳、あるいは政治、……それらのものが客観性の目、つまり合理性の目によって見られ、私の眼光はそれらのものを突き破った。
 しかもその合理性は私の主観に対しても、向かったのであるが、私の主観の内には、客観性によっては把握しえぬものが、つまり「特殊なるもの」が残ってしまった。

 一般性と特殊性の対立が現れはじめたのである。

 一般的なものとしての科学的なものや、諸々の権威、および伝来の道徳が私に向かってくる場合、私の内なる一般的なものはそれを肯定するのであるが、私の特殊的なものが、それに対して叫びを発するのであった。一般的なものが、私を圧しつぶすという感じであり、息苦しくて、自由が感じられなかった。

 一挙手一投足が、それら一般的なものの絶対的命令としてmustで立ち向かってくるのであった。そのmustが私を規制し、見張りを付けられたかのように私は私の行為に、のびやかさがないことを発見したのでもある。

 その頃は、カントの定言的命令を誤解していたようであった。このような東京での生活の他に、私は自然というものがあった。それは東京近辺の山歩きであった。しかもその自然も、永遠的なものではなく、単なる一時の慰めであった。そこに永住することは、私には解答とは思われなかった。知人には、そういう人もあったが。
 私にはそのような、慰めを与えてくれる自然は一つの謎のままであった。ボードレールの次の詩のように……


自然は神の宮にして、生ある柱
時をりに 捉へがたなき言葉を洩らす。
人、象徴の森を経て 此処を過ぎ行き
森、なつかしき眼相(まなざし)に 人を眺む。

長き反響の 遠方に混らふに似て、
奥深き 暗き ひとつの統一(とをいつ) の
夜のごと光明のごと 広大無辺の中に
馨と 色と 物の音と かたみに答ふ。(注9)


 形而上学的と言われるような問いが、私の中に起きてきたのは大学入学の頃であった。つまり「私は何に興味を持っているのか」、「私は何がやりたいのか」、「私とは何か」、「世界とは何か」……というような問いである。

 しかしこの問いには、すぐ破綻がきた。つまり主語・述語関係による解答には、常に残る何物かがあり、はみ出る何物かがあり、永久に答えが答えきれないという事情である。

 それは万事万象の生成性の確認であった。

 そのような中で私の聴講態度は、知れていた。授業はうすら寒いことをやっていた。ドイツ語等さらさら興味など持っていなかったし、それは私の精神をむしばむ害虫か何かのように思っていた。興味を憶えたのは、西教授の「禅学特講」であり、プロチノス、実存哲学関係位なものであった。日々これ、読書、女、アルバイト、放浪であった。しかもそれの全てが否定的で、ガタガタで秩序なく、混乱して目に映じ、私はきちがいであり、世界はカオスであった。行動は一秒も静止をきらい、何物かに追いかけられているかのようにそこを飛び立ち、電車の中を歩くような状態であった。様々な放浪の様式が展開し、ぎごちなさと性急さと突発性が主たる性格であった。それらの事を擬音で表すと、ギリギリ、ガチガチ、ギ―である。行為が一直線になされるのではなく、「あれか、これか」の判断あるいは決断がつかないために一定所に痙攣を起こしてふるえているしか、仕方がなかったのである。全て行為に先立って、その結果が予測されて、その行為から明るいものをはぎとり、色あせたものにしてしまうのであった。優柔不断―これこそあの当時の私の性格でもあった。そして決断の重さが、私を圧しつぶしていた。

 私の知識で把握し得ない不合理なものの存在、悟性に拠って到達できない物自体、不合理なものが直接には把握しえぬこと、つまり言葉によっては理解しえぬこと、この辺が、問題になっていたのである。

 この問題に対して取り組んでいた私は、その不合理なものの暴力に、たたきつけられてしまっていたのである。私は当時、その不合理なものに対する態度決定をせまられていたゆえに「あれか、これか」の途上で決断が出来ずに身震いしていたのである。

 上段構えか、下段構えか、あるいは八方破れの構えか、このような態度の仕方を希求していた私に、キルケゴールのように必然的なものとしてのキリスト教に対する態度がそうであったような必然的な構えは、何もなかった。儒教も仏教あるいは禅も、西洋流の神も、エキュピリアンも、神道も禁欲主義も……何もかも一切、必然的なものとして、私が受け取らなければならないというようなものはなかった。それらは態度の学びとして評価の対象としては存在し、且つ又、私はそれらの中をさまよっていたのでもある。そして全ての人生に対する態度に学びたいという程、その態度の決定を望んでいたのである。この開けた態度、あるいは反面、ニヒリズムの「あれも、これも」の途上における無決定性、自分の知の為に奉仕する奴隷、全て不確実であると言い放つ自我の舞踏家。傲慢と謙虚が同居していた私。探求と放棄の同居。結句、私にとってそれらの思想や主義としての知識は何事も私に起こさなかった。全てが知の喜びとしてのみ通り過ぎていった。知識ではない。行為である。しかもそれは、まったく非論理的なものである。

 思考的な手続きを踏んで人は行為に赴くものであろうか。私の場合には合理的ではなかった。しかし不可思議な行為はその現実性の持つ意味の重大さによって、全ての論理的、思考的なものを爆破させるとは言えるのではなかろうか。

 それらの知識と混乱は、今から考えるに自我の最期の(あるいは単に前の前の前段階であるのかもしれない)あがきであった。

 「死して成れ」というゲーテの言葉、あるいは「人間って奴は十字架にかけられて生命を一度失ってしまうと心が花のように開くものなのだ」(注10)というヘンリー・ミラーの言葉が意味するような死を前にしての恐怖のあがきであったのかもしれない。なぜなら私はその当時一つの十字架にかけられていたのであるから。そして自らその十字架を背にした十三歳の秋から、私は別の世界に住んでいるのであるから。

 世界に調和と秩序が回復し、かのヴェルレーヌの詩


空は屋根の彼方で
あんなに青く、あんなに静かに、
樹は屋根の彼方で
枝を揺るがす。

鐘は、あすこの空で、
やさしく鳴る。
鳥はあすこの樹で
悲しく歌ふ。

ああ神様、これが人生です。
卑ましく静かです。
あの平和の物音は
街から来ます。 (注11)


のような静けさが手に入ったのである。

 それは究極的な否定的行為に対する解答として与えられた。私はこの静かさを突然手にしていたのである。それはあたかも突然の死のように、突然の生であった。あたかもさずかりもののように、贈り物のように手に入ったのである。「求めよ、されば与えられん」ではなく、「捨て去れ!されば与えられん」であった。

今私はこのような経験をした後でただ「世界はある」、「私はある」、「貴方もある」といい、そしてヤスパースのように「存在がある」とも言えるのであり、そして0=∞、この数式0=∞を論理的なもので分析説明することは出来ない。それは確信なのかもしれない。

 このことに触れるのは他の機会に譲ることにする。 確実性の獲得は私の場合、知識的な放浪という様式となったのであり、そこからは成就されなかった。ただ、ある時突然それが成就されたのである。

 以上で、私の確実性の獲得の一大悲喜劇は、一応完了した。私は地上のパラダイスに住んでいるのであり、何もいまさらヤスパースの哲学をくどくどと、たどたどしく書く必要もないのであるが、卒業論文を五十枚書かないと卒業させないという規則だそうだから、五十枚になるまで筆を進めようという次第である。であるから、ここから以下の文章は読まない方が宜しいでしょう。

 ヤスパースの『哲学』三巻を、五日間で、五十枚位に縮めようというのであるから、ヤスパースさんがこれを知ったら、まあ、そのような事もないでしょうが、あの縮まりつつある顔が益々縮まってしまうでしょう。枚数だけ数えて、次の仕事に移られた方が、これを読まれる方の心のためにも良いでしょうし、これを勧めることがまた筆者としての義務でもあると心得るものであります。




(注1) Decartes und die Philosophie :Von K.Jaspers 重田英世訳 理想社版 p.146
(注2) Einfuhrung in die Philosophie : Von K.Jaspers 草薙正夫訳 新潮社版 p.16
(注3) 右同書 p.16
(注4) 右同書 p.17
(注5) 右同書 p.17
(注6) 右同書 p.25
(注7) Europaische Phirosophie der Gegenwart Von J.M.Bochnski 桝田啓三郎訳 岩波書店版 p.180
(注8) 世界近代詩十人集 ボードレール編 「悪の華」祝祷より 堀口大学訳 河出書房新社 p.84
(注9) 右同書 「悪の華」交感 鈴木信太郎訳 p.85
(注10) 月刊雑誌「タウン」昭和 42年 2月号 p.55
(注11) ポール・ヴェルレーヌ著 『叡智』 河上徹太郎訳 穂高書房版 p.155.156


(以下略)



  
「暗号について」←クリックしてお進みください。


(参考) 古書でどうぞ! 気分の哲学―失なわれた想像力を求めて (1970年)毎日新聞社 (Core books) 飯島 宗享 (著)



無料配布キャンペーンその2 「きっかけ哲学― 心ゆさぶるフレーズ集」

2016年05月22日 | 電子書籍
本日無料ダウンロードを太平洋標準時 (PST)2016年5月22日~2016年5月26日に行います。

日本時間では、17:00 に開始し、終了日翌日の 16:59 に終了します



内容紹介
拙著『情緒の力業』第7章からの引用文を抜き出しました。272の引用集です。スマホ・タブレットに保存しておいて、修行のひとしぐさとして、ひらめきの嵐にまみえたいときなどに一寸お楽しみください。



登録情報
フォーマット: Kindle版
ファイルサイズ: 1003 KB
紙の本の長さ: 73 ページ
出版社: 高野義博; 3版 (2014/6/3)
販売: Amazon Services International, Inc.
言語: 日本語
ASIN: B00KRAT1O4


 はじめに

出所:『情緒の力業』第7章瞑想的感応 序 言葉の交響
p.264~p266



 要するに、線条論理に対するこの直感的会得の道は、一般的に数量化できず、概念化できず、伝達し得ず、線条的な因果の段階を登って極められるものではない。むしろ、登ったり降りたりしながら、様々に結び付き、重なり、複雑なアラベスクを織り、渦雲状の塊を成すものである。
 そして、たまたまやってくる経験の華は、その沈黙、忍耐、関心の集中によって甚振られた無数の言葉の交響の中から万の関係と万の依存が一瞬の内に形成し合う「情緒の力業」の巨大な子不ルギーによって花開くのである。そこから更に、瞑想的感応の広大な世界ヘー挙に全天空的な展開を始めるのである。

 瞑想的感応そのものについては語れないがせめてそこに至るには無能な「Was」を捨てて、「Wie」の投網を投げよう。
 そこで、この数ある「Wie」の一つとしての「引用」の効用について考えてみると、「引用」という技法は、普通は因果論的論理の線上をなぞるだけの追加、言い替え、根拠等として用いられている。
 つまり、論旨の補完又は拠り所として線条性論理構築の一手段とされているのであり、それに奉仕するように組み込まれているのである。引用の動機としての「釈」とか「義」とかが行われるレベルが因果論のレベルで行われている限り、それは全て因果論の枠内という限界が初めから設定されているので、人為的で非創造的な行為とならざるを得ないのである。それは、自由な設定も、創造的な展開も、自然の顕現も当初から排除するように構造化されているのである。

 引用の典型として空海の「十住心論」を考えた場合でも、そこに繰り広がる「綾なす引用文の連続運動」(山折哲雄)がはたして因果論的な顕教レベルを突破して密教レベルの言語観を達成しているかどうかは大いに疑問とするところである。要するに、 「引用」という手法はどのように使おうと線条性論理の守衛どまりなのである。

 そこで、我々は以下に羅列する無作為な言葉の響き合わせ(義)によって、このような引用とは異なるものを意図(博)してみよう。
 というのも、これは前後左右、顕在的なものと潜在的なもの、上下、過去と未来……を縦横に駆け巡って関係と依存の再建、新しい構築を企てる「情緒の力業」を作動させるやも知れぬ不確かな技法なのである。
不確かというのは、これは一に当事者の沈黙、忍耐、関心の集中という能動的受容が行われるか否かにかかっており、当事者の構想の中のみに存在し、客観的な有り様をして誰にでも把握出来るというものではないのである。
 それは、太古に、あるいは原初にそうであったように「それ」と我々とが不可分離の一体をなしていたように再構成し、「それ」と我々を融即的な直感的全体と成し、断片化し無機化していた対象を意味に溢れる有機化した全体とする技法である。

 これは、あるいは終わりが無い単なる「惚けた遊び」かも知れない。
しかし、ここにきて最早これ以上語りようがないのである。さらば、哲学よ!

 我々に残されたことは、「情緒の力業」を希求しつつ世界を読むこと、見ること、聴くこと、つまり人生の全てに、己を晒すこと。
 そうして、成らざれば沈黙。


←クリックしてお進みください。




Amazon電子書籍無料配布キャンペーンその1「童女のようにはしゃいだギリシャ旅行記 」

2016年05月17日 | 電子書籍
このブログでおすすめしている「はじめての哲学」の電子書籍6冊、順次無料配布キャンペーンを行います。
お楽しみいただけましたら幸いです。


第一弾として、本日無料ダウンロードを太平洋標準時 (PST)2016年5月17日~2016年5月21日に行います。

日本時間では、17:00 に開始し、終了日翌日の 16:59 に終了します

PC・スマホ・タブレットにダウンロードしてお楽しみください。


内容紹介

3人の子育てという現実生活の魑魅魍魎からほぼ解き放たれて、ギリシャの地に遊んだ夫婦の旅行記です。お読みいただくと、あなたは強いサジェスチョンを受けられるでしょう。


登録情報

フォーマット: Kindle版
ファイルサイズ: 2434 KB
紙の本の長さ: 37 ページ
販売: Amazon Services International, Inc.
言語: 日本語
ASIN: B00KXO7GNC


⒎ 童女のようにはしゃいだギリシャ旅行

・五十六才にして何かが一段落したということか、子供たちも、生活も、事務所勤めも、年金の研究も、著作も……、そして我々二人の人生そのものも。
・和子がこんなにはしゃいだのは、結婚以来始めてみることだった。そもそも結婚の直前から三〇年間ほど次々と襲ってくる生活の大波小波に翻弄されて息継ぐ暇もないままだったのだから。そお、確かに、結婚前のほんの一時、見たような和子、童女のようなその振る舞いを、はしゃぎようを!
・最後に一言、いつの日か機会があれば、ナフプリオンの安宿で、一ヶ月ほど何もしないで風に吹かれたままギリシャ人にまぎれて暮らしてみたいものである。



 結局、ギリシャは、変わった経験、新しい体験にあふれている世界で、自ら探検し、もぐり込み、吸収し、そして自分自身をとけ込ませることを恐れない、好奇心の強い旅行者のための国なのだ。セロファンできれいに包まれた人生を望む人々にとっては、無意味な国である。 (K.GOUVOUSSIS社刊行 (日本語版)『ギリシャ』)


  ←ここをクリックしてお進みください。


このユニゾンから何を感じますか?

2016年05月15日 | 読書
1.アミーチス 『クオーレ』和田忠彦訳 新潮社
2.鎌田東二 『神道とは何か』 PHP新書
3.レイチェル・カーソン 『センス・オブ・ワンダー』上遠恵子訳 祐学社
4.フェンテス 『純な魂』木村栄一訳 岩波文庫
5.山本周五郎 『裏の木戸はあいている』新潮文庫


 このユニゾンから何を感じますか?

 或る絶妙な領域をほのぼのと指し示しています。

 一声、お聞かせいただいたら幸いです。




人の世は 知らぬことばかり 出会うもの (75歳翁)

2016年05月14日 | 読書
 当方、哲学と年金関係の本を読んで70歳までやってきました。
 年金を終えたところで、あたりを見回してみれば、ああ、まったく知らぬことばかり。
 
 その最たるものが、日本の古典文学(竹取物語、古今和歌集、往生要集、夜半の寝覚、山家集…)。
 明治政府の功罪、考古学の実態、神仏習合の歴史などはまったく不案内。

 今は餓えた者のように読みまくっています。その軌跡をメモ(抜き書き)にのこしつつ。
 その一端をご覧いただけましたら幸いです。
 

 
 

 
252 溝口睦子『アマテラスの誕生』 岩波新書

 天皇制思想は、弥生に遡る日本土着の文化の中から生まれたとする見方が大勢を占めてきたが、本書は、日本が初めては統一王権を形成した五世紀前葉に朝鮮半島から導入した、元をたどれば北方ユーラシアの遊牧民の間にあった支配者起源神話にその源流を持つもの、すなわち当時の国際関係の中から生まれたものとみている。

 五世紀から七世紀のヤマト王権時代をとおして、国家神は「アマテラス」ではなく「タカミムスヒ」であった。

 この時代にたくさんの渡来人があったこと、騎馬民族の文化が到来したことは確実である。(佐原真「日本人の誕生」)

五胡十六国時代(四世紀から五世紀前半)の東アジアの動乱

 この天に由来する王権思想(北方ユーラシアの遊牧民の思想)

 当時日本の支配層が、現状を打開する上で取り得る道は、この北方系の王権思想を取り入れて抜本的な体制の変革を行うか、あるいは従来の豪族連合方式を改良・改革し、土着の思想を進化させて乗り切るかの二者択一だったと思われる。

 統一王権は、父系制や血統重視の観念、世襲制などを、「制度」「理念」「思想」として取り入れることで、地方豪族の組織化と、彼らとの関係の維持・安定を図ったのである。

 天孫降臨神話と高句麗の建国神話との類似や、また日本の天孫降臨神話と、北方ユーラシアの遊牧民の始祖神話とが共通して持っている特徴。

 高句麗・匈奴・モンゴル・ウイグル→「天」「月」「日」

 天孫降臨神話は五世紀初頭に朝鮮半島から導入された、北方系王権神話の系譜をひく神話だとする見解

 天孫降臨神話の本来の主神、すなわち天孫に地上世界の統治を命じた国家神・皇祖神は、衆目の認めるところ、アマテラスではなくタカミムスヒだった。

ヤマト王権時代(五世紀~七世紀)―タカミムスヒ
律令国家成立以降(八世紀~ )―アマテラス
 記紀神話には、五世紀段階で新しく取り入れた、北方系の王権思想に基づく建国神話と、在来の土着の伝承を集成したイザナキ・イザナミ系の神話体系という全く異質な、二つの神話体系が入っていた。

 この二つを一本化して、ひとつなかりの神話として記紀神話に入っている。

 この二つを結びつけるために執られた方法が、イザナキ・イザナミ系の主神「オオクニヌシ」が、建国神話の主神「タカミムスヒ」に、国の支配権を譲ったという筋書きである。

 そこで天武は、連や伴造といった特定の氏グループの神と見られ勝ちなタカミムスヒをそのまま国家神として掲げることによって、新しい統一国家が、それら伴造中心の官僚国家になるような印象を与えるのは得策ではないと考えたのではないかということが転換の背景、あるいは理由として一つ浮かんでくる。派閥の
匂いの強いムスヒの神ではなく、すべての人々に古くから馴染みの深いアマテラスを神々の中心に据えることによって人心の一新をはかり、新しい国づくりに挙国一致で向かう万全の態勢を整えようとしたのではないか。

古事記の異伝統合の方法

 『古事記』は、大胆な思い切った方法で神話を一元化し、統一国家にふさわしい一元的な世界観を創出した。そしてその頂点に、イザナキ・イザナミ系の太陽神アマテラスを天武は初めて置いた。

『古事記』序文で天武天皇が、
撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
訓読文:帝紀を撰録((せんろく))し、旧辞を討覈((とうかく))して、偽りを削り実を定めて、後葉に流((つた))へむと欲((おも))ふ。

 天を基軸にした世界観→唯一絶対の「権威」→天の至高神→天皇の誕生

天孫降臨神話の導入と同時に北方から取り入れた、父系観念や血統・出自の尊重、世襲絵観念などがある。





253 レヴィ=ストロース『神話と意味』大橋保夫訳 みすず書房

 レヴィ=ストロースは、神話はすべて、自然が与える混沌たる事実に知的意味を与えようとする弁証法の試みであるとし、不可避的に人間の想像力を二項対立の網に捉えてしまうと論じている。(ドニジャー)

 私たちの各自が、ものごとの起る交差点のようなものです。交差点とはまったく受け身の性質のもので、何かがそこで起こるだけです。他の所では別の事が起こりますが、それも同じように有効です。選択はできません。まったく偶然の問題です。

 科学には二通りの方法があるだけです。還元主義的方法と構造主義的方法です。

 それらの現象のあいだの関係→どういう種類の独自の体系を作っているか

 無秩序の外観の背後に秩序を見出そうとする試み

「具体の論理」とは、イメージや象徴などに対立するものとしての感覚所与を尊重し、それを利用することです。

 マリノフスキ-のが実利的解釈だとすれば、レヴィ=ブリュールのは情緒的ないし感情的解釈です。

ブリュールの専門はドイツ哲学であり、優れた哲学史家として認められていた[1]。彼は道徳の分野においては普遍的規範を認めず、社会的事実としての道徳を研究することを提唱し、これを「習俗の学 science des mœurs」と呼んだ。そこからブリュールはギリシア哲学以前に道徳や倫理がいかに発生したかという問題に取り組み、文明以前の「原始的心性 mentalité primitive」を措定した。フレイザーのように未開社会が進化して文明社会となったとは考えず、文明社会の「論理」や科学的思考は、未開社会を理解する役には立たないとブリュールは言う。文明人が分析し判断するところで、未開人は綜合し「融即」する。未開人は文明人のように論理的思考ができないのではなく、そのような心的習慣がないだけなのだ。「未開人の言語は論理的概念の形式とではなく、神話的(魔術的)概念の形式と比較しなければ理解できない」というブリュールの学説は例えばエルンスト・カッシーラーの言語哲学に影響を与えた[2]
。(ウィキペディア)

二項操作は、ずいぶん異なった形ではありますが、すでに神話的な思考によって物や動物を使って行われていたのでした。

十七世紀~十九世紀→量的展望
当今→質の面の統合

 人間の心の中に起きることが基本的生命現象と根本的に異なるものでないと考えるようになれば、そしてまた、人間と他の全ての生物―動物だけでなく植物も含めて―とのあいだに、のりこえられないような断絶はないのだと感ずるようになれば、そのときにはおそらく、わたしたちの予期以上の、高い叡智に到達することができるでしょう。

 しかしそれにもかかわらず、私は各瞬間に、前に聞いたものと今聞いたものをまとめ併せ、音楽の全体性を意識する状態を維持しています。

 音楽がそれらの形式を作り出した時、神話のレベルで既に存在していた構造を再発見しただけだと言ってもよいくらい似ているのです。

 統合という神話での解決の構造は、音楽において和音が解決し曲をしめくくるのとよく似ています。和音も両極を統合に導き、決定的に結び合わせるからです。


言語では音素の組み合わせが語に、語の組み合わせが文になるという三つのはっきりしたレヴェルがあるのに対し、音楽では、論理的観点から言えば言語の音素に当たるものとして音符で表される個々の音があり、語に相当するレヴェルが無くて、直接に文のレヴェルに移ります。

 音楽では音素に相当するものと文に相当するものがありますが、語に当たるものはありません。神話では語に相当するものと文に相当するものがあって、音素に当たるものがありません。ですから、どちらの場合にも、レヴェルが一つ欠けていることになります。

私は子供のころからずっと、作曲家になろう、さもなくば、少なくともオーケストラの指揮者になろうと夢みていました。




254 J・キャンベル『時を超える神話』飛田重雄訳 角川書店

 日本ではこの二つの物の見方をそれぞれ事法界と理法界と呼びます。事法界は個々の事物に差別のある領域、理法界は個々の現象の背後にある全体です。
 そして人々は「事理無碍」、つまり、個と全体との間に隔たりも妨げもなし、と言うのです。
すべて同じものです。

 われわれは知っている、大地は人間の物ではなく、人間が大地のものだということを。あらゆる物事は、われわれ皆を結びつけている血と同じようにつながりあっている。
 人間は生命を自分で織ったわけではない。人間はその織物のなかのたった一本のより糸であるにすぎない。(一八五五年シアトル酋長のスピーチ)

A・バスティアンの考え方
 元素的な理念
 民俗思想

 紀元前九世紀だか八世紀だかに、特に東洋において強調点の変化が現われました。単に様々なイメージを示すだけでなく、イメージの解釈が行われ始めたのです。すなわち、神話の形式に対する視覚的で直接的な関係から―神話のイメージ群を通じ、また、神話を生活に取り入れるための儀式を通じて―こうしたものについて考える、解釈するという変化が起こった。こうして、東洋の哲学は元素的な理念を解釈する営みなったのです。

 永久不変の哲学

 シンボルを事実と誤解すること

 アリストテレスの論理法則を重視し過ぎた理性的な思考に傾きがちなこと

 だから彼らはこの不潔極まる水(ガンジス河)で沐浴し、

ガンジス河→死体
長江→糞尿

 伝統にこだわる人々はえてしてそのシンボル体系を事実の体系と混同しがちです。

「神々の源はおまえ自身の心の中にある。足跡をたどって中心に行き、神々を生む源はお前であることを知れ」(『チャンドーギア・ウパニシャッド』)

「マツダ」→特定の光の霊

この欲望と不安が鎮まったとき、あなたはマハスカー(大安楽)の境に到達し、法悦を経験します。法悦を経験すると、苦があなたに痛みを与えなくなる。あなたは中心に入り込んでいく喜びに満たされる。あなたが中心に入ると、もはや何かを勝ち得るとか、負けて失うといったことがない。あなたは存在そのものとなる。これがニルヴァーナです。

お前がそんな問いを発するからだ。

「赤ん坊は生まれたとき必ず泣くそうです。何と言って泣くのか。赤ん坊は『天上にも、天下にも、私のようなものはいない』と宣言しているのです。あらゆる赤ん坊は仏陀・ベビーですからな」(鈴木大拙)

 これは教えることができない。(仏教)

しかし、私が教えるのは仏教ではなく、仏教に至る道です。(ブッダ)

あたかも頭髪に火が付いたので、池に飛び込むほど必死になって涅槃(ニルヴァーナ)を求めるのでなければ、最初からやめておいた方がよい。(ある経典)

あなたは二元性を超越し、そこで悟った―私は最初からここにいたのだ、と。要するに、見方が変わっただけです。

 多様な現象は、統一性のすばらしい顕現にほかならない。それが大乗です。

 キリスト教と仏教の間に素晴らしい対話が生まれます。その両者は、おなじひとつの基本的理念の二つの民族的な表れです。

 仏陀(紀元前五六三年~四八三年頃)
 孔子(紀元前五五一年頃~四七八年頃)
 ペルシャ王ダレイオス一世(紀元前五二三年~四八六年)

アリストテレスは理性によって霊魂に取り組み、超越への言及がなくなった。

 アリストテレス(合理的な立場)と聖書(民族的な立場)は、私たちがひたすら現実の時間と空間に没入することを要求します。その立場からは、永久不変の哲学の超越性はひとつの脅威と映るのです。それは自分らの合理的な立場や民族的な立場を脅かすがゆえに危険なものだと、多くの人が感じているのです。

紀元前二五〇年頃近東には新プラトン派の哲学とサーンキヤ派哲学が同居していた。

 仏教はどこへ行こうと、「お前たちの神々を切り捨てろ」などとは言いません。仏教の行った先々では、複数の宗教による合成が実に簡単に出来上がります。イスラームとキリスト教の特徴は、それらが進出した先の神々を全滅させるところです。

カント→「それは、空間の諸法則が我々自身の頭の中にすでにあるからだ」→プラトンのイデア

カント『形而上学原論』

「ヨーガとは知能の自発的な活動を意図的に止めることである。」(『ヨーガ・スートラ』)

二項対立のない世界

 仏陀が経験すべきことを経験し終えた後

「自分の悪魔を追放しようとすれば、自分の内なる最善のものを追放する恐れがあることに注意せよ」(二-チェ?)

 もしあなたがいやらしい人間であるならば、そのいやらしさを保持した方がよい。ただし、そのエネルギー(シャクティ)の方向を転換させなければなりません。

 仏性を持つ人がシャクティの方向転換によって解脱に至り、不動の仏陀になって世界を教化する。

シャクティの方向転換

 古典時代のギリシャにおける神秘的宗教が意図した霊的経験の本質は、意識を生活の純粋に現象的な面から逸らせて、深遠かつ永遠な面に、つまり、エネルギーに満ちた霊的な面に向けさせることでした。

 禅が取り組む問題の一つは「経験する」ということです。人々は人生の意味を学びたいとよく言います。人生に意味はありません。……。それとも……と、分類をしているうちにその経験が失われてしまいます。そこで、頭をライオンの口の中に突っ込んで、「ええい、ままよ」とだけ言えばいい。そこから何かが生まれてくるはずです。

アリストテレス的な論理を超えた経験

社会から与えられた、あるいは押し付けられた生活をする。その問題です。パルツィヴァㇽは、「与えられた女と結婚するつもりはない。自分の妻は自分の手で手に入れるのだ」と考えます。
255 『日本人と中国人』イザヤ・ベンダサン著山本七平訳 祥伝社 

南京事件
「提案を受諾しかつ総攻撃を開始せよ」という最も重大でかつ日本の運命を決定した決断を下した者は、実は、どこにもいないという驚くべき事実に逢着する。そしてその内容は、実は「市民感情が条約に優先した」のであった。「市民感情が許さないから、条約は無視された。感情が批准しなというい条約は無効であった」。従って提案は受諾され総攻撃は開始された。

 世界史にはときどき一見不思議とも見える現象がある。明治とともに「儒者」という存在が日本から消えてしまったことも、恐らくその一つに入るであろう。



256 『ヒンドゥー教の本』 学研

 神道と祖道

 人は死んだあと、祖道を通って植物に転生し、何かに食べられて精子となる。それからようやく、人か動物かの母胎に入り、再生して新たな人生が始まるのである。

 人間がブラフマンと一体化できる理由は何か? 
 それは彼の内なる本質が不死不変のアートマンであり、アートマンとはブラフマンだからにほかならない。
 この考え方は、実体としてのアートマンを認めない仏教とも異なるし、人間を被造物とするキリスト教とも根本的に異なっている。

 事実、このハタ・ヨーガこそが、チベット密教をはじめとして、道教、中国禅、日本の密教に至るまでの各修道論の出発点となっているのである。

 古典ヨーガが、サーンキヤ哲学に基づき、俗的な属性であるプラクリティの止滅(否定)によって聖なるプルシャとの合一を目指すのに対し、ハタ・ヨーガは古典ヨーガによって顕現した聖なるもののパワーを使い、俗的な世界を積極的に聖化させ、神々との合一を果たそうとするのである。これらの、どちらかが欠けても、真の意味での解脱(モークシャ、宗教的覚醒、神人合一)は完成されないのである。

 こうした、仏教の如来蔵思想にも通じる個々人の真の我という概念が、宇宙の絶対的な意識と合一するという感覚は、ウパニシャッド哲学を背景とするインドにおいて、古くから存在した考え方であった。

『アルタ・シャーストラ』は、カウティリャに帰せられ、三世紀ごろの書とされるが、その重要性にもかかわらず、今世紀になるまで一本の写本すら発見されなかった幻の大著である。

 嫡男を作ることと並んで、法典の定めるところに従って社会・宗教的義務を果たすことは、リナ(これは神々への債務)の弁済の一つであり、トリ・ヴァルガのうちでも中心となるものである。

 『マヌ法典』は、人を社会階層としてバラモン(僧侶階層)、クシャトリヤ(戦士階層)、ヴァイシャ(商工人層)、シュ-ドラ(奴隷層)四姓に分けるのみならず、ここの人間を四住期に分けるのである。




257 『ヒンドゥー教』‐インドの聖と俗 森本達雄 中公新書

 ヒンドゥー教徒は墓を作らず、死者は荼毘に付し、遺骨は砕いて灰と共に天国に通じる聖なる川に流すのである。

 古代のリシたちは、宗教学者が神秘体験と呼ぶ精神の恍惚状態のなかで、昂揚した霊的直観をもって永遠の真理の声を聞いた(感得した)のである。『ヴェ-ダ』が天啓の書と呼ばれるゆえんである。

 「今お聞きいただいた聖句は、すべて数千年の昔に、私共の祖先が天に向かって詠唱していたものと寸分違わぬ賛歌です。それは五千年間、一言一句まったく変わっていません」
(著名なバラモンのサンスクリット学者)


口承の尊重

アーリャ人(高貴な人々)
アーリア人とは元々、中央アジアからイラン高原付近に住んでいた遊牧民族です。 彼らは、イラン高原に住んだ人たちと、インド方面に移住した人たちに分派しました。 それらの言語は総称して「インド・ヨーロッパ語族」と名づけられました。(ウィキペディア)

マヌ法典
『マヌ法典』(マヌほうてん、サンスクリット語: मनुस्मृति)は、紀元前2世紀から紀元後2世紀にかけて成立したと考えられている法典(ダルマ・シャーストラ)。世界の創造主ブラフマーの息子にして世界の父、人類の始祖たるマヌが述べたものとされている。バラモンの特権的身分を強調しており、バラモン中心の四種姓(カースト制度)の維持に貢献した。8世紀から、その注釈書が多く書かれ、長い間ヒンドゥーの生活規範となった。
また、その内容が理念的で文学的、加えて教訓的要素が多いために、インド人の生活のみならず、インド人の内面部分、精神部分にまで深く根ざすなど、その影響力は計り知れない。インドはもとより東南アジア世界にも大きな影響をおよぼした[1]。(ウィキペディア)

ヒンドゥー教を「四姓と住期の法」と定義する学者もいる。

可視的な通過儀礼を導入したのは、信仰生活の推移・発展に時間的な連続性と具体性を持たせるためではなかったか。

 とりわけ七世紀前半から始まったイスラーム勢力に対して守勢に回ったヒンドゥーが、法典に示された宗教的・社会的規範を、ひたすら自己のアイデンティティの拠り所として、ますます法典への信奉を強化し、貝のように宗教的独善の殻に閉じこもったことは、特筆されなければならない。

サティの蛮習の廃止→十九世紀初め「近代インドの父」ラーム・モーハン・ローイ

 今日でも再生族、とくにバラモンの子弟だろうか、屋外の木陰などで、師や父らしき人の傍らに座って、ヴェーダの口承に励んでいる光景を見かけたことがある。

 彼らは語句の意味や詩文の内容の説明を求めることはしない。頭脳が柔軟で、記憶力が旺盛なこの時期に、まず神の言葉をそのままに覚え込んでしまう。語句の意味や詩節の解釈は、歳とともに自ずから氷解し、生涯をかけて学んでいけばよいというのであろう。

 こうして古代の立法者たちは、林住・遊行期を最高の理想・目標におきながら、世俗の家住期を最優先させるという、自家撞着を平然と説くのである。

 四住期は百年の計

 彼らにとって森への隠棲は、家住期を無事終了しえたとの、長寿の喜びであり、感謝の現われであった。それは、みずからを社会の無用者とみなすひねくれた老人の無力感や、その裏返しとも言える、いわゆる老人パワーの誇示からは生まれない発想である。

こうしてついに、肉体の衰弱と、欲望の凋落が来る。魂はいま、豊かな経験を積んで、狭い生命から普遍的な生命へと旅立ち、普遍的な生命に自分の蓄積した叡智をささげ、自らは永遠の命との関係に入る。それゆえに、最期に衰弱した肉体に死の時が訪れようとも、魂は無限なるものへの期待に震えつつ、別離をいとも自然なことと観じ、悲嘆にくれることはない。
                                 タゴーㇽ

 終焉の無言の祝祭へと
 渡し舟を漕ぎ出すときに
             タゴール

 個々の事象が説き明かされたとしても、宇宙と生命の存在の神秘そのものは人間にはまだ謎のままである。それを知るのは、科学的知識の回路ではなく、高度な霊能力の回路である。

 ヨーガとは、その実践者がすすんで森林樹下の閑静な場所に座し、牛馬に軛をかけて奔放な動きをコントロールするように、みずからの感覚器官を制御し、瞑想によって精神を集中し(結びつけ)て、(日常的な)心の作用を止滅することである。

 佐保田鶴治博士
ラージャ・ヨーガ→顕教的
ハタ・ヨーガ→密教的

ヒンドゥー正統主義者たちは、古代法典を金科玉条の拠り所として、カースト制度をはじめ、そこに規定されたすべての宗教規範や社会秩序に忠実に従い、苦行主義など伝統的な行法を強化することに、自宗のアイディンティティと優越性を求めたのである。

 それゆえ彼カビールは、ヒンドゥー教の偶像崇拝と同様、イスラーム教の儀式や慣習の形式主義を批判し、神は寺院やモスクにいますのではなく、農夫や職工が額に汗して働く田畠や工房に、親子が寄り添って暮らす円満な家庭にいますことを、言い換えれば、神はヒンドゥーの司祭やムスリムのムッラー(学者・教師)の独占物ではなく、人間の心の中にいますことを説いた。そんな彼が、聖典の権威を排し苦行や沐浴や巡礼を無意味とし、とりわけカースト他一切の身分差別を指弾したことは言うまでもない。

 タゴール『カビール詩百選』

カビール
万物の中に一なるものを見よ、あなたがたを惑わすのは二次的な者である。

クリシュナ
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはならない。

最高の帰趨に赴く

人間の計らい(義)

親愛の対象としての神

愛の情緒

ラーマクリシュナ
 雨季のある日のことであった。少年がおやつの炒り米をかじりながら畑の畦道を歩いていると、雷雲がみるみる空一面に広がったかと思うと、どこからか真っ白な「ボラカ」と呼ばれる鶴の一群が黒雲を背景に飛んで行った。その色彩のコントラストのあまりの美しさに圧倒され、少年は意識を失って、その場に倒れてしまったのである。

忘我の体験

 ラーマクリシュナはやにはにその剣をつかんで、刃を喉に突き刺そうとした。そのときにはかに、世界の一切が視界から消え失せ、ラーマクリシュナはその場に意識を失って倒れたのである。

 後年彼は、その日の出来事を「そのかわり、光り輝く果てしない霊の大海が見えた。見渡す限り、まばゆいばかりの大海が四方八方からすさまじい轟音を立てながら、私に向かって押し寄せてきて、わたしを呑み込んでしまった。」

 トターブリという名の裸の行者→ラーマクリシュナの師

いずれも覚者のみが語りうる、見事な譬え



258 イスラームの神秘主義―ハーフェズの智慧 嶋本隆光 京都大学学術出版会

 スーフィズムの発展した時代の中東地域の独自な条件である。すなわち、八世紀から九世紀前半の時代は、アッパース朝(750~1258)が全盛期にあって支配者として君臨していた。これは、イスラーム文化が大いに発展した時代であった。

 イスラームでは原則「出家」を認めないからである。



259 『アフリカの神話的世界』山口昌男 岩波新書

 対立概念の揚棄についての原感覚

神話・昔話の形態論的研究が我々に教えるのは、そういったレベルでの意識の働きを、外部にありながら内在的に捉える技術、つまり醒めつつ酔う精神の技術なのである。

 我々は物語の中の登場人物がすでに現実世界からの抽象を経たもので、特定の物語的展開の可能性を秘めた、イメージを担うものとしての行為に結びついた類型であるということ、つまり物語的展開の可能性(時間的)の分類の産物であるということを知っている。

 象徴が記号と異なるのは、それが概念の間における一対一の対応関係として作用するのでなく、アナロジー関係の束の対応によって多元的な対応関係の表現の媒体である、という点においてなのである。

 リユック・ド・ウーシュ
「儀式の逆説は、それが-はじまり-の神話的時間を再創造して、俗なる時間、穢れた時を廃するというところにある。聖なる思考というのは、日常的な論理体系では近づくことのできない存在論的な領域において展開するのである。」

神話素
A小にして大、幼にして成熟という相反するものの合一
B盗み、詐術による秩序の擾乱(じょうらん)
C至る所に姿を現す迅速性
D新しい組み合わせによる未知のものの創出
E旅行者、伝令、先達としての異なる世界のつなぎをすることとの関わり合いにおいて生活する。
F交換という行為によって異質のものの間に伝達を成立させる
G常に動くこと、新しい局面を拓くこと、失敗を恐れぬこと、それを笑いに転化させることなどの行為、態度の結合

神話的なものに対する感受性は、神話に接する人間の日常生活的世界に対する距離の取り方に根差しているといえる。人間は日常生活を機能的な効用性を中心として組織する。その世界で人間は、彼の物理的再生産を可能とするような機能的世界の構成要素とのかかわり合いにおいて生活する。そのような世界では人間は、意識の極めて表層だけの統一に己の働きを限定する。しかし、そこに、人間と、可能な世界との深いコミュニケ-ション、より包括的な意味での統一感覚は立ち現れないことを知っているし、また自覚している。また自らの装置の中に自動的にその自覚を組み込んでいる文化または人間が常にいるものである。これらの文化または人間は、特定の時間、空間、媒介(象徴)を目印として日常生活的現実から、より深い意味での統一感覚の立ち現われて来る潜在的な現実へと、スイッチを切り替える術を身に付けている。

E・フィッシャー
 物神化を放棄することは、表面的なあるいは予定調和的なリアリティを打ち破って潜在的なリアリティを発見する。

S・リラール
 あたかも潜水器のなかにいるかのように、己の自我の最も深いところに沈潜して生きている人たちがいる。彼らは、そこのわずかな流れでも感じ取る。表層に、歴史的現在に生きている他の人たちでも、ときには、この〈神話の屑〉の何らかの断片が、どちらかと言えば鋭い、鮮やかな感覚を伴って、浮かび上がってくるのを見ることがある。彼らにしても、この〈神話の屑〉を気づかぬままに、認識できぬままに、心の中に抱いているのであり、それが郷愁を、ひいては回想を呼び覚ますのである。

 この〈神話の屑〉は絶えず二面的に働きを示す。一方では人をして潜在的な現実へ向かわせ、他方では、人をして生の源泉に触れさせることによって、日常生活の世界の相対的相貌を対象化することを可能にする。

 神話が、断片化して無意味になった日常生活的経験を別のコンテキストに置き換えることによって、世界を蘇らせ、真の意味を与える精神的技術だとしたら、我々が「いたずら者」の神話を通じて垣間見たアフリカの神話的世界は、その親しみのある外貌の底に量り知れぬ世界感覚と、固定化し人を支配する日常生活的現実に対する起爆力を秘めていると言えるはずである。

F・ボアズ
 神話的世界はひたすらに破砕されるためにのみ築かれ、新しい世界は断片を寄せ集めて造りあげられるかのようである。



260 『「バラの名前」覚書』ウンベルト・エコ 谷口勇訳 而立書房



261 『日本のシャマニズムとその周辺』―日本文化の原像を求めて 加藤九祚編 日本放送協会

 そしてこの聖地の神を山麓の社に招いて祭をすることに重点を置いた宗教を神道と捉えることができる。これに対して修験道は、積極的にこうした聖地に入って修行し、そこの神霊の力を身に付けて活動する宗教者を中心としている。換言すれば、我が国古来の聖地信仰のうち、山麓から聖地を拝するという形態に展開したのが神道で、積極的に聖地に入ってその心霊の力を獲得して、それをもとに活動するのが、密教の験者や修験者であるということができるのである。

脱魂ecstacy
憑霊possession

 ノロと対坐するアラ神はコバ扇で顔を隠しているが、それを他のノロクメが円形に囲んで着席し、太鼓に合わせてオモリ(神歌)を唱える。次にブーという葦に似た草束を各自が両手に持ち、太鼓の音に合わせてしきりに畳をたたく。満場が喧噪状態となり、立ち上がってウッカンの音頭でブーを振りながら輪舞する。踊りのテンポは次第に早まり、アラ神の手足が震え身体が前後に揺れ動く。おそらく神ブレの状態に入ったのであろう。最後に踊りが収まると、アラ神は扇を顔から離して下へ置き初めて顔をあらわす。つまり新しく神として出現したことを象徴的に示すわけで、つづいてノロ・ウッカンの三人とともにウントネの神を合掌して拝んで終わる。(奄美大島のノロ)

入坐の動機
 巫病か家系(家筋)→神懸りのトランス

沖縄→神ダーリー

ねからはなさくゆきのした
             大本教二代目教主出口スミ

 そこというのは言語不通の所なわけです―視点の変換が可能である場所と表現しているのです。こちらから見る見方と向うから見る見方とが自由に入れ替わる。いろいろな立場に立ちうる。その立場の変換が自由にできる場所、そこに宗教の発端があると考えているわけです。

 「自我活動が消えたトランスの状態に、情緒的な感情が入ってくる際がエクスタシー」
262 『回教から見た中国』張承志著 中公新書

 広州においては、蕃坊が外国人の居留地と決められたが、「蕃長一人を置き」、外国人自身に管理の責任を持たせるようにした。

 唐代の中国では外国人に対する政策がいかに開明的なものであったか、今の人ならもっと理解できると思う。たしかに、国籍、身分など一切問わず、永住から経済活動の自由まで与えられた外来者たちがどんなに喜んだかも、想像されめるであろう。

 唐代が、この系列の問題(住むこと、外国人に対する法律、経済活動のこと、結婚、苗字、相続のこと、宗教信仰)に直面した時、差別的な立場を採らなかったのは、まことに偉大なことと言えるであろう。

長安の隆盛の淵源→唐の制定した外国人政策

 劉介廉(清の時代・回教徒大学者・何百巻というイスラム教の著書・「三極の学」)

馬明心(聖職者・ス-フィズム真意理解者)

日本軍の西方侵略を止めた西北の回民軍閥

 当時の日本が、自国から遠く離れたところで民族問題という入り口を見つけ、中国を連続的に分裂させることに成功した事実は、今になっても人々を驚かせる。というのは、日本軍部の持っていた知識、その戦略的な深い考え、攻撃の実行おける巧みさなどが、多民族国家中国の弱点をついたのである。

 万里の長城に沿って、満州国、モンゴル自治政府の次に第三弾になるはずだったのは、寧夏と甘粛あたりの回教地域だと思われるのも当然であろう。しかし、日本が西北の回教地域で傀儡国を作ろうとした資料は、ほとんど見つかっていない。戦争中の日軍閥は本の中国イスラム地域に対する戦略は、長く埋もれてしまうかもしれない。いえることは、当時、西北各省の回教系軍閥は、一人残らず抗日的な立場を取っていたことである。

 一九三八年、馬歩芳が派遣した抗日戦争に参加させた回教系軍隊は二万三千人にまで増えた。この回教系の抗日軍は、九年間にわたって各地で日本軍と戦い、大きな戦闘が九回あり、死傷者が三千余人も出た。

 孔孟の道、すなわち儒学より完備した思想システムはないであろうが、孔孟の道以上に支配者に媚びる思想システムもなかったかもしれない。儒学が中国のなかでどのように宗教的な役割を果たし、儒教とみなされていても、それは真正の宗教ではない。逆に儒学は宗教を抑え、さらに中国人の宗教性を去勢する一面を持っている。このことが原因で、中国人は素晴らしい伝統と思想、文化を有する一方、理想と信仰を平気で放棄する不誠実な傾向をもたしかに持っている。


263 J・キャンベル『千の顔をもつ英雄』上下 平田/浅輪訳 人文書院

 深層のもつ様々な力に対しては軽々しく挑戦すべきではない。東洋では心理的に動揺を引き起こすヨーガの修行を、しっかりとした監督なしで企てる危険性について特に注意が払われている。

 男性の神ではなく女神としての太陽というモチーフは稀有で貴重な遺物であり、それはかってあきらかに広範囲にわたって伝播していたアルカイックな神話的文脈に内在していたものであった。

 だがかっての雄大な神話が、文明世界においていまなお効力を発揮しているのは日本だけである。


加藤玄智『神道とは何か』丸善 1935


アマテラスの冒険
 そこにあるのは光という立派な〔自然の〕贈り物に対するある種のやさしさであり、目に見えるようになった様々な事物に対する感謝の念である。こうした感情こそ、かって多くの民族の宗教感情を特徴づけていたものに違いない。

 シメナワは日本土着の宗教における伝統的な象徴の中でもきわだって重要な、沈黙の言葉を語りかけるものの一つである。

 シメナワは帰路境界を境にして世界が一新されるものをしるしている。

 十字架とシメナワは、彼岸・此岸の両世界を仕切る境界―実在と非在の境界線の神秘を象徴している。

 さまざまな象徴は伝達の「手段」にすぎない。それを象徴が終局的に指示するもの、すなわち真意と取り違えてはいけない。象徴はどれほど魅力溢れるものであったり印象深いものであろうと、理解しやすいようにしつらえた便宜上の手段に過ぎない。

聖トマス・アクィナス
「われわれが神を本当に知るのは、人間が神について可能な限り知りうるすべてのものをはるかに超えた存在がまさに神であると我々が信じるとき、ただそのときだけに限られる」

「執着なく、常になすべき行為を遂行せよ。」
 
神話として描かれた詩が伝記や歴史や化学として読まれるならば、その生命は立たれてしまう。生気溢れるイメージは、ただの遠く離れた過去の事実にすぎなくなる。

神話のイメージを甦らせるには、それらを現代の出来事に恣意的に当てはめるのではなく、霊感に満ちた過去が発する啓発的な暗示を探し求めなければならない。ヒントが発見されるならば、なかば死んでいた図像学の広大な領域は再び永遠のを人間的意味を開示する。

科学→エネルギー
メラネシア人→マナ
スー・インディアン→ワコンダ
ヒンディ教徒→シャクティ
キリスト教徒→神の力
精神分析家→リビドー

 われわれに普遍的な力の源泉を理解させず、ただこの力の反映に過ぎない現象形態だけに眼を奪わせる意識狭窄が超意識を無意識に転落させ、同時にまた世界を創造する。だからこそ救済は超意識への復帰となり、と同時に世界の消滅となるのだ。これが宇宙創成の円環の第テーマにして公理であり、世界の顕在とそれに引き続く非顕在状態への復帰の神秘的なイメージなのである。

テ・ボ・ファファ(うめいている夜)

激情の発作や形姿のゆがみ

そして刻々の瞬間は過去の瞬間の拘束から自由になるわけだから


264 『イスラームの日常世界』片倉もとこ 岩波新書 1991

イスラーム法は、きびしさより、むしろ人間に対するやさしさを持つものであり、弱い人間たちの「努力目標」という意味合いを持つものだと言われる。

 「人間は弱いものだ」という考え方に裏打ちされたムスリム社会のやさしさを知ると、人間を機械化しようとするような現代社会にあって、ムスリム人口が、どんどん増えている事実は故あることだと納得できるようになる。

 「人生はいろいろなことをするのがよいのです」ムハンマド



265 『イスラーム主義とは何か』大塚和夫 岩波新書2004

さらに、ス-フィズムの伝統においては、言葉による平和的な説得・教化もジハ-ドと呼び、むしろそちらの方が価値が高いと考えられていた。

十八世紀アラビア半島のワッハーブ運動
十九世紀スーダンのマフディー運動
二十世紀エジプトのムスリム同胞団やジハード団の活動

 そのような世俗化が進行する過程において、宗教=イスラームを公共的領域すなわち政治の場に持ち出そうとする試みは、あえてイスラームを「政治化する」という手段ならなかった。それが、本書でいうイスラーム主義である。

教ではないイスラーム

 一般的に「近代化」論では、産業化、資本主義化、民主化、世俗化などの諸要素がセットとなって実が、現したとされる「西洋的近代」が、非西洋諸地域の「近代化」を議論する際のモデル、ある種の範例となっている。つまり、これらの諸要素が一つのセットとして実現していなければ、その地域の「近代化」は歪んだものであり、真の「近代」はいまだ達成されていないとみなされる。

 西洋的近代化が「普遍的」であると(少なくとも西洋人には)信じられていた時代とは異なり、さまざまな近代化という問題の立て方が認められるようになったのである。そこから西洋モデルに基づいた「単線的近代化」に対し、「複線的近代化」という考え方が登場した。

