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タタタッ

抜粋 井筒俊彦 「禅における言語的意味の問題」 『意識と本質』 岩波書店 再読

2016年10月14日 | 哲学


 現代思想は言語に関して多くの根本的な問題を提起した。言語に対する異常な関心は、現代人の思惟を主題的に特徴づけている。「意味」はそれらの根本的問題の中でもとりわけ根本的な問題である。


 現代人にとって、無意味(ノンセンス)に言語を使い、知らず知らずに意味をなさない考えに陥るということは愧ずべきことと考えられている。いかなる形にせよ、無意味を語ることは、現代社会の常識を基本的に規制する科学性に反することだからである。無矛盾性と整合性を原理とする科学的思考は先ず何よりも言葉の有意味的使用を要請する。


 有意味と無意味の問題を禅はどう考えるのであろうか。


 禅はその活動のあらゆる場において、無意味という現象を重視する。


 天龍和尚や倶胝(ぐてい)和尚の一本指。なにをどう尋ねられても、彼らは必ずただ一本の指を立てるのを常とした。無意味である。……。すなわち禅には禅の立場からする独特の有意味性の基準があるに違いない。常識的見地から見て無意味であるものを有意味に転成する、その基準とはどのようなものであろうか。


 「橋が流れている、川は流れない」「山が水上を歩いて行く」


 禅の最も禅らしい言語活動は問答という形をとって展開するが、問答形式では禅独特の無意味性が更に一段とむき出しになる。


趙州(じょうしゅう)禅師「庭前の柏樹子」・洞山禅師「麻三斤!」


 「言語は存在の家だ」(ハイデッガー→ヘルダーリン的言語)


 「言無展事」(洞山守初→不立文字)


 言語に対する禅の態度は著しくダイナミックで行動的である。極限的な精神的緊張の真只中に言葉を投げこみ、その坩堝のなかで一挙にその意味志向性の方向を、いわば無理やりに水平から垂直に捻じまげる。言語は自然に与えられたままの形では全然使いものにならないのである。


 こうして言語はもともと無限定的な存在を様々に限定してものを作り出し、ものを固定化する。


 だか、禅はものの固定化をなによりも忌み嫌う。一切のものを本来無自性と信じ、かつそう見るからである。本来無自性とは、永遠不変の、固定した「本質」などというものを持たないということである。


 ……柔軟性を欠いた存在論(孔子?)は、哲学的にも前哲学的にも、山の本当のあるがままにたいして人を盲目にする、と仏教は考える。


 「万物は我と一体」(僧肇)


 「世人のこの一株の花を見る見方はまるで夢でも見ているようなものだ」(南泉普願禅師)


 禅はこの覆いを一挙に取り払うために言語を使用する。言語の意味的志向性によって分節された存在を、瞬間的にもとの非分節の姿に還らせるために分節的言語を逆用するのである。


 公案として方法的に使われた禅的言表は無意味性に全てをかける。公案は全く無意味(と見える)言表の無意味性を著しく強調し、これを人間意識につきつけることによって、日常的意識をその極限に追いつめ、遂にはその自然的外殻をうち破らせようとする手段である。


 そして意味を考えに考え、遂に理性的思惟能力の窮極の限界点に至り、更に一歩を進めて絶対無意味の世界に飛躍した時、突如としてそこに悟りの境地がある。


 絶対無意味性から先は、いわばこの公案の関知するところではないのである。人がもし己が性のつたなさのゆえに、ここで絶対無の陥穽に落ちこんでしまうなら、ただそれまでのこと。「柏樹子」や「麻三斤」は、この点で、もっと親切である。これらの公案は新しい有意味性の地平を開示する。そこには一たん無化された柏樹が、依然として、柏樹として現存しており、絶対無限定者が刻々に柏樹という形で新しく自己限定していく姿がありありと見える。「山は山、水は水」。無数のものたちが親しげな顔をのぞかせる。駘蕩たる万物の春。禅ではこれを人境不奪の境地と言う。


 換言すれば、「公案以前」は、既に少なくとも一応の精神修行を了り、叡智的能力が働き出した人の使う言語であって、公案修行の主要部分を構成するところの第一次的存在分節(日常的・感覚的な事実としての「山は山」)から絶対的非分節(「山は山にあらず」)に至る過程は、「公案以前」では、単に当然のこととして予想された前提に過ぎない。公案修行のこの段階においては、まったく無意味なものだった禅的言表は、「公案以前」においては、一転して有意味となる。


 常識的には意味をなさない言表を、別の次元で根元的に有意味化する禅的コンテクストとはどのようなものであろうか。


 「人境倶奪」(臨在)


 奪境不奪人的分節においては我に対立すべきものは影すらない。この場合、我は場(フィールド)全体の精神的エネルギーの結晶であり、その限りにおいて存在界の全てだからである。


 日本の禅の伝統では、この「人」を普通に分節されたものとしての人から区別するために特ににんと読む。


*春風駘蕩としてうららかな雰囲気


 以上のように解された絶対無文節態と、その絶対無分節者がそのまま直接無媒介的に顕現して成じた文節態との間に、本来的な禅の言語は働く。仏教の術語を使えば、聖諦と俗諦との間の振幅が、禅的言語の展開する場面である。聖諦とは存在の絶対非分節的次元であり、俗諦とは言語的に分節された存在の次元である。


 洞山禅師の嗣、曹山本寂禅師は「正位は即ち空界にして本来無物、偏位は即ち色界にして万象形あり」


 禅手は言語は必ず聖諦から発する。聖諦から発出した言葉は、一瞬俗諦の地平の暗闇にキラッと光って、またそのまま聖諦にかえる。この決定的な一瞬の光閃裡に神的言語の有意味性か成立する。





*平成二十八年十月十二日抜粋終了
*印は抜粋者のコメントです。




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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2016-10-16 13:47:56
読みやすく、言葉を砕くと教育的で考察な記事だからより多くの人が読めるようになるかもしれません。
Facebook の投稿に写真を添付すれば、少なくてもクリックだけでもするではないかと…

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