現代版徒然草素描

勝手気ままに感じたままを綴ってみましょう。

つけの構造

2009-07-28 16:46:15 | 社会 経済

 解りやすく書きましょう。この国は多くのつけを先送りしてきたといえるだろう。専門家たちは「そのバランスシートが崩れていない。」というでしょう。

はるか昔の記憶を手繰り寄せている。おそらく、小学校三年か、四年生の頃のことである。私のおじさんは田舎で商売をしていた。お親父は百姓をして頃の話である。

紙に書いたものを持っていけばそれなりの商品が買えることを覚えた。今で言うところの「付け」でものを買ってくるという行為である。輪ゴムと消しゴムが欲しかったので紙に書いておじさんの家に持っていって商品をもらってきた。私にすればそれで済むものだと思っていた。ところが、お袋が払ったのだろう。このことで親父に怒られた記憶は無いのである。怒られたかも知れないが、半世紀も昔のことで記憶していないのだ。

今日のこの国の状態を小学生の間に体験しているとは思わなかった。スケールこそ違うものの、構造は同じことじゃないか。

所得倍増計画とか、高度経済成長とか、列島改造論とか,その時々の目標を掲げそれに向かって邁進してきたじゃありませんか。そして、幸せになったのでしょうか。年間、三万人以上が自殺する国はどこかが異常であるとしか思えないのだが、・・・・・・。

この国ではさまざまなことを先に享受してきたような気がする。その中で発生してきたばら撒きか、無駄使いといわれていることである。国民にしても、「学校が欲しい。橋を架け替えてくれ。医療費は安く。」さまざまな要求を掲げてきた。それらは全てお金であり、税金である。そして、何らかのパワー集団を作り実現させてきたことになる。これが民主主義ということであるが、大きな声の方が通りやすいといえる。全てが悪いといっているのではありません。それに変わるべき良い制度が見つけ出せずにいるだけのことである。

デジタルが社会の全般に広範囲にいきわたれば声なき声を拾い上げることは可能になるのでしょうか。人類はいつ、いくつもの異なった価値を測る共通の物差しを手にすることは出来るだろうか。(政策や経済の分野ではあちらを立てればこちらが立たずという二律背反になってしまいかねない課題が多い。この件に関しては、いずれ「多次元弁証法の軟幾何学的モデルの図式」と「その弁証法的華昇の手段」を投稿する予定でありますが、キャドが出来ません。手書きにしたものを写真投稿する予定にしています。図式にする理由は文章にすれば、A4、10ページを超えてしまうけれど2~3枚で済むということです。)

いずれにせよ、つけは返さなければならないことになる。かつて、田舎の少年は自分の欲しいものを手に入れたけれど結局お袋か親父が払ったことになる。そして、それと同じことが約半世紀近くも繰り返されてきたのだ。そろそろ、皆が10センチほど高い高下駄を履いていたことに気が付くべきだが、・・・・・。


地方経済の再生について

2009-07-25 09:09:59 | 社会 経済

NHKでこのテーマの番組を企画して放送していた(20-12-14、PM9:00。)。具体的な事例を取上げていたので見ていた人たちに理解されやすいものになっている。

「ありのままの田舎」を体験していただく

長崎県松浦市
の取り組みは都会の学生たちを受け入れ、農業の体験や民家に泊まることで、生活産業であり、何も新しいことはしていない。ただ、衛生管理の講習会は徹底的に行っている。本県でも
鬼無里村
などで行われている事であるが、学生たちは大きなって働くようになっても再度訪れてくれるらしい。(地域資本を上手に利用している。)

また、

島根県
では住民出資の会社(組合方式になっているものと思われる。)出液体調味料を生産して年商5億円規模になっている。配当金を払うほかに地域のバスの運行を支援したりして、水道などの管理運営にも当たっているらしい。利益を住民に還元しているのだ。身の丈にあった地域産業である(食品会社は適正規模があるのかもしれない。極端に大きくなってしまうと何らかの弊害があるといえなくもない。)

本当は農産物をそのまま移出するのではなく(野菜や花類はそのままで良いけれど、)地元で加工してその多くを自分たちで売るという第6次産業の構想を、なるべく産地がダブらない方向で生産し都会に供給することを考えなければならないだろう。その付加価値はふるさと納税と同じ効果が期待できる。

一ヶ月の内10日間は

北海道
フェアー,次の週は中部地方というようにまわしていければよいじゃないか。(フェアー以外に欲しい人には産直のシステムを採用すればよい。店舗は廃業してしまったスーパーやデパートのスペースを利用しても良い。)