硬いヴァージョンの本質主義的集団把握

 急進的イスラーム主義者の場合も、信仰者と不信仰者(異教徒)という友・敵二分法を採用する。さらに、ブッシュ大統領の説く、「文明とテロの戦い」もまったく同形のイデオロギーである。中立的もしくは仲介者的立場を認めず、世界を素朴に友と敵に二分する論理、、それは単純であればあるほど、最も効果的に政治的動員を実現するものである。その点で、アル=カイーダ
とアメリカ政府のイデオロギーは、双生児のように似ている。

権力・権威→相対化する視点

タリバーン→知的視野の狭い「反啓蒙主義」が涵養された人々



266 『ユダヤ教キリスト教イスラーム』菊地章太 ちくま新書

イスラームは宗教ではない。

イスラーム世界では、イスラーム法がそのままイスラーム社会の法である。

イスラームは都市の宗教である。砂漠の宗教ではない。

ワクフ制度

イブン・スィーナー(イスラーム医学の名医)『典範』

山本周五郎『裏の木戸はあいている』


267 ガルシア=マルケス『ぼくはスピーチをするために来たのではありません』木村栄一訳 新潮社

 彼らにとっては、《黄金郷》と同じで、一度でも思い浮かべたことがあれば、それは現実に起
こったのと同じ意味を備えています。

ファン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』

機知の閃きが感じ取れる感情の激発
 
 自分たちに似ていないものはすべて誤りであり、(ヨーロッパ人)


(以下略)



一、〇〇〇冊になる金融関係読書 

2016年05月13日 | 読書
②終わりに
 百聞は一見に如かずと言いますが、このたびの米国401(k)調査旅行は、文字通り現場の一見により多くのことが背景・事情・哲学等と共に明らかになり、国内の多くの誤報・デッチアゲ・考え違いも明らかになりました。

 一週間、非常にエキサィテングに過ごし、啓発・触発されたことが無数にあります。中でもアメリカという国が人に強烈なエネルギーを与える国だという発見は、まもなく六〇歳になる筆者を二〇歳の若者のように感激させました。それらは、未だに唸りを発していて、この旅行記に納めまとめるのに一ケ月も要してしまいました。

 筆者にとって、この旅行は、1/4世紀に渡る基金業務の経験、一、〇〇〇冊になる金融関係読書、年金ビジョンの論理成立等のフィナーレを飾るに相応しい、楽しくエキサィテングなイブェントとなりました。


出所:401(k)の百聞は一見に如かず   平成十一年七月十八日   米国401(k)調査備忘録   高野 義博




  Amazon ←クリックしてお出かけください。

  年金お悩みなら厚生年金基金アーカイブ  年金関係の本、素材抜粋、カテゴリ-読書等あります。


お読みになった本がありますか? 情緒の力業 文献一覧  50才頃に読んでた本になります!

