赤ずきんのお散歩ブログ

参加したウォーキング、写真付きでご紹介します。
よろしくお願いします。@^-^@ノ

❷名将「本多忠勝」、名刀「村正」ゆかりの地を征く

2021年10月23日 06時00分00秒 | 近鉄ウォーキング

令和3年10月15日(金)

近畿日本鉄道主催  きんてつハイキング てくてくまっぷコース

❶名将「本多忠勝」、名刀「村正」ゆかりの地を征く」の続きです。

 

海蔵寺の本堂前へ戻ってきました。

これから本堂の方へ入ってみます。

 

本堂内です。

誰もいない。。。

 

薩摩義士による治水工事風景

小学生たちの大作です。

 

ご本尊様の左側に薩摩義士の位牌が安置されています。

 

薩摩義士墓所 巡拝案内

 

宝暦治水史跡と木曽三川

 

木曽三川

木曽川、長良川、そして揖斐川は、大小合わせて383支流が合わさって西濃平野より、

丁度漏斗のように寄り添うごとく南下して伊勢湾にそそいでいる。

普段は肥沃な土砂を運び、豊かな水で流域を潤すが、一朝大雨が降れば洪水など手の付かない

暴れ川に変貌する。

尾張藩は犬山より弥富まで48キロメートルにわたって木曽川左岸堤防を高く強固に築き、

不文律ながら、他の堤防はそれより三尺低かるべしとなってしまいました。

この「お囲堤」ができてより慶長14年から宝暦3年までの144年間に、

なんと112回もの洪水により、大被害が相次ぎ周囲を輪のように堤防で囲った

「輪中」という独特の生活様式を営んでいた住民は、田畑・家屋・生命まで、

計り知れない被害を被ってきました。

 

薩摩義士の方々の位牌が並んでいました。

 

理不尽な幕府

幕府も九代将軍家重の代、老中政治でようやくにして、この木曽三川の大治水工事を決意し、こともあろうに

外様大名であり、関ケ原の合戦以来勤倹尚武の薩摩隼人であり、砂糖などの生産その他で、幕府としては

目の上のたんこぶ的な存在の島津藩の財政疲弊をねらって、縁もゆかりもない、三百里も隔てた薩摩の国

島津藩に「お手伝普請」(幕府が設計、監督をして、金と人夫は命ぜられた大名が出す)を命じました。

薩摩では、当然、賛否両論で騒動になりました。

 

平田靭負(ゆきえ)翁木造

(元帝国美術院会員 内藤伸 昭和四年作)

 

平田靭負の説得

鶴丸城では幕府と一戦の声が強かったが、勘定方家老の平田靭負は

「皆の怒る気持ちはこの平田とて同じである。戦さをすれば薩摩の民百姓が一番犠牲になるだろう・・・。

ならばこの島津藩に連綿と続く「日本人は皆兄弟という同胞愛」と「仁義」という精神で、

水におぼれる美濃とやらの人々をお救いもうそうではないか、戦さ以上に苦しいかも知れぬが

成し遂げれば、島津家もご安泰であろう」

情理を尽くした平田の言葉に反対する者もなく、若き藩主、重年公も「辛く苦しいだろうが、

いま平田の申す如く、一同の者、水と闘ってくれぬか」という哀願にも似た言葉に藩士たちは

暗黙の追随をしたのである。

 

悲惨・苦闘の治水工事

当時では、他国ともいえる美濃・伊勢・尾張へ三百里も隔てた治水工事に

947名の薩摩藩士が宝暦4年2月末より、刀を捨てて、水中にはいり、

鍬・掛矢と、幕府の𠮟声を浴び、言葉は通じぬ他国の土地で、朝は朝星・夜は夜星、

一汁一菜にて疲れを癒す風呂もなく、煎餅布団に身をくるみ、故郷を偲び、幾夜枕を濡らしたことであろう。

しかも幕府は村々に高札を立てて、

1、食事は一汁一菜で馳走がましき物は出すな。

2、草履・みのなどは決して安く売るな。

3、宿舎は、板塀などこわれても修理するな。

4、決して差し入れがましき事はするな。

5、幕府の悪口などを聞いたらすぐ密告せよ。

などなど、お手伝いにきた薩摩藩士に非礼な事を土地の人々に命じたのである。

 

余りに大きい犠牲

治水工事が始まって50日、早くも犠牲者が出てしまった。

永吉惣兵衛・音方貞淵の差し違いによる自害です。

しかし、幕府への反抗心からと取られることを恐れ、病死などと偽って報告しなければなりませんでした。

また、葬儀は仕事を終えてから夜にせよとのきつい幕命のため、日が暮れてから各寺を回り埋葬を行いましたが、

幕府を憚り引き受ける寺院はありませんでした。

最後に海蔵寺に願ったところ、十二世雲峰珍龍大和尚は「死者を弔うのは僧侶の務め」と快諾し、

手厚く埋葬して戒名を過去帳に残しました。

 

他の自害者・病死者

他の自害者は病死などとして処理され、海蔵寺など14ヶ寺(幕府方など3ヶ寺を含む)及び

京都1ヶ寺に埋葬されました。

真の死因は公開されず、悲しくもかの有名な「腰の物にて怪我いたし相果て候・・・」

の古文書が薩摩義士の悲劇を今に伝えています。

切腹自害者 51名 

病死者   33名

合計    84名

他に幕府方  2名

人柱     1名

費用は40万両という当時では想像もつかない大金であり、

薩摩に残った藩士・領民も重い税金に苦しんだのであります。

 

薩摩藩士の必死の働きで、さしもの難工事も宝暦5年5月23日をもって幕府の検査がすべて終了しました。

平田靭負は工事完了を国家老と薩摩守に書面にしたため5月25日東天の日の出を拝し、

西に向かって主家の安泰を祈り、

 

住みなれし

里も今更

名残にて

立ちぞわずろう

美濃の大牧

 

という和歌を詠み切腹しました。

辞世の歌ではありますが、自害して果てた部下達を病気、怪我などと届けた手前、

自身のみ辞世を残すことは出来ず、料紙には「平田靭負 正輔」の名前は一切書かれていません。

遺体は、京都伏見にある大黒寺へ向かわれる途中、部下の眠るここ、海蔵寺に立ち寄られましたが、

雲峰珍龍大和尚は、「遺骨のまま京へお送りすることは忍びない。拙僧が読経回向し、旅立っていただきたい」

と懇ろに弔われ、東海道を西へ向かわれたのです。

そのご縁にて海蔵寺に供養塔が建てられました(リーフレットより)

 

悲しい歴史を顧みた赤ずきん

合掌

 

コースへ戻りました。

まだしばらく真っ直ぐ進んで行きます。

 

寺町のバス停

 

これは火の見櫓

消防署でした。

 

おや!?

何かの案内板がありますね。

ちょっと見に行ってみます。

 

通り井

飲み水のために掘られた井戸があったそうです。

 

あれもそうかな?

 

これもそうですよね?

 

中はwww

今は下水溝かな。。

 

寺町通り商店街

通過していきます。

 

貝藤

貝の付くお店が多いです。

 

この銀行の手前の道を左へ入って行きます。

 

細い路地へ

 

(○'ω'○)ん?

どうやら最初の目的地が見えてきましたよ。

ちょっと変わった伝説のある場所です。

 

続きはまたにします。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする