仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか (文春新書) | |
鵜飼 秀徳 | |
文藝春秋 |
毎月の言葉は、すぐに読んでわかるものを選んでいます。でも、2月の芭蕉の俳句は少しばかりわかりにくい。句意は「神域のなかであることだなぁー。思いもかけないことに涅槃図が掛けてあったことだよ」とでもなるでしょうか。涅槃とは、インドの古語でロウソクの火が燃え尽きてすーっと闇の中に消えていくこと。つまり釈尊が消えるように80歳で入滅されたのが涅槃会です。亡くなった年齢や時期については諸説ありますが、中村元博士の学説(80歳)に従います。
涅槃会には、沙羅双樹の林で、頭を北にし、右脇を下にして横たわり、手で枕にした釈尊を描いた図をかけて遺徳を偲びます。涅槃図です。
涅槃図と「おもひもかけ」ない場所で対面したから、芭蕉は驚いて句にしたわけですが、どこで出会ったのか。
「神垣」は字のごとく、神社の垣根の意味だったようですが、のちに「神社、神域」をさすようになります。芭蕉の句の「神垣」は伊勢神宮です。
芭蕉は貞享五年(1688)二月に伊勢神宮を参拝しています。紀行文『笈の小文』の旅です。
そりゃー、現代人が仏涅槃図を掲げる神社があったとしたら、驚いて俳句のひとつもひねりたくなるでしょうが、芭蕉は江戸時代の人です。江戸時代は神仏習合です。習合の「習」の字には「重なり合う」という意味があります。仏教と神道がおたがいいの主体性をおかすことなく、絶妙の間合いで重なり合っていた江戸時代にあっても伊勢神宮は特別で、仏教を排除していたのでしょう。だから、驚いた。
絶妙の間合いで重なり合ったいた接合を強引にはがしたのが、江戸時代後期から明治初年の廃仏毀釈です。廃仏毀釈が、なぜ、どこで、どのように起きたかを著した好著を読みました。鵜飼秀徳著『仏教抹殺』(文春新書)です。新書の後ろ扉に、平成30年12月20日第一刷発行とありますから、出たばかりの本です。
著作の略歴には、「ジャーナリスト、1974年京都市右京区生まれ、報知新聞社、日経BP社を経て、2018年1月に独立、浄土宗正覚寺副住職。」とあります。2015年に出版された『寺院消滅』(日経BP社)の著者でもあります。
ジャーナリストですから、廃仏毀釈の現場へ行き取材します。だから、わかりやすい。これまでの類書では、「なぜ」起きたのかが、いまひとつわからなかったのですが、鵜飼氏の『仏教抹殺』は現場に取材してしているので、そのへんがわかりやすい。そして、廃仏毀釈の激しかった地域のひとつとして、伊勢をあげています。伊勢の廃仏の特徴として、「明治2年(1869)の明治天皇伊勢神宮参拝に端を発する」という。なんと天皇による伊勢神宮の参拝はその時がはじめてであったと。つまり、それまで歴代天皇は、伊勢をお参りしていなかった。
そして、五十鈴川に沿って5分ほど歩き、内宮の裏手にかつてあった、菩提山神宮寺と称する巨大寺院跡を鵜飼氏は取材します。
目の前の姿が何百年間も続いてきた伝統の姿だと思うのは大間違い。昨年(2018年)は明治維新から150年目の年だったといいます。150年の間に寺院と神社の様相は大きく変化しているのですから。「何ごとも移り変わる(無常)」というのは、お釈迦さまの教えの一つです。
〈余談というか〉
芭蕉の「神垣や」の句には本歌があります。「神垣のあたりと思えど木綿襷(ゆうたすき)思ひもかけぬ鐘(しょう)の音かな(六条右大臣北の方ー『金葉和歌集』より)。現代語訳すれば、「神域のあたりとおもっていたが、思いもかけない鐘の音が響いていることだなぁー」。本歌を教示してくれたのは小澤實「芭蕉の風景187」(『ひととき 2017年2月号』ウェッジ)です。現代語訳も小澤實訳です。