2016年05月11日 | 読書



*ドストエフスキー『地下生活者の手記』 中村融訳        岩波文庫 昭和二十七年
*A・ブルトン『シュールレアリスム宣言』 稲田三吉訳      現代思潮社 一九六二年
*デカルト『方法序説』 落合太郎訳               岩波文庫 昭和三十七年
*M・ブーバー『孤独と愛』 野口啓祐訳              創文社 昭和三十九年
*M・ブーバー『人間とは何か』 児島洋訳             理想社 昭和三十九年
*本多謙三「有機的自然観」                      不祥 一九三一年
*大岡信『超現実と叙情』                      晶文社 一九六五年
*ボナベントゥラ『夜警』 平井正訳               現代思潮社 一九六九年
*A・ブルトン『超現実主義とは何か』 秋山澄夫訳          思潮社 一九六九年
*L・クラーゲス『意識の本質について』 千谷七郎訳        勁草書房 一九七十年
*K・ヤスパース『実存開明―哲学Ⅱ』 草薙正夫、信太正三訳    創文社 昭和三十九年
*斎藤武雄『ヤスパースにおける絶対的意識の構造と展開』      創文社 昭和三十六年
*L・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』 藤本隆志、坂井孝寿訳 法政大学出版会 一九七二年
*パブロフ『大脳半球の働きについて、条件反射学』 川村浩訳    岩波文庫 一九七五年
*ブリュル『未開社会の思惟』 山田吉彦訳             岩波文庫 一九七七年
*W・ケーラー『ゲシタルト心理学入門』 田中良久、上村保子訳 東京大学出版会 一九七一年
*K・レーヴィット『デカルトからニーチェまでの形而上学における神と人間と世界』 柴田治三郎訳 岩波書店 昭和四十九年
*エムリッヒ『カフカ論』 志波一富、加藤真二訳          冬樹社 昭和四十六年
*R・ムジール『特性のない男』全六巻                新潮社 一九六六年
*H・ブロッホ『夢遊の人々』 菊盛英夫訳           中央公論社 昭和四十六年
*キルケゴール『死に至る病』 桝田啓三郎訳 筑摩書房 キルケゴール全集第二十四巻 昭和三十八年
*キルケゴール『イロニーの概念』 飯島宗亨訳 白水社 キルケゴール著作集二十一 一九六七年
*H・ミラー『わが読書』 田中西二郎訳 新潮社 ミラー全集十一       一九六八年
*J・C・フィルー『精神力とは何か・心的緊張力とその異常』 村上仁訳 文庫クセジュ 一九六二年
*池見西次郎『心療内科』                    中公新書 昭和三十八年
*P・クロソウスキー『かくも不吉な欲望』 小島俊明訳      現代思潮社 一九六九年
*P・クロソウスキー『わが隣人サド』 豊崎光一訳          晶文社 一丸六八年
*ランボオ『ランボオの手紙』 祖川孝訳             角川文庫 昭和三十九年
*R・ジェフリーズ『心の旅路』 山崎進訳             図書院 昭和三十二年
*ボードレール『ボードレール全集I・Ⅱ』福永武彦他訳       人文書院 一九六三年
*ボヌフォア『ランボー』 阿部良雄訳              人文書院 昭和四十二年
*ニーチェ『ニーチェ全集・第二巻・悲劇の誕生他』 塩野竹男訳   理想社 昭和四十八年
*C・ウィルソン『アウトサイダー』 中村保男訳        紀伊国屋書店 一九六三年
*A・ジェフロア『不在の画家アンリーミショー』 小海永二訳     昭森社 一九六六年
*W・ゴンブロブイッチ『フェルディドゥルケ』 米川和夫訳     集英社 昭和四十五年
*鈴本大拙『禅とは何か』                      春秋社 昭和四十年
*B・パンゴー『原初の情景』 中島昭和訳              白水社 一九六八年
*アリストテレス『詩学』 松浦嘉一訳              岩波文庫 昭和四十四年
*M・ボス『東洋の叡智と西欧の心理療法』 霜山徳爾、大野美津子訳      みすず書房 一九七二年
*G・マルセル『存在の神秘・序説』 蜂島旭雄訳          理想社 昭和四十一年
*B・パンゴー『レヴィーストロースの世界』 伊藤晃他訳    みすず書房 昭和四十三年
*J・M・ドムナック『構造主義とは何か』 伊東守男他訳   サイマル出版会 一九六八年
*木村敏『異常の構造』                      講談社 昭和五十四年
*井筒俊彦『神秘哲学』上下                    人文書院 一丸八〇年
*井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』                岩波新書 一九八〇年
*桐山靖雄『変身の原理』                     角川文庫 昭和五十年
*M・エスリン『不条理の演劇』 小田島雄志他訳            文社 一九六八年
*井上靖『わが文学の軌跡』                   中公文庫 昭和五十六年
*鎌田茂雄『中国の禅』                  講談社学術文庫 昭和五十五年
*T・トドロフ『文学の理論』 野村英夫訳             理想社 昭和四十六年
*M・エリアーデ『生と再生』 堀一郎訳           東京大学出版会 一九八一年
*R・バルト『零度のエクリチュール』 渡辺淳、沢村昴一訳    みすず書房 一九八一年
*C・ウィルソン『至高体験』 由良君美、四方田剛巳訳     河出書房新社 一九七九年
*ロブサッーランパ「第三の眼」 今井幸彦訳            光文社 昭和三十二年
*木田元『現象学』                        岩波新書 一九七〇年
*藤枝静雄『空気頭・欣求浄土』                講談社文庫 昭和四十八年
*M・バフチン『ドストエフスキィ論』 新谷敬三郎訳        冬樹社 昭和四十三年
*H・ブロッホ『崩壊時代の文学』 入野田真右訳        河出吉房新社 一九七三年
*M・レリス『成熟の年齢』 松崎芳隆訳             現代思潮社 一九六九年
*保苅瑞穂『マルセルーブルースト』 フランス文学講座第二巻   大修館書店 一九七元年
*V・シクロフスキー『散文の理論』 水野忠夫訳         せりか書房 一九七一年
*埴谷雄高『死霊』 「第一章から第五章」              講談社 一九七六年
*中村雄二郎『共通感覚論』                    岩波書店 一九七五年
*ル・クレジオ『物質的恍惚』 豊崎光一訳              新潮社 一九七〇年
*中村雄二郎『感性の覚醒』                    岩波書店 昭和五十年
*辻邦生「詩的経験としての〈永遠〉の構造」 雑誌「波」       新潮社 一九七九年
*ル・クレジオ『来るべきロートレアモン』 豊崎光一訳     朝日出版社 昭和五十五年
*吉村貞司「爛熟と解体の時に・日本による新しい可能性の探求」     不詳 一九七一年
*R・D・レイン『引き裂かれた自己』 阪本健二他訳       みすず書房 一九七九年
*『易経』高田真治 後藤基巳訳                 岩波文庫 昭和四十八年
*J・モノー『偶然と必然』 渡辺格、村上光彦訳         みすず書房 一九七三年
*宮城音弥『神秘の世界』                     岩波新書 一九七七年
*A・カルペンティエール『バロック協奏曲』 鼓直訳          サンリオSF文庫
*J・ブルセック「中国と西欧における歴史と叙事詩・人間の歴史を理解する相異なる方法にかんする研究」 西川長夫訳 雑誌「ディオゲネス」第二号 河出書房 一九六五年
*プロチノス『エネアデス』 出隆訳                岩波書店 昭和十一年
*A・J・エイヤー『言語・真理・論理』 古田夏彦訳        岩波書店 一九五五年
*W・ブランケンブルク『自明性の喪失・分裂病の現象学』木村敏、岡本進、島弘嗣訳 みすず書房 一九七八年
*W・ケエーフー『心理学における力学説』 相良守次訳       岩波書店 一九七〇年
*K・レヴィン『パーソナリティの力学説』 相良守次、小川隆訳  岩波書店 昭和四十三年
*P・ギョーム『ゲシュタルト心理学』 八木冤訳          岩波書店 一九七〇年
*W・ハイゼンベルク『限界を越えて』 尾崎辰之助訳        蒼樹書房 一九七三年
*N・カザンザキス『その男ソルバ』 秋山健訳           恒文社 昭和四十二年
*外山滋比古『修辞的残像』                    垂水書房 一九六五年
*T・マン『ファウストウス博士』 円子修平訳         新潮世界文学 一九七八年
*粟津潔『ガウディ讃歌』                    現代企画室 一九八一年
*エマソン『代表的人間像』 西本雅之訳     エマソン選集6 日本教文社 一九七二年
*カフカ『カフカ全集』                     新潮社判 昭和四十六年
*B・ラッセル『神秘主義と論理』 江森己之助訳 バートランドーラッセル著作集4 みすず書房 一九五九年
*プルースト『失われし時を求めて・第七巻見出された時』 井上究一郎、淀野隆三訳 新潮文庫 昭和四十年
*F・グリーアスン『近代神秘説』 日夏聡之介訳           牧神社 一九七六年
*F・フェルナンデス「感情の保証と心情の間欠」    野村圭介訳 雑誌「ユリイカ」特集プルースト・現代文学の原点 青土社 一九七六年
*谷崎潤一郎『陰影礼讃』                     中公文庫 一九八六年
*平凡社『哲学辞典』                           昭和四十五年
*M・フーコー『言語表現の秩序』 中村雄一郎訳        河出書房新社 一九七二年
*J・ギュスドルフ『言葉』 笠谷満、入江和也訳         みすず書房 一九六五年
*アジットームケルジー『タントラ・東洋の知恵』 松永有慶訳    新潮社 昭和五十七年
*高野義博『述語は永遠に……』                      昭和五十六年
*孔子『論語』 金谷治訳注                    岩波文庫 一九七八年
*W・ジェイムス『宗教的経験の諸相』 桝田啓三郎訳       岩波文庫 昭和四十四年
*E・ミンコフスキー『精神のコスモロジーヘ』 中村雄二郎、松本小四郎訳 人文書院 一九八三年
*W・ハイゼンベルク『現代物理学の思想』 河野伊三郎、富山小太郎訳 みすず書房 昭和四十年
*井筒俊彦『意識と本質・精神的東洋を索めて』           岩波書店 一九八三年
*A・H・マスロー『完全なる人間・魂のめざすもの』 上田吉一訳 誠俗言房 昭和五十五年
*伊藤栄蔵『大本・出口なお、出口王仁三郎の生涯』         講談社 昭和五十九年
*稲垣足穂、梅原正紀編著『終末期の密教』               産報 一九七三年
*蓮実重彦『表層批評宣言』                    筑摩書房 一九七九年
*出折哲雄『日本宗教文化の構造と祖型』             東大出版会 一九八〇年
*ロロ・メイ『失われし自我を求めて』 小野秦博訳         誠信書房 一九八二年
*M・トゥルニエ『赤い小人』 榊原晃三、村上香住子訳       早川書房 一九七九年
*市川浩『精神としての身体』                   勁草書房 一九七五年
*カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』 木村栄一訳  集英社 一九八三年
*高橋巌『シュタイナー教育入門』                角川書店 昭和五十九年
*岩田慶治『コスモスの思想』               NHKフックス 昭和五十六年
*川喜田二郎、岩田慶治『人類学的宇宙観』          講談社現代新書 一九七五年
*M・ポンティ『知覚の現象学』 竹内芳郎、小木貞孝訳      みすず書房 一九七四年
*山田一彰『失語症の歌……手記・脳外科手術患者の復権』      ぶどう社 一九八〇年
*C・G・ユング他『人間と象徴』 河合隼雄監訳         河出壹房新社一九八三年
*新田次郎『槍ケ岳開山』                    文芸春秋社 一九八〇年
*R・A・ムーディジュニア『かいま見た死後の世界』 中山善之訳         評論社
*ヨハネス・R・コメニウス『大教授学』 鈴木秀勇訳        明治図書 一九七五年
*K・ローレンツ『攻撃』 日高敏隆、久保和彦訳         みすず書房 一九八五年
*E・キューブラ・ロス『死ぬ瞬間』 川口正言訳        読売新聞社 昭和五十九年
*滝浦静雄『言語と身体』                     岩波書店 一九七八年
*M・バック『失語症』 竹田契一、長沢泰子訳        日本文化科学社 一九七三年
*P・ロッシ『普遍の鍵』 清瀬卓訳              国書刊行会 昭和五十九年
*R・シュタイナー『アカシャ年代記より』 高橋巌訳 世界幻想文学大系二十六 国書刊行会 一九八一年
*F・イェイツ『世界劇場』 藤田実訳                晶文社 一九八〇年
*D・バカン『ユダヤ神秘主義とフロイド』 岸田、久米、富田訳 紀伊国屋書店 一九七六年
*A・カルペンティエール『ハープと影』 牛島信明訳         新潮社 一九八四年
*井筒俊彦「意味分節理論と空海」 雑誌「思想」第七二八号           岩波書店
*松長有慶『秘密の庫を開く・密教経典理趣経』            集英社 一九八四年
*木村敏『時間と自己』                      中公新書 一九八六年
*桐山靖雄『密教入門』                     角川書店 昭和五十九年
*K・ウィルバー『構造としての神』 井上章子訳           青土社 一九八四年
*空海『三教指帰』 福永光司訳 日本の名著3          中央公論社 一九七七年
*細川周平『音楽の記号学』                   朝日出版社 一九八一年
*R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』 高橋巌訳 イザラ書房 昭和五十九年
*オテロ=シルバ『自由の王 ローペー・デ・アギーレ』 牛島信明訳   集英社一九八四年
*F・カプラ『タオ自然学』 吉福神逸他訳              工作社 一九七九年
*A・ケストラー編著『還元主義を越えて』 池田善昭監訳       工作社 一九八五年
*ラム・ダス『覚醒への旅』 萩原茂久訳             平河出版社 一九八四年
*G・カブレラ=インファンテ『平和のときも戦いのときも』 吉田秀太郎訳 国書刊行会 一九七七年
*F・カプラ『ターニング・ポクント』 吉福伸逸他訳         工作社 一九八四年
*A・ユパンキ『インディオヘの道』 浜田滋朗訳           晶文社 一九七九年
*ホセ・ドノソ『ラテンアメリカ文学のブーム』 内田吉彦訳  東海大学出版会 一九八三年
*ロア=バストス『汝、人の子よ』 古田秀太郎訳           集英社 一九八四年
*ムヒカ=ライネス『ボマルツォ公の回想』 土岐恒二、安藤哲行訳   集英社 一九八四年
*D・ビアール『カバラーと反歴史 評伝ゲルショム・ショーレム』 木村光二訳 晶文社 一九八四年
*L・ワトソン『スーパーネイチュア』 牧野賢治訳         蒼樹書房 一九八五年
*M・A・アストゥリアス『グアテマラ伝説集』 牛島信明訳    国書刊行会 一九八四年
*村上陽一郎『科学史の逆遠近法』  八             中央公論社 昭和五十七年
*F・イエイツ『魔術的ルネサンス』 内藤健二訳                 晶文社
*バウリン『聞こえない音の秘密』 藤川建治訳        教養文庫八四〇 一九七六年
*ベルタランフィ『人間とロボット 現代世界での心理学』 長野敬訳 みすず書房 一九七三年
*山折哲雄『霊と肉』                      東大出版会 一九八三年
*丸山圭三郎『文化のフェティシズム』               勁草書房 一九八四年
*辻邦生「フィクションヘの道」 雑誌「波」一九八五年六月号           新潮社
*ボルヘス、カサーレス『ブストス=ドメニックのクロニクル』 斉藤博士訳 国書刊行会 一九七七年
*A・ミショー『荒れ騒ぐ無限』 小海氷二訳             青土社 一九八〇年
*K・ウィルバー『意識のスペクトル』 吉福神逸、菅靖彦訳      春秋社 昭和六十年
*吉田喜重『メヒコ 歓ばしき隠喩』                岩波書店 一九八四年
*A・ポルトマン『生物学から人間学へ』八杉龍一訳          思索社 一九八二年
*C・ウィルソン『オカルト』 中村保男訳              新潮社 一九七四年
*O・パス『弓と堅琴』 牛島信明訳               国書刊行会 一九八〇年
*J・ペイザント『グレンーグールド なぜコンサートを開かないか』 本村英二訳 音楽之友社 一九八三年
*井筒俊彦「事々無擬・理々無擬」 雑誌「思想」第七三三号・第七三五号 岩波書店 一九八五年
*川田熊太郎監修、中村元論集『華厳思想』              法蔵館 一九六〇年
*広松渉、港道隆『メルローポンティ』               岩波書店 一九八三年
*宮坂宥勝編『密教の世界』       大阪書籍 朝日カルチャーブックス4 一九八二年
*J・ケロール『真昼・真夜中』 弓削三男訳              白水社 一七一年
*鈴本大拙『華厳の研究』 杉平訳 鈴木大拙全集第五巻             岩波書店
*鈴本大拙『拐伽教』同右
*J・クリシュナムルティ 『クリシュナムルティの神秘体験』 おおえまさのり監訳 中田周作訳 めるくまーる社
*おおえまさのり『カントリーダイアリー 心のエコロジーヘ向けて』  西北社 一九八五年
*山崎正和「文芸時評」               朝日新聞夕刊昭和六十年八月二十六日
*ヴァルター・ベンヤミン著作集「言語と社会」、「ブレヒト」、「プロレタリアートが禁句とされた国」他 晶文社 一九八一年
*持田公子「庭園の眼差しあるいは生成する庭園」 雑誌「思想」第七三五号 岩波書店 一九八五年
*名和太郎『ホロン経営革命』                日本実業出版社 一九八五年
*大河内了義『自然(じねん)の復権』              毎日新聞社 昭和六十年
*B・クズネツォフ『アインシュタインとドストエフスキー 十九世紀の主たる倫理的・美的問題と現代物理学』小箕俊介訳 れんが書房新社 一九八五年
*ブレヒト『肝つ玉おつ母とその小供たち』              白水社 一九七五年
*千田是也『二十世紀の演劇 ブレヒトと私』          読売新聞社 昭和五十一年
*L・エイペル『メタシアター』 高橋康也、大橋洋一訳     朝日出版社 昭和五十五年
*C・フエンテス『アルテミオークルスの死』 木村栄一訳       新潮社 一九八五年
*石井威望『ホロニックーパス』                   講談社 一九八五年
*E・ノイマン『意識の起源史』上下 林道義訳         紀伊国屋書店 一九八四年
*山崎正和『曖昧への冒険』                     新潮社 一九八一年
*L・ワトソン『生命潮流』 木幡和枝、村田恵子、中野恵津子訳    工作社 一九八四年
*A・ポルトマン『生命あるものについて』 八杉龍一訳     紀伊国屋書店 一九七六年
*A・ポルトマン『人間はどこまで動物か』 高木正孝訳       岩波新書 一九八五年
*S・T・ハヤカワ『思考と行動における言語』原書第四版 大久保忠利訳 岩波書店 一九八五年
*F・オコナー『秘義と習俗 アメリカの荒野より』 上杉明訳     春秋社 一九八二年
*井筒俊彦『意味の深みへ 東洋哲学の水位』            岩波書店 一九八五年
*S・スペンダー『エリオット伝』 和田且訳           みすず書房 一九七九年
*B・ルドフスキー『みっともない人体』 加藤秀俊、多田道太郎訳 鹿島出版会 一九七九年
*山本晴義編『現代日本の宗教』                   新泉社 一九八五年
*スワミ・ヨーゲンシヴァラナンダ『魂の科学』 木村一雄訳    たま出版社 昭和六十年
*T・S・エリオット『文芸批評論』 矢木貞幹訳          岩波文庫 一九八五年
*I・A・リチャーズ『文芸批評の原理』 岩崎宗治訳        垂水書房 一九六六年
*渡辺守章『パリ感覚』                      岩波書店 一九八五年
*武者利光・冨田勲対談『電子のゆらぎが宇宙を囁く』       朝日出版局 一九八五年
*J・ラカン『ディスクール』 佐々木孝次、市村卓彦訳        弘文堂 昭和六十年
*R・クレヴェル『ぼくの肉体とぽく』 三好郁朗訳          雪華社 一九八五年
*シュリ・オーロビンド『梵我一如への方法論(知識の道)』 金谷熊雄訳 永田文昌堂 一九七五年
*ヴァスバンドウ『ヴァスバンドウ』大乗仏典第十五巻 梶山雄一、荒牧典俊、長尾雅人訳 中央公論社 昭和五十六年
*G・ショーレム『ユダヤ神秘主義』 山下肇、石丸昭二、井ノ川清、西脇征嘉訳 法政大学出版局 一九八五年
*J・ニーダム『中国の科学と文明』第一巻 東畑精一・薮内清監修   思索社 一九七四年
*大室幹雄『桃源の夢想』                      三省堂 一九八四年
*竹山博英「ギンズブルグとイタリアの〈新しい歴史学〉」 朝日新聞夕刊一九八六年三月十二日
*大室幹雄『園林都市』                       三省堂 一九八五年
*A・ウンターマン 『ユダヤ人』 石川耕一郎、市川裕訳      筑摩書房 一九八三年
*A・カルペンティエール『この世の王国』 本村栄一他訳    サンリオ文庫 一九八五年
*D・フォーチュン『神秘のカバラー』 大沼忠弘訳        国書刊行会 昭和六十年
*山尾三省、S・P・プラブッダ『ガイアと星』            地湧社 一九八六年
*J・レナード『スピリチュアリズムの神髄』 近藤子雄訳     国書刊行会 昭和六十年
*井筒俊彦『コーランを読む』                   岩波書店 一九八三年
*辻邦生『トーマスーマン』                     岩波書店一九八三年
*保苅瑞穂『プルースト 印象と隠喩』               筑摩書房 一九八二年
*エッカーマン『ゲーテとの対話』上 山下肇訳           岩波文庫 一九八三年
*司馬遼太郎『空海の風景』                   中公文庫 昭和五十七年
*野口広『カタストロフィの話 現代数学の社会的応用』 NHKフックス 日本放送出版協会 昭和五十八年
*ユング、パウリ『自然現象と心の構造 非因果的連関の原理』 河合隼雄、村上陽一郎訳 海鳴社 一九八四年
*井筒俊彦「創造不断 東洋的時間意識の元型」 雑誌「思想」第七四一号・第七四二号 岩波書店 一九八六年
*M・アストゥリアス『マヤの三つの太陽』 岸本静江訳        新潮社 一九七六年
*弘法大師『空海全集』第一巻、第二巻              筑摩書房 昭和五十九年
*G・G・レック『トロラクの影のもとに メキシコの村の人生』    野草社 一九八一年
*穎原退蔵校訂『去来抄・三冊子・旅寝論』             岩波文庫 一九八三年
*P・クロソウスキー『バフォメット』 小島俊明訳       ペヨトルエ房 一九八五年
*井筒俊彦対談集『叡智の台座』                  岩波書店 一九八六年
*木村栄一「イスパノアメリカの現代文学と神話的世界」 雑誌「カイエ」特集ラテンアメリカ文学の現在 第二巻十号 冬樹社 一九七九年
*C・G・ユング『元型論』 林道義訳             紀伊国屋書店 一九八三年
*木村敏『自覚の精神病理』                  紀伊国屋書店 一九八〇年
*M・ポラニー『暗黙知の次元』 佐藤敬二訳          紀伊国屋潜店 一九八〇年
*F・ポンジュ『物の味方』 安部弘一訳               思潮社 一九七四年
*F・ポンジュ、P・ソレルス対談『物が私語するとき』 諸田和治訳  新潮社 一丸七五年
*河合隼雄、吉福神逸共編『宇宙意識への接近』           春秋社 昭和六十一年
*P・ラッセル『グローバルーブレイン 情報ネットワーク社会と人間の課題』 吉福伸逸他訳 工作社 一九八五年
*道元語録『正法眼蔵随聞記』 懐奘編 和辻哲郎校訂       岩波文庫 昭和四十一年
*大室幹雄『正命と狂気 古代中国知識人の言語世界』       せりか書房 一丸七五年
*M・H・デープラダ『トンネルの向こう側へ』 大島仁訳       思潮社 一九八四年
*野谷文昭、旦敬介編著『ラテンアメリカ文学案内』         冬樹社 昭和五十九年
*G・ドゥルーズ、F・ガタリ 『リゾーム』 豊崎光一訳 雑誌「エピステーメ」 第二十四巻 朝日出版社 昭和五十二年
*荘周『荘子』金谷治訳注                     岩波文庫 一九七九年
*C・ギンズブルグ『べナンダンディ十六―十七世紀における悪魔崇拝と農耕儀礼』 竹山博英訳 せりか書房 一九八六年
*C・カスタネダ『呪師になる イクストランヘの旅』 真崎義博訳 二見書房 昭和五十九年
*田辺董『ロヨラのイグナチオの神秘体験』              南窓社 一九八六年
*河合隼雄『宗教と科学の接点』                  岩波書店 一九八六年
*大室幹雄『西湖案内 中国庭園論序説』              岩波書店 一九八五年
*A・O・ラブジョイ『存在の大いなる連鎖』 内藤健二訳       晶文社 一九八五年
*A・バンクロフト『二十世紀の神秘思想家達』 吉福神逸訳    平河出版社 一九八四年
*G・ラプテン、A・ウォレス『チベットの僧院生活』 小野田俊蔵訳 平河出版社 一九八四年
*藤原裕『プルーストと音楽』                   皆美社 昭和六十一年
*C・カスタネダ『分離したリアリティ 呪術の体験』 真崎義博訳 二見書房 昭和五十九年
*C・カスタネダ『ドンーファンの教え 呪術師と私』 真崎義博訳 二見書房 昭和六十一年
*松長有慶『密教 コスモスとマンダラ』 NHKフックス  日本放送出版協会 昭和六十年
*F・フェルマン『現象学と表現主義』 木田元訳                岩波書店
*E・べンツ『禅 東から西へ』 柴田健策、榎本真吉訳       春秋社 昭和五十九年
*阿満利麿『宗教の深層 聖なるものへの衝動』           人文書院 一九八五年
*E・レヴィナス『倫理と無限』 原田佳彦訳           朝日出版社 一九八丑年
*南山宗教文化研究所編『密教とキリスト教 歴史宗教と民族宗教』   春秋社 一九八六年
*コルドバ国際シンポジウム『量子力学と意識の役割』        たま出版 一九八四年
*G・スタイナー『言語と沈黙』 由良君美訳          せりか書房 昭和四十四年
*M・了フン『絵画の記号学』 篠田浩一郎、山崎庸一郎訳      岩波書店 一九八六年
*E・T・ホール『文化としての時間』 宇羽彰訳      TBSブリタニカ 一九八四年
*市川浩『〈身〉の構造』                       青土社 一九八六年
*山崎弘行『イェイツ 決定不可能性の詩人』            山口書店 一九八四年
*J・C・オネッティ『はかない人生』 鼓直訳            集英社 一九八四年
*E・T・ホール『かくれた次元』 日高敏隆、佐藤信行訳     みすず書房 一九七一年
*E・T・ホール『沈黙のことば』 国弘正雄、長井善見、斉藤美津子訳 南雲堂 一九八五年
*E・T・ホール『文化を越えて』 岩田慶治、谷泰訳    TBSブリタニカ 一九八四年
*ホーフマンスタール『ホーフマンスタール選集3』 富士川英朗他訳 河出書房新社 昭和五十四年
*番場一郎『ヨーガの思想』 NHKフックス        日本放送出版協会 一九八六年
*三島由紀夫『音楽』                      中央公論社 昭和四十年
*M・エリアーデ『ホーニヒベルガー博士の秘密』 直野敦訳 エディション・アルシーブ 一九八三年
*S・N・ダスグプタ『ヨーガとヒンドゥー神秘主義』 高島淳訳  せりか書房 一九七九年
*空海『即身成仏義』 金岡秀友訳解説               太陽出版 一九八五年
*秋月観映『道教研究のすすめ』                 平河出版社 一九八六年
*G・ショーレム『カバラとその表徴的表現』 小岸昭、岡部仁訳 法政大学出版局 一九八五年
*G・ペイトソン『精神と自然 生きた世界の認識論』 佐藤良明訳  思索社 昭和五十九年
*F・スタール『神秘主義の探求』 泰本融、江島恵教、官本啓一訳 法政大学出版局 一九八五年
*C・カスタネダ『意識への回帰 内からの炎』 真崎義博訳     二見書房 昭和六十年
*S・F・ブレナ『ヨーガと医学』 百瀬春生訳         紀伊国屋書店 一九八三年
*福井康順、山崎宏、木村英一、酒井忠夫監修『道教 第一巻 道教とは何か』 平河出版社 一九八四年
*C・カスタネダ『呪術と夢見 イーグルの贈り物』 真崎義博訳  二見書房 昭和五十元年
*B・バラージュ『視覚的人間 映画のドラマツルギー』 佐々木基一、高村宏訳 岩波文庫 一九八六年
*K・マクドナルド『チベットメディテーション チベット仏教の瞑想法』 ペマ・ギャルポ、鹿子木大土郎訳 日中出版 一九八七年
*井筒俊彦「コスモスとアンティコスモス」 雑誌『思想』 一九八七年三月号   岩波書店
*A・マスペロ『道教』 川勝義雄訳      平凡社      東洋文庫 昭和五十三年
*大室幹雄『新編・滑稽』                    せりか書房 一九八六年
*D・ホーム『断片と全体』 佐野正博訳               工作舎 一九八五年
*P・ワイントロープ編『現代科学の巨人十』 田中三彦、内田美恵、井上篤夫訳 旺文社 一九八五年
*R・N・ウォルシュ十F・ヴォーン編『トランスパーソナル宣言 自我を越えて』 古福仲逸訳編 春秋社 昭和六十一年
*M・エリアーデ『オカルティズム・魔術・文化流行』 楠正弘、池上良雅訳 末来社 一九八四年
*S・B・ダスグプタ『タントラ仏教入門』 宮坂宥勝、桑村正純訳     人文書院 一九八一年
*M・トルガ『方舟』 岡村多希子訳                 彩流社 }九八四年
*辻邦生『楸攬の小枝』                    中央公論社 昭和五十五年
*三島由紀夫「小説とは何か」     雑誌「新潮」臨時増刊三島由紀夫読本 昭和四十六年
*R・デーミル、M・マクマーホン『呪術師カスタネダ』 高岡よし子、藤沼瑞枝訳  大陸書房 一九八三年
*阿部昭『短編小説礼讃』                     岩波新書 一九八六年
*J・L・ボルヘス『伝奇集』 篠田一士訳  集英社 ラテッアメリカの文学I 一九八四年
*H・ブルーム『カバラーと批評』 島弘之訳           国書刊行会 一九八六年
*K・ウィルバー『エデンから・超意識への道』 松尾弌之訳      講談社 一九八六年
*M・チクセントミハイ『楽しみの社会学 不安と捲怠をこえて』 今村浩明訳 思索社 昭和五十四年
*A・ハックスリー『知覚の扉』 河村錠一郎訳         朝日出版社 昭和五十九年
*大室幹雄『アジアンタム頌・津田左右吉の生と情調』        新曜社 昭和五十八年
*E・バーンバウム『シャンバラヘの道 聖なる楽園を求めて』 足立啓司訳 日本教文社 昭和六十一年
*大室幹雄『アレゴリーの堕落』 大室幹雄評論集           新曜社 昭和六十年
*矢島羊吉『空の哲学』 NHKフックス         日本放送出版協会 昭和五十八年





昭和六十二年十一月脱稿
   

卒論執筆時の参考資料―「ヤスパースの暗号について」

2016年05月10日 | 読書
一 ヤスパースの著作
1 Philosophie. Ⅰ Ⅱ Ⅲ Dritte Auflage.
2 Philosophische Logik. Erster Band Von der Wahrheit.
3 Einfuhrung in die Philosophie.
4 Philosophisches Denken.
5 Existenz-philosophie.
6 Vernunft und Existenz.
7 『哲学的世界定位』 武藤光朗訳 創文社
8 『実存開明』 草薙正夫・信太正三訳 創文社
9 『哲学入門』 草薙正夫訳 新潮文庫.
10『理性と実存』 草薙正夫訳 新潮文庫.
11『精神病理学総論』 上巻 田村・西丸・島崎・岡田訳 岩波書店
12『現代の哲学的考察』 徳永郁介・富岡益五郎訳 三笠書房
13『実存哲学』 鈴木三郎訳 理想社
14『リオナルド・ダヴィンチ』 藤田赤二訳 理想社
15『デカルトと哲学』 重田英世訳 理想社
16『カント』 重田英世訳 理想社
17『マックス・ウェーバー』 樺俊雄訳 理想社
18『哲学的自伝』 重田英世訳 理想社
19『ストリンドベルクとファン・ゴッホ』 木村仁訳 みすず書房
20ヤスパース・ツァールント『哲学と啓示信仰』 新井恵訳 理想社
21『現代の精神的状況』 飯島宗享訳 河出書房
22『実存的人間』 鈴三郎編 新潮社
23『哲学の学校』 松浪信三郎訳 河出書房
24 『二―チェ(根本思想)』 草薙正夫訳 創元社
25「戦後保守体制の苦悩」村上淳一訳 雑誌「世界」 昭和四十二年一月号

二 関係著作
26 カント著『純粋理性批判』篠田英雄訳 岩波文庫
27『キルケゴール全集24』 桝田啓三郎訳 筑摩書房
28 『実存主義辞典』 東京堂
29『ヤスパースにおける絶対的意識の構造と展開』 斉藤武雄著 創文社
30『実存哲学の根本本問題』 草薙正夫著 創文社
31世界思想家全書『ヤスパース』 草薙正夫著 牧書店
32『ヤスパース研究』 斉藤武雄著 理想社
33『ヤスパースの実存哲学』 鈴木三郎著 春秋社
34『ヤスパース研究』 鈴木三郎著 創元社
35 『実存の思想』 務台理作編 弘文堂
36『実存主義』 岩崎彰之著 青木書店
37『実存主義の時局観』 斉藤信治著 学芸書房
38『実存哲学』 松浪信三郎著 河出新書
39 『実存主義』 松浪信三郎著 岩波新書
40 『現代と実存』 原佑著 東京大学出版会
41 『詩と哲学』 高坂正顕著 創文社
42 『現代哲学』 高坂正顕著 弘文堂
43 『ヤスパースの芸術哲学』 井村陽一著 美術出版社
44 リオタール著『現象学』 高橋充昭訳 白水社
45 ハイネマン著『実存哲学』 飯島宗享・岩永達郎訳 理想社
46 ヴァール著『実存主義入門』 松浪信三郎・高橋充昭訳 理想社
47 ヴァール著『実存主義入門』 永戸多喜雄訳 人文書院
48 フールキエ著『実存主義』 矢内原伊作・但馬節夫訳 白水社
49 プファイファー著『実存哲学序説』 西田康三郎訳 理想社
50 ボヘンスキー著『現代のヨ-ロッパ哲学』 桝田啓三郎訳 岩波書店
51 鈴木大拙著『禅』 工藤澄子訳 筑摩書房
52 『世界近代詩十人集』 伊藤整編 河出書房新社
53 ヴェルレーヌ著『叡智』 河上徹太郎訳 穂高書房
54 『ワーズワース詩抄』浅野晃訳 元元社
55 デュプレシス著『シュールレアリスム』 稲田三吉訳
56 稲田三吉著『シュールレアリスム』 現代思潮社
57 ブルトン著『ナジャ』 稲田三吉訳 現代思潮社
58 パイユウ著『ランボオと実存主義』 嶋岡晨訳
59 リード著『モダンアートの哲学』 宇佐見英治・増野正衛訳 みすず書房

三 雑誌
60 「実存」 1号~6号
61 「実存主義」 17、20、26、27、28、30号
62 「理想」 178、186、362号
63 季刊詩誌「無限」 昭和 三十六年春号
64 「夕刊タウン」 第 2号

四 その他
65 ドストエフスキー著『地下生活者の手記』 中村隔訳 角川文庫
66 ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』 米川正夫訳 河出書房新社
67 ウィルソン著『アウトサイダー』 中村保男・福田恆存訳 紀伊国屋書店
68 ミラー著『セックサス』 谷口徹訳 教材社
69 ミラー著『我が読書』 田中西二郎訳 新潮社
70 大学講義ノート
以上


昭和四十二年一月一〇日脱稿(二十五歳)