新たな人のつながりは新しい価値を生み出すチャンスになるのだが、自ら探し続けなければならないし、なんらの行動を起こさなければ地域はけしてよくはならない。その地域にとってはプラススパイラルとなる。いずれも地域振興のお手本になるではないか。このビデオはとってあるが途中からである。

しかし、2030年の地方経済は10%低下するという予測と統計がある。地方再生戦略会議のデーターである。人口減少や、一極集中(都市部集中)ということが加速すると考えられるためである。地方が元気を取り戻して人々が住みたくなるような試みを始めなければならない。

   【この記事は、不況が顕在化してくる前に書いたものであるが、ますます混迷しているこの時期にはさらに意味があるはずだが?】

  注 

島根県
の液体調味料がどんな素材でできているのか確認することを怠ってしまった。ある種の魚を使って魚醤というものなら大変よいものになるし、その粉末ができていれば、添加するものがある(その後、海のペプチドがあるメーカーから供給されるようになった。そちらは多くの商品の基材になるでしょう。試作品のいくつかは出来上がっています。)。それも一種類や二種類ではない。
島根県
鳥取県
の特産物を加工して添加しただけで大変なものになる。

     その長野県版がある。我が家では試作品(市販の醤油に2~3種類の成分を溶かしこんだだけのもの。)お婆ちゃんの健在だった頃から使い出している。おそらく、醤油で食中毒等の予防他は可能と思われる。


海外にシフトし始める

2009-07-24 08:12:10 | 社会 経済

そろそろ真剣になって考えていただきたいことが御座います。今日の経済的な傾向がしばらく続くと仮定しますと、多くの会社が日本を脱出することになります。

円高による利益圧縮効果が働くためです。原因はそれだけではありません。会社はあくまでも利益追求するための組織であり、海外移転しても利益が確保されればそれに越したことは無い。今後、生産部門だけではなく事務的な部分もそうなるでしょう。(それらを総称してアウト・ソーシングと言っている。)

どのくらいの規模になるかは予測できません。そちらの専門家ではないためです。空洞化という現象のことです。シャッター通りと同じようなことが会社に起こってくるということです。そして、そうならないような方策を模索していかなければなりません。


近代の偶像(イドラ)

2009-04-12 13:13:29 | 社会 経済

 社会主義は崩壊したけれど(その制度の内部に潜む非能率な部分「極端な平等は社会の停滞を招く」、競争原理が働かないので技術革新や切磋琢磨するということが少なくなる。何処かの幼稚園や小学校でカケッコのときに手を繋いでゴールさせたと言うおかしな現象が起こってしまいかねない。(この国のある組織がなかなか改革できないでいる背景にこんな要素があるようなことを書いていた週刊誌がある。イソップ物語、228話参照)本来、欲心こそ行動の源である。(88話)」と権力集中による弊害。参考文献、イソップ経済学。)

近代社会は体制のいかんに関わらず高度に発展した商品経済の上に築かれている。近年ではその商品が株式、保険や金融関係のものまで生まれてきている。先物取引やファンドといったまとまったお金のことである。

資本主義もまた資本の論理(一端投下された資本は儲けという恋人を求めて世界中を飛び回る。)や比較生産費の低いところに資本投下されて国内の産業が空洞化してしまい労働力商品がだぶついてしまっている。【このシステムの中では労働力もまた商品ということになる。あなた株式会社、参照】多くの失業者やフリーター・ニートと呼ばれる人々やワーキングファという現象になっている。結局のところ当初の資本主義に戻ってしまっているのではなかろうか。景気変動のたびに多くの失業者や生産過剰部分を調整するということが先の現象(完全失業者を沢山出さない代わりに二重構造として広く浅くなっている。)に変化しているに過ぎないのではなかろうか。

社会保障をはじめとしたセフテイネットが整っているとはいえ年間三万人以上が自殺している社会は何処かが異常である。すべての現象が因果律や相互律ということになるのだろう(何らかの原因があるから現象として発生してきている。)

そして、「我々は今どこにいて、これから、どこへ向かっているのか。夢ナビノートの原理。参照。」も皆目見当がつかずにいるのかもしれない。指導者たちも新たなパラダイム(枠組みや仕組み)を示せずにいるのだろう。【今までのパラダイムが制度の上で疲労を起こしてしまっている。パラダイムがシフトしつつあるのだが、・・・・。】

どちらの体制も近代がもたらしたものであり、その根っこの部分では(生活の便益品を商品にするという大前提と国民経済的に見れば多くの無駄と浪費を制度化しながら、・・・・。

最近、環境問題という視点からその転換が迫られてきている。どんな社会になろうがものづくりをベースにしない社会はやがて衰退するだろう。)大して変わりがなかったと思われる。(何を言いたいのかと言うと、数学の共通項をくくると言う作業をしていただければよく理解できる。A(a+b+c)=Aa+Ab+Acであるが、人間が絡む場合はそう単純ではない。)

そして、この大前提も地球の能力以上にはならないだろう「今の消費レベルを、ずっと維持していくには地球が3個いる。」といっている人達がいる。資源等の争奪戦が繰り広げられている希少資源や環境からの制約を受けつつある時代になってきている(エントロピーという概念はここにも存在するだけでなく、経済学上の収穫逓減の法則や費用逓増の法則の中にもしっかり根付いている。)。そういうものが値上がりするのもまた相互律である。

近代のイドラの最大の課題は資源にしろ、環境にしても、無限にあるという前提の上に構築された夢物語だったのかも知れない。「人々は科学で乗り越えられるものだ。」と錯覚してしまったのかもしれない。それを自動律だといって相互律とペアにしていた学者さんがいる。【参考文献、共同体の提唱、難波田 春夫著 ダイヤモンド・タイム社】一度読んでいただきたい本であるが、絶版になっているかもしれない。

閉じられたシステムの中で目的を達しなければならないのである。具体的に言うと、自然であろうが(その浄化システム)、人工的にでも(人間の努力での自然に帰してやる。)循環できるシステムの構築が急がれている【ゼロ・エミッションの発想。宇宙船地球号の経済学、ゴミを砂金に変える発想、参照】どちらの体制も優先すべきことと解決する手段が違っていただけで到達しなければならないところは同じだったのかもしれない。

 注 ゼロ・エミッション 生産する中で一切の捨てるものが出ないような生産方法のことである。


破局の二つの方向性

2009-01-25 09:15:23 | 社会 経済

カタストロフーとアナストロフーの理論

 破局のモデルとしてトポロジーのカタストロフーの理論が知られている。最近の金融危機もカタストロフーということに分類されてしまうのだろう。

古代ギリシャでは破局を言い表す言葉が二つあったはずである。その一方が忘れ去られている可能性がある。(ネット検索しても出てこない。すでに知られている言葉だと思っていたが、・・・。)

カタストロフーは順調に発展していたものが急に下方へ転換することを意味している。もう一つの考え方は上方に暴走し続けた結果転覆することを言い表すものである。たとえが悪いが、飛行機が着陸しようとして墜落するのがカタストロフーとするなら、テークオフした飛行機が突然空中爆破事故でも起こしたような破局の構造がある。それをアナストロフーという。

今回の金融危機は、まさに後者のモデルに近いと思われる。社会の最先端を自負している金融工学という分野で起こってしまったために、実体経済に波及する速度が速いことに気がつかれたはずである。

以前の不況のように過剰生産によるものではないといえる。バブル崩壊といってしまえばそれまでだが、それともちょっと性格が異なっているような気がしないでもない。

この悲惨なアナストロフーという破局を「突然、やってきたことで予測がつかない出来事だった。」「100年に一度の経済危機だ。」と表現しているのはこのことを的確に言い表しているものと考えられる。

カタストロフーは何らかの兆候が見られるけれど、アナストロフーはよく観察していないと先のような表現になってしまうのだろう(アナストロフーの概念を早くから理解していれば、加速度が付いてしまった現代の社会、経済は相当暴走していたことになるのだけれど、・・・。長い間、過度にアクセルを踏み続ければそれだけ矛盾を溜め込むことになる。自動車でさえ操作不能に陥ってしまうではないか。)。

何人かの敏感な人は察知していたのかもしれない(そのようなことを言っているアナリストがいることはいる。)先の世界的な不況(ブラックマンデー)の前でもケネデー大統領の父親は町で靴磨きから「今度は、どの株が上がりますか。」と聞かれたらしい。「一介の靴磨きまで株の話をしてしまっている。これはそろそろ売り時かもしれない。」【現在で言うところのバブルが起こっていると判断したのだろう。】手持ちの株式を全部売り抜けてしまったらしい。

アナストロフーを避けるためには歴史的な転換点に来ていることをよく承知することであり、柔軟に頭を切り替えることだろう。パラダイムがシフトしていることを知ることだろう。人類はさまざまな分野でパラダイムの切り替えを経験してきた歴史があるではないか。

【パラダイムと言う考えかたを言い出したのはデカルトだが、・・・・。】

何年か前に、竹村健一氏が「複線的思考」といっていたようだが、今までの軌道のちょっと横にもう一本のレールがあることに気づくことである。