影たちの棲む国 価格:¥ 1,631(税込) 発売日:1996-12 |
標記のことばは平成24年8月10日に掲示した言葉です。それを半年以上経った25年3月3日にブログしている。お盆の句を数ヶ月後の桃の節句に書いているわけ。なんで、そんなことをしているかというと、あんまり更新しない我がブログを「たまには新しくしなさい」と某人物からお叱りを受けた。それで書きやすいものから書いて、提出期限のきれた宿題をやっているというのがいきさつです。
さて寺山修司の歌。お仏壇を掃除したのでしょう。手にした位牌の裏に指紋がついて、亡くなった母が紋様のように複雑に思い出される、というお盆にはまったくもってあつらえむきの歌なのです。
しかし、天才寺山修司が、坊さんの下手な説経にうってつけの歌などつくるわけはない。
寺山修司は1983年(昭和58年)に47歳で亡くなっている。母のはつはその後、91年12月に78歳で亡くなる。つじつまがあわない。虚構の歌であるが、寺山修司ファンにはよく知られた事実です。歌人佐伯裕子が『禅文化』誌に次のような文章を寄せている。
寺山は、青森高校1年生の時に、『東奧日報』に「母逝く」という一連を作っている。驚くべきことに、母がまだ健在なのに、すでに亡きものとしてうたった高校生だったのである。
母もつひに土となりたり丘の墓さりがたくして木の実を拾ふ
(途中略)ひとたび生まれたとたん、人は時間からも、血縁の愛憎からも逃れられない。一連の歌からは、虚構とか事実とかを越えた人間存在の深い闇かが浮きあがってくるのである。(2012年223号137頁)
寺山修司の歌論は各種あるので、そちらにおまかせするとして、少し前から佐伯裕子という歌人が気になっている。なぜかというと、佐伯氏に「恋歌 与謝野晶子と古川大航」(『影たちの棲む国』所収)という歌論がある。大筋を書けば、与謝野晶子の「やは肌のあつき血汐にふれもせでさびしからずや道を説く君」の君は、妙心寺派の管長を長くつとめた古川大航師だというのです。推理小説のようなこの歌論。おもしろいのですが、そのことは機会を改めて。