ブレイクスルーな事態

2016年05月02日 | 講演

 事務局から与えられました時間は三十分ということですので、早速、本論を始めさせて頂きますが……その前に、皆さん不思議に思われていることでしょうから、一言お断りしておきます。

 私は、ここの学部を昭和四十二年に卒業して、以来民間企業で三十年ほど働いております「会社人間」です。その会社での担当業務は<厚生年金基金>という企業の年金でして、二十数年同一の仕事を行なっています。ということで、二十数年同一の仕事をするなどというのは一般企業では希なことであって、典型的会社人間というよりアウトサイダー的会社人間ということになります。

 「白山哲学会」のような学究的世界に、私のような会社人間が厚かましくもしゃしゃり出てきましたにつきましては、こちらの針生教授に、今年の七月に発行された校友会報に拙著『情緒の力業』の紹介を書いて頂いておりますので、そちらをご参照頂けたら幸いです。私の本の出版を機会に、少々大袈裟に言えば異業種交流が図られたとでもお考え頂いたら宜しいかと思います。

 そういうことで、以下、私が皆さんにお話することは、皆さんのような学究的な方々にはラチもない三百代言であって、普段親しまれているエレガントなベグリッフの世界からはほど遠い内容かも知れません。ここで、お話させて頂くについては、やはり哲学について皆さんの前で話すべきかとも考えましたが、早々に私の任にあらずと断念致しました。むしろ、会社人間として実業の世界の一端でもお話した方が皆さんにはエキサィティングだろうと考えるに至りました。


 さて、本日のお話の構成は、アリストテレスの「三段論法」でもなく、ヘーゲルの「正・反・合」でもなく、花伝書の「序・破・急」に沿ってお話してみたいと考えました。
 といいますのも、常々、私は「三段論法」や「正・反・合」の西洋合理主義の論理構成、つまり<1+1=2>に対して、何か胡散臭さ、でっち上げの意図を感じておりました。
 それは、ただ単に論理展開ツールとしての仮定にしか過ぎないのではないかと、不信の念に捕らわれていました。 しかし、現代哲学で支配的な考え方は、あくまでも、知的、客観的、科学的合理性追求の姿勢でありましょう。しかし、会社人間の私が日夜格闘していますのは「結論・背景・効果」というような性急なスタイルです。そういうことで、実業の世界には、一片たりとも知的、客観的、科学的合理性追求の姿勢はありませんと断言してもよいようなドロに塗れた世界です。その逆がまかり通っているのが現実です。もちろん、私自身のプライベートな考え方は、著書のタイトルのように、『情緒の力業』なのですが。


(略)


 最後に、花伝書の「急」と行きましょう。日本全体の閉塞状況、つまり従来手法の機能不全の根本原因は<国民の総サラリーマン化>によるものと考えられます。
 役人から始まって、政治家も会社人間も、教育界もスポーツ界も、商売人も経営者も、農家も大工も、……日本のあらゆる場面で、人々はすっかりサラリーマンとなってしまいました。サラリーマンをやっていれば、どうにか事は回っていましたし、どうにか食えたし、また別の意味では、それがあまりに長く続いたことで事を荒立てる必要が無くなってしまったのであります。
 このサラリーマンの手法というのが出る釘は打たれる、横並び発想、群れ思考、角は丸めること、光は削ぐこと、アィディアは殺すこと、農耕村落的発想等々言われているものであります。つまり、最終的には<何もしないこと>がサラリーマンの鉄則となっているのです。

 こういう手法で、グローバル化した世界に立ち向かうというのは何ということでしょう。農耕民族の仲良しクラブで鎖国政策を維持・継続しようとも、グローバル化した世界では狩猟民族の切磋琢磨にとても勝ち目はないでしょう。従来手法の機能不全がこのように、国民の総サラリーマン化によって生み出されたとすれば、それを生み出しました母体は何であったのでしょうか。
 それは、農耕民族である日本の土壌の上に、戦前「満州国」で実験され、日本に持ち込まれた官僚による統制経済、共産主義国家よりも過重な計画経済の導入であったろうと考えられます。官僚による統制は、日本国民の農耕的資質にマッチして国民の自主性をスポイルしてしまい、ハシの上げ下げまで人に言われなければ出来ないような主体性のまったくないロボット人間を大量に作りだしてしまったのです。自らの好き嫌いの判断を行動に示すのではないドブネズミ色の背広集団を作りだしたのです。

 統制・計画経済の手法は、<決める>ということであって、物事が<決まる>ということについては無知であり、<決まる>ということを認めることは論理矛盾でもあります。
 この<決まる>ということを言っている方は、通貨マフィアでもあったかっての大蔵官僚の行天豊雄氏ですが、行天氏は外国との為替交渉の経験からこのような知恵を得られたとのことであります。それなのに、大蔵行政の日々の業務は逆に<決める>ばかりが先行し、あらゆる場面で物議をかもしています。
 世の中には、相手の主張を論破して<決める>という論理形式に対して、浮遊させたまま結論を急がず<決まる>まで放り置くという形式も有りえるのでしょう。
 ただ、今ここで私が考えている「序・破・急」の論理も、そういう<決まる>という事態を前提に、素材をそこへ提供するだけに限定していて、皆さんと議論を戦わしたいと望んでいるわけではありません。

 さて、今、日本は閉塞状況にあって、従来手法の機能不全を招いている場面でいろんなモヤモヤが重く立ちこめています。まだまだ向う側へブレイクスルーしていないプレ・ブレイクスルーな事態にあるのでしょう。唐突ですが、おそらく明治維新前と同じでありましょう。明治時代の人たちには良きにつけ悪しきにつけ、なんと「人物」が多かったことでしょう。あの時代には、人々にヴィジョンが充満していたし、人が生きるというベーシックな次元からの高邁な生が日々の生活に具現していたようです。そこから類推すれば日本人にもそのような品性があるようです。今は何処かに置き忘れているのかも知れません。

 昔、ドイツの哲学者フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ! 」と高らかに叫んだことがありました。今や、日本は戦後の手法の末期症状を呈し、ブレイクスルーを目指して何かが必要になってきたようであります。どなたか、この会場の中からでも「日本国民に告ぐ!」と叫んでもらいたいと思います。そういう伝統が、この「白山哲学会」には脈打っているものと信じております。

 つまらない話しを申し上げました。ご静聴、誠に有難うございました。







出所―平成八年 講演「ブレイクスルーな事態」白山哲学会


アア、シラカバノキジャナイカ

2016年05月01日 | 小説
 そう、あのテント場に着いたのは八月も末で、キャンパーたちはみんな引き上げたあとで草原には一つもテントが無くて……二週間、あそこにテントを張ったままにして……しなけりゃならないのは食事を作る手伝いだけで、日が昇るとテントを出て薪を集めて飯盒の飯を作るだけで、食べ終わるとそのままほったらかして、ゴロッと大地に横になって……行く雲を見たり山々や木々の葉を見たり、飽きれば本をパラパラとめくり、……すべての煩いを投げ出したままにしておいて、時が軀の中をゆっくり濃密に通り過ぎていくのを物珍しく見ていたのだ。
 それは少年の頃、野山で遊んでいたときに感じていた充実感のある何か内から膨らんでくるような空間的な面積、いや容積を持った時であった。以来、ずぅっと忘れていた感覚であった。……人影が見えなくなってしばらくして、二、三人のハイカーがキャンプ場の端を下山していった。鳥取の医大生が一人、キャンプ場の下見に来たのに会ったなぁ……なんでも来年全国の医大生が集まってなんかやるようなこと言っていた……その彼も一泊して帰ってしまい、キャンプ場は人気の無い森閑とした草原になってしまった。
 いつまでも何もしないで居られないような気分になって、明日はテントをたたもうかっていう前の日の夕方……だったかなぁ、三時ごろだったかもしれない。通り雨が朝から気まぐれに何度も降って一日中テントに閉じ込められて……あの日、何度目だったろう、房子の尻をだき抱えたのは。
 意子のとき満たされなかったものが心行くまで堪能できて、軀の中に高圧電源を据え付けたみたいに手指の先や神経の末端が唸りを発していた。猪にでもなってしまったみたい。五感は活力がみなぎっていた。
 ……テントの中で、奥のほうにある小さな手鏡をとろうとして四つん這いになった房子の黒いスラックスを下着ごと引きずり落とし尻をむき出した。大きな桃のようなその割れ目にズブズブと私は入り込んだ。抱えきれないほどの尻をしっかり抱え込んで、霧に煙る三保湾を見下ろしながら射精が始まった。ドクッドクッと傷口から血が吹き上がるように射精しながら、軀はビクッ、ビクッとしびれながら反り返る……どこを見ていたのだろう、何を見ていたのだろう、長いこと焦点も定まらずになにやら宇宙の裏でも見ていたのだろうか。
 ふと、気がつくと、山の辺にたわわな一本の白樺があり、視線はそこに集中していた。どのくらい、見ていたのだろう……射精の大波が収まっていくに従い、まるで長い旅から今帰ってきたかのように……何かを、というか、どこかをグルッと一巡りしてきたかのようにして……アア、シラカバノキジャナイカ、と、白樺を見ている私に気がついたのだ。
 ……射精中から引き続いて魅せられたようにそこへ釘付けにされていたんだなぁ、きっと。幾秒、幾分、いや幾時間を経過したのだろう……そこには何もなかったけど、何だろう、空白……と言っても白い紙があったわけじゃぁない。何だろう……気がついたら、物音が絶えていて、白樺の樹ばっかりがあって……雨に洗われた白樺の葉の、無数の葉の群れが、雲間を切り開き光の板となって降り注ぐ初秋の陽に晒されて、雨脚の駆け抜けた高原に沸き起こった風にハタハタ、ハタハタと数限りなく鳴り渡り、光さんざめいていた。
 それは桐の葉のように馴れ合っていっせいにざわつくのとは違って、各々の葉が孤立していて、ちょうど小判の山をばら撒いたよう。無数の葉が一枚一枚鮮明に見えて、なんだか異様に視聴覚が鋭くなったみたい。可視・可聴範囲が拡張・拡大されたみたい……なんだっていうのだろう、やけにハタハタするじゃないか……湿気がないからか、そんなはずはないけれど、清々しさが異常だ。雨上がりだからかな?、物がみんな水晶みたい、そう、紫水晶のように微かに色がただよい出ている、けがれがなく透明だ。埃なんか、どこにも無いじゃないか! 普段見慣れた樹とはどこかちがうなぁ、幹の白さだって、いつもの白さじゃないみたいだ、言ってみれば、原初の白なのかなぁ……。なんだか今まで見てきた白が白としては贋物みたいな気がする。というより、今まで目にしてきた白が何か被せられた白なのだろう、葉だってそうだ。贋物を掴ませられていたのだ、きっと。
 本当にこんなの見たことないなぁ……手のひらを振っているみたいじゃないか……赤ん坊のような小さな手もありゃあ、相撲取りのような手があって、招くような手があり、……二、三千人分の手が一本の樹に集まったみたい、あらゆる年齢、あらゆる階層、あらゆる人種が密集しているみたい、アア、千手観音なのか。勝手にみんながそれぞれ手を振っている……誰に振っているのだろう?
 ……エッ、この私に、か……私に! 今こうして、女の軀の奥深く身をねじ込んで、女の大きな尻に軀をすっかり密着しているこの私に……女も私もありゃあしない、一塊の肉のドロ団子だ。わが身をそこへ、肉のドロ団子に供えて、私は流動物になったのか。物と物との絡まり合いが角を削り落として団子にしているみたいだ、きっと溶けているのだろう、枕木のようにゴツゴツしている私が。なんだか辺りの様子が変だ、やけに透き通っている……なんだっていうのだろう、あんなに手を振って…… 「さよなら」なのか、それとも…… 「お出で、お出で」なのか。行ってきて帰ろうとしているのか、暮れなずむ浦々を潮が引き上げていくように……。それとも、越えられなかった藪を突き破って、向こう側に転げ落ちた猪なのか、今の私は。
 すると、私はとうとう流れの中に飛び込んだのか……な。辺りは逆巻く奔流、岩を噛む白い渦なのか……。どうなのだろう……。誰がそれを認めてくれるのか……、多分、それは誰にも分からないのだろう、ただ、自分でそれを支える以外には。それにしても、それを支え続けられるだろうか、どんな風にして支えるのだろう? そこに立ちいたれば、そんなことは問題にもならないのだろうか……でも、それは……紫水晶のように奇麗なものであっても、水の中の角砂糖みたいにもろいようだ。角砂糖を紫水晶に変えるなんてことは出来ないのか。
 ……多分、それは存在ではなく状態としてしかありえないのだろう、永遠の。……私も白樺もなくて、私と白樺が一つになっているのか、そういうことなのだろう、これは? 白樺ばっかりで私が居ないのか、私が白樺になって私を見ているのか。それとも、唯、私の居ない風景なのか。あるいは、私も白樺もない世界か。そう、世界がドッキングして唸りをあげているのか、あらゆるものを巻き込んで、物の名を奪って。




出所―昭和五十六年 小説「述語は永遠に・・・・・・」四百字詰め原稿用紙六三六枚脱